【第57話】
南へ向かう険しい山道に、三頭の馬の蹄の音が規則的に響いていた。
大国ヴェルミリアの監視の目を欺くため、そして何より余計な虚飾を省くヴェインの極端な合理主義により、グレイヴァルからの使節は大規模なものではなかった。
護衛として選ばれた歴戦の傭兵クロードと、身の回りの世話や野営の準備を理由に同行を志願したエラ。
そして、ヴェイン本人のみという身軽な旅である。
春の中頃とはいえ、テネブラ国境へと続く山脈の風はまだ冷たい。
無言で馬を並べて進む中、先頭を行くクロードが、ふと背中越しに口を開いた。
普段は警戒を怠らない彼にしては珍しく、雑談めいた響きがあった。
「……セレーナという娘のことは、知っているのか」
それは、これから面会し、あわよくば婚約の盟約を結ぶことになるテネブラの姫君の名前だった。
ヴェインは馬の歩みを緩めることなく、脳内にストックされた情報を機械的に読み上げるように、抑揚のない声で答えた。
「エドガーの孫だ。年齢は十九歳。幼い頃から、他国との交渉の切り札として、政略婚約に慣らされて育ってきたと聞いている。南の軍事国家の誇りを体現するような、気丈な女だそうだ」
「人間としてはどうだ」
クロードが、意地悪く問う。
情報としての価値ではなく、これから一生を共にするかもしれない血の通った一人の女としての輪郭。
しかし、ヴェインは瞬き一つせず、極めて平坦に事実のみを口にした。
「会ったことがない」
クロードが鼻を鳴らし、呆れたようにため息を吐く。
「おまえらしい答えだがな。相手がどんな性根だろうが、軍事同盟という盤面の条件さえ満たせば、木彫りの人形でも抱くって腹か」
ヴェインは答えなかった。
肯定も否定もしない。
彼にとって、結婚とは国家を存続させるための『取引』であり、個人の感情や相性などという不確定要素が入り込む余地は最初からないのだ。
「……怖くないの?」
不意に、横に並んで馬を進めていたエラが、透き通るような声で問いかけた。
彼女は手綱を握ったまま、鳶色の瞳でヴェインの横顔をじっと見つめていた。
その表情には、クロードのようなからかいの色は一切なく、ただ純粋な、根源的な疑問だけが浮かんでいる。
「何が」
ヴェインが首だけを巡らせ、聞き返す。
「会ったこともない人と、夫婦になるって」
エラの言葉は、春の冷たい風に乗って、ひどく真っ直ぐにヴェインの鼓膜を打った。
夫婦になる。
それは、裏街で泥に塗れて生きてきたエラにとってすら、互いの魂を預け合う最も特別な関係のはずだ。
それを、顔も知らない、人間性もわからない相手と、国という巨大な化け物を満たすための生贄として結ばれる。
その得体の知れない恐ろしさに、彼女は無意識のうちに身震いしていた。
ヴェインは、手綱を握る手を微かに止め、少しの間だけ沈黙した。
怖いか、と問われた。
大国の軍隊も、暗殺者の刃も恐れない彼にとって、一個人と生涯を共にするという行為が恐怖の対象になり得るのか。
己の心臓の底を覗き込もうとするかのように、彼は薄灰色の瞳を伏せた。
しかし、彼が導き出した答えは、やはり極寒の論理の海から引き揚げられたものだった。
「……怖いかどうかより、必要かどうかで動く」
氷のように冷え切った、平坦な宣告。
それは、エラが本当に聞きたかった『人間としての感情の揺らぎ』への答えにはなっていなかった。
恐怖を感じるかどうかの問いに対し、恐怖の有無すらも計算式から除外し、ただ「必要性」という結果だけを提示する。
あまりにも強固で、そして悲しいまでの王の鎧だった。
「……そっか」
エラは短く呟き、それ以上は何も追及しなかった。
彼女はゆっくりと視線を外し、再び馬の耳の先、遠く続く山道へと前を向いた。
その横顔には、怒りも悲しみもない。
ただ、自分には到底届かない分厚い氷の壁を前にして、どうすればいいのかわからないという、微かな諦めと寂しさが滲んでいた。
ヴェインは、前を向いたエラのその小さな横顔を、一瞬だけ無言で見た。
なぜ自分が今、彼女の横顔を盗み見たのか。
論理では説明のつかない微かな挙動。
だが、彼はすぐに薄灰色の瞳を鋭く細め、その正体不明の感覚を己の心の最も深い底へと重い蓋をして沈み込ませた。
やがて、山道を下り始めた三人の視界に、圧倒的な質量を持った景色が広がった。
南の軍事国家テネブラシアの領土。
国境を覆い尽くすように群生する、黒々とした針葉樹の深い森である。
天を突くような大樹の群れが、春の陽光を容赦なく遮り、眼前の空を異様なほど狭く、暗く切り取っていく。それはまるで、自らの意志を殺し、国という巨大な檻の中へ自ら足を踏み入れようとしているヴェインの未来を、そのまま暗示しているかのようだった。
「……着くぞ」
先頭のクロードが低く唸る。
森の奥から吹き抜けてくる風には、グレイヴァルとは違う、鉄と血の冷たい匂いが混じっていた。
血の流れない戦争——『政略』という名の残酷な舞台の幕が、重々しい音を立てて開こうとしていた。




