【第59話】
南の軍事国家テネブラにおける、ヴェインとセレーナの二度目の対座は、老公爵エドガーの私的な居室において設けられた。
壁一面に古い戦史の書物が並び、巨大な暖炉には春先にもかかわらず煌々(こうこう)と火が焚かれている。
室内には重苦しい熱気と、三つの沈黙だけが支配していた。
ヴェインとセレーナは、重厚な革張りの長椅子に向かい合って座っている。
その間にある低い机の奥で、エドガーは両手を杖の上に重ね、老いた猛禽のような鋭い瞳で二人の若者を交互にねめ回していた。
両国の軍事同盟と、それに伴う政略婚約。
この会談は、その最終的な意思確認の場となるはずだった。
しかし、テネブラの絶対権力者である老政治家は、唐突に杖をついて立ち上がった。
「……軍事的な取り決めについては、すでに盤面に置かれている通りだ。これ以上、老いぼれが口を挟むこともあるまい」
エドガーは、低く嗄れた声で言い放った。
「あとは、当事者たる二人の意見を聞きたい。存分に腹を探り合うがいい」
言うが早いか、エドガーは振り返ることもなく居室の重い扉を開け、外へと出て行った。
バタン、と鈍い音が響き、密室に取り残された二人。
それは、老政治家特有の悪辣とも言える計算だった。
両国の未来を縛る鎖となる二人の力量と、互いをどう評価するかを、一切の助け舟のない極限状況に放り込んで直接試しているのだ。
暖炉の薪が、パチリと小さく爆ぜた。
セレーナは、姿勢を微塵も崩さず、冷たい青灰色の瞳で真っ直ぐにヴェインを見据えていた。
昨日初めて顔を合わせた時の、完璧な氷の鎧はそのままに。
ヴェインもまた、薄灰色の瞳を揺らすことなく、相手がどう動くかを静かに観察している。
数分にも感じられる、濃密な沈黙。
それを自らの意志で破ったのは、やはりセレーナの方だった。
「正直に聞かせてください」
彼女は、前置きも虚飾もすべて切り捨て、単刀直入に核心を突いた。
「あなたはこの婚約を、国を生かすための政治的な道具だと思っているか」
大国の姫君であれば、決して口にしない、あまりにも剥き出しの問い。
自らを国を売るための商品であると、自らの口で確かめようとする残酷な行為だ。
普通の男であれば、口を濁すか、あるいは薄っぺらな愛情の言葉で取り繕うところだろう。
だが、ヴェインの極めて論理的な脳髄には、この密室において嘘をつくという選択肢は最初から存在しなかった。
「……そうです」
ヴェインは、一切の抑揚を排した、氷のように平坦な声で即答した。
「我が国が東の大国ヴェルミリアの侵攻を防ぐためには、南の軍事国家テネブラの強大な盾が必要です。その確固たる同盟の担保として、この婚約以上の効果的な『道具』は他に存在しない。それ以外に理由はありません」
コンマ一秒の迷いもない、血の通っていない完全な肯定。
セレーナの青灰色の瞳が、その残酷なまでの合理性を正面から受け止めた。
彼女の端正な顔立ちには、怒りも、絶望も、悲しみすらも浮かばなかった。
「では、私も道具です」
セレーナは、自らの存在意義を微塵の躊躇もなく定義づけた。
「テネブラという国が、北の辺境を都合の良い緩衝地帯として支配し続けるための、極めて有効な政治の駒。そこに違いはありません」
ヴェインは、薄灰色の瞳の奥で微かに計算式を回した。
彼女は、自分の立ち位置を完全に理解している。
ただ理解しているだけでなく、その絶望的な現実を自らの足場として強固に踏み固めている。
優秀な駒だ。
だが、それだけならば、ただのよくできた精巧な人形に過ぎない。
「……あなた自身は、どう思うか」
ヴェインは、静かに問いを投げ返した。
国家の思惑ではなく、彼女という一個の存在が、この残酷な盤面をどう解釈しているのか。
セレーナは初めて、ほんの僅かに顎を上げ、冷たい炎のような強烈な光をその瞳に宿した。
「道具であることと、道具として『使われる』ことは違います」
ヴェインの呼吸が、ほんの一瞬だけピタリと止まった。
使われることは、違う。
それは、これまで大国の思惑や、他者の盤面の中で翻弄されてきただけの「モノ」であることを明確に拒絶する言葉だった。
「どう違う」
ヴェインの声が、無意識のうちに一段低くなった。
「道具には、意志がない。……私には、意志がある」
セレーナの硬く澄み切った声が、密室の空気を鋭く切り裂いた。
祖父エドガーに命じられるままに嫁ぐわけではない。
大国の圧力に屈して自分を売るわけでもない。
自らが国家の道具であることを完璧に理解した上で、自らの意志でその役割を選び取り、自らの足でこの盤面の上に立っているのだという、気高いまでの独立宣言。
その瞬間。
ヴェインの脳内で、セレーナ=テネブラという存在の定義が、劇的な音を立てて書き換えられた。
彼女は、ただの便利な機能を持った駒ではない。
独自の思考を持ち、国家という巨大な怪物すらも自らの目的のために利用し得る、独立した『人間』なのだ。
ヴェインは初めて、目の前に座るこの女を、自分と同等かそれ以上に危険な質量を持った、一個の人間として明確に認識した。
暖炉の火が、彼女の金茶色の髪を赤く照らし出している。
長い、しかし互いの認識を決定的に変容させた沈黙の後。
ヴェインは机の上で静かに両手を組み、相手に対する最大限の警戒と、そして微かな敬意を込めて、抑揚のない声で言った。
「……では、その意志を聞かせてください」
愛や情といった不確かなものではない。
互いの冷徹な論理と意志だけを剥き出しにして結びつく、いまだかつてない「共犯関係」の幕が、重々しい音を立てて上がったのであった。




