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灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
第2部

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【第56話】



 雪解けの泥が乾き、グレイヴァルへの街道が再び確かな硬さを取り戻した春の半ば。



 城の応接室には、大国の傲慢さを絵に描いたような、重苦しい威圧感が立ち込めていた。



 上座の長椅子に深く腰掛けているのは、東の巨大帝国ヴェルミリアから遣わされた初老の外交官である。


豪奢ごうしゃなビロードの外套がいとうには、大国の威信を示す金糸の刺繍ししゅうが施され、その瞳には辺境の小領主を明確に見下す冷ややかな光が宿っていた。



 対するヴェインは、簡素な灰黒色の外套をまとったまま、長机を挟んで静かに対峙たいじしている。


傍らには、一切の感情を排した顔で記録用の羊皮紙を広げるミレイユが立っていた。



「……先日の、旧体制下における『鉱山採掘権』の再交渉の件。我が国としては、一定の譲歩を見せる用意がある」



 外交官が、鷹揚おうように切り出した。



 以前でヴェインが突っぱねた、バルト時代からの不平等条約。


それをヴェルミリア側から譲歩してくるというのは、一見すれば破格の歩み寄りに思える。


だが、大国が理由もなく辺境に頭を下げるはずがない。


その裏には、必ず致死量の毒が盛られている。



 ヴェインは薄灰色の瞳を瞬き一つさせず、続きを促すように無言で待った。



「ただし、条件がある」



 外交官は、勿体もったいぶるように声を低くした。



「我がヴェルミリア王国は近く、国境を脅かす東方の蛮族どもを討伐するための大規模な『東方遠征』を計画している。グレイヴァル辺境領からも、この聖戦に際して五百の兵を供出せよ。……大国の庇護ひごの下にある属国としての、当然の義務としてな」



 兵力の供出。


それは、他国の戦争に自国の血肉を注ぎ込むという絶対服従の証だ。



 帰農騎士の制度を立ち上げ、ようやく自国の防衛線を構築し始めたばかりのグレイヴァルに、五百もの兵を割く余裕などあるはずがない。


そもそも、属国として従属する気などヴェインには欠片かけらもなかった。



「……お断りする」



 ヴェインは、極めて平坦な声で即答した。



「我が国は、南のテネブラとの間に不可侵および緩衝地帯化の条約を結ぶ準備を進めている。テネブラとの軍事的均衡を保つためにも、東方への派兵は不可能だ。第一、現時点でヴェルミリアに兵を差し出すような従属の盟約は結んでいない」



 外交官の顔に、不快げなしわが刻まれた。



 だが、彼はすぐに嘲笑ちょうしょうを含んだゆがんだ笑みを浮かべ、あらかじめ用意していた最大の『えさ』を盤面に放り投げた。



「若き領主殿。血気にはやるのは結構だが、自らの足元をよく見るべきだ」



 外交官は、声を潜めてささやいた。



「我が国の宮廷には今、前領主ヴァルター殿を殺害した大罪人、叔父のガレン殿が身を寄せている。彼を正当なグレイヴァルの継承者として担ぎ上げ、武力をもってその玉座を奪い返そうとする声が、我が国の貴族たちの間で日増しに高まっているのだよ」



 大義名分を盾にした、あからさまな軍事介入の恫喝どうかつ



 外交官は勝利を確信したように、傲慢な笑みを深めた。



「だが、もし貴殿が遠征への兵の供出を約束するならば……我が国はガレン殿を『反逆者』として捕縛し、貴殿の元へ引き渡す用意がある。親のかたきを自らの手で討つ権利を、特別に与えてやろうというのだ。悪い取引ではあるまい?」



 五百の兵の血と引き換えに、復讐の果実をくれてやる。



 並の領主であれば、怒りに我を忘れて大剣を抜くか、あるいは恐怖と憎悪の板挟みになって屈服するかの二択だろう。



 だが、ヴェインの薄灰色の瞳には、怒りも、焦りも、一切の感情が浮かんでいなかった。


彼はただ、机の上で組んだ両手の指先を微かに動かし、冷徹な計算式を弾き出した。



 ——生きたガレンは、情報源だ。



 ペトラに告げた通り、ヴェインにとっての復讐はすでに『利用の論理』へと変換されている。


大国が安易にそのカードを切ってきたということは、宮廷内でのガレンの利用価値が下がりつつあるか、あるいは本当に東方遠征への兵力が喉から手が出るほど欲しいというヴェルミリア側の焦りの裏返しだ。



「……なるほど。魅力的なご提案だ」



 ヴェインは静かに言い、傍らで羽ペンを握るミレイユへと視線を流した。



 そして、氷のように冷え切った、抑揚のない声で外交官に向かって宣告した。



「ガレンは、先代領主を暗殺し、国を売り渡そうとした明確な反逆者であり、我がグレイヴァルの処断対象です」



 ヴェインは、一語一語を刃のように研ぎ澄ませて紡いだ。



「その彼を『引き渡す』という貴国の提案は、大国ヴェルミリアが公式に、我が国の重大な国事犯を意図的に庇護ひごし、かくまっていたという事実を認める発言に他なりません」



 ピタリ、と。


外交官の顔から、傲慢な笑みが完全に消え去った。



「大国が、他国の国事犯を利用して内政干渉を企てていた。これは、南のテネブラや、西のアイゼンブルクの商人たちにとっても、極めて重大な『外交上の不信』を招く事実です。……今のあなたのご発言、公式な外交議事録として、この場で記録させていただいてよろしいでしょうか」



 言葉を、完全な論理の刃として相手の首筋に突きつける。



 アルフの法解釈と、ミレイユの記録主義。


それらすべてを吸収し、洗練させたヴェインの狂気じみた外交手腕が、大国の使者を完全に絡め取った瞬間だった。



「き、貴様……っ! ただの例え話にすぎん! 言葉尻を捕らえる気か!」



 外交官が顔を真っ赤にして立ち上がった。


先ほどの威圧感は見る影もなく、失言の責任を問われる恐怖に震えている。


大国とは、面子めんつと大義名分でできている怪物だ。


それが崩れれば、彼の首など一瞬で飛ぶ。



「例え話であれば、最初からそのような取引を持ち出すべきではない」



 ヴェインは瞬き一つせず、冷酷に言い放った。



「お引き取りを。兵の供出も、条件の受け入れも、一切お断りする」



 会談は、完全な決裂に終わった。



 憤怒と屈辱で顔をゆがめた外交官は、応接室の重厚な扉を乱暴に開け放ち、捨て台詞ぜりふを吐き捨てた。



「……後悔するぞ、辺境の若造が。この件は、我がヴェルミリアの王に直接報告させていただく! 大国の怒りがどういうものか、いずれその身で思い知るがいい!」



 コンラート王。



 大陸の東半分を支配し、無数の諸侯を従える大国の絶対的頂点。


その名前が出た瞬間、執務室の空気が一段と重く冷え込んだ。


しかし、ヴェインは長椅子から立ち上がることもなく、ただ薄灰色の瞳で扉の向こうの外交官を静かに見送った。



「そうしてください」



 抑揚のない、平坦な声が背中に投げかけられる。



 大国の怒りなど、最初から計算の内だ。


むしろ、使者を怒らせて追い返すことで、ヴェルミリア内部の派閥争いを激化させ、時間を稼ぐ。



 ヴェインの視線の先には、もはや目の前の外交官ではなく、はるか東の玉座に座る「見えない怪物」——コンラート王との、壮絶な大諸侯外交の盤面が、冷たく、そして明確に広がり始めていた。



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