【第55話】
一年目の過酷な冬が終わりを告げ、グレイヴァルの大地に雪解けの泥濘が顔を出し始めた頃。
領主執務室に持ち込まれたのは、春の暖かな兆しではなく、大陸全土の秩序を内側から焼き尽くそうとする「狂熱」の足音であった。
「……シビラの動きが、いよいよ無視できない規模に膨れ上がってきているよ」
ペトラは机の上に数枚の羊皮紙を無造作に放り投げ、腕を組んで深く息を吐いた。
シビラ。
白銀の髪を持ち、土着信仰『緑祈』の巡礼者たちを率いる謎の女。
かつてはただの貧しい農民たちの小さな集まりに過ぎなかったその波が、冬を越える間に、恐るべき速度で大陸を飲み込み始めていたのだ。
「テネブラ南部の国境地帯から、このグレイヴァルの北部に至るまで、緑祈の集会が急増している。信者の数はもはや万単位だ」
ペトラの飄々とした声にも、隠しきれない警戒の色が滲んでいる。
「問題は、大国の精神面を支配している『国教会』が、完全に彼女を敵と見なしたことさ。連中、シビラを『危険な扇動者』として正式に指名手配に近い通達を出した。異端審問官の武装僧兵たちが、血眼になって彼女の足跡を追っているらしい」
国教会。
大国ヴェルミリアの権威と結びつき、大陸の法と道徳を支配する巨大な宗教組織。
武力を持たないただの巡礼者の群れが、その絶対的な権力機構と正面から衝突しようとしている。
それは、大国同士の軍事的な探り合いとは次元の違う、理屈の通じない「信仰」という名の予測不能な嵐だった。
「……会ってみたい」
重苦しい沈黙が落ちた執務室に、ひどく場違いな、透き通るような声が響いた。
部屋の隅で暖炉の灰を片付けていたエラだった。
彼女は作業の手を止め、炭で少し汚れた頬のまま、平坦な鳶色の瞳に不思議な熱を帯びて立ち上がっていた。
彼女の胸元には、常に『息吹束』が隠されている。
緑祈——それは、かつて裏街の泥の中で一人きりだった彼女を、見えない誰かと繋いでくれた唯一の無垢な祈りだ。
その祈りの中心にいる白銀の髪の女に、エラの純粋な魂が強烈な共鳴を示したのである。
「まだ早い」
しかし、ヴェインは羊皮紙の地図から視線を上げることなく、氷のように冷え切った、抑揚のない声で即答した。
「なぜ?」
エラが、納得できないというように小さく首を傾げる。
ヴェインはゆっくりと顔を上げ、エラの目を真っ直ぐに見据えた。
「シビラが、何者かわからないからだ」
「何者って……私たちと同じ、祈る人でしょ?」
「それは彼女の『表面』だ。あの熱狂の裏で、彼女が意図的に群衆を操っているのか、それともただの神輿に過ぎないのか。……わからないものは、盤面に置かない。近づかない。それが鉄則だ」
エラは唇を少しだけ尖らせ、不満そうに視線を伏せた。
彼女にとって、信仰は打算のない純粋な拠り所だ。
だが、極限の合理主義者であるヴェインにとって、数万の人間を動かす宗教は、大国の軍隊以上に危険な『政治的質量』でしかない。
安全装置の構造が解明できていない爆弾に、自ら触れに行くような真似は絶対にしないのだ。
「……でもさ」
険悪になりかけた空気を割るように、ペトラが机の角に腰掛けて口を挟んだ。
「国教会がそこまで血眼になって追い回しているってことは、少なくとも彼女は国教会——ひいては大国ヴェルミリアの『敵』ってことだろ? 敵の敵は味方って言うじゃないか。あの熱狂をうまくこっちの陣営に引き込めば、ヴェルミリアに対する強烈な牽制になる。盤面としては、プラスなんじゃないの?」
裏社会の顔役らしい、極めて実利的な計算だった。
実際、辺境の小さな砦に過ぎないグレイヴァルが、大国と正面から渡り合うためには、他者の力という毒を利用するしかない。
それが異端の宗教狂いであっても、利用価値があるなら手を結ぶのが謀略の基本だ。
しかし、ヴェインは薄灰色の瞳の奥に漆黒の炎を微かに揺らし、ペトラの浅い計算を冷徹に切り捨てた。
「プラスかどうかは、彼女が『何を望んでいるか』による」
「望み?」
「ああ」
ヴェインは机の上の地図——テネブラからグレイヴァルへと引かれた、シビラの足跡の仮想線を指でなぞった。
「権力が欲しいのか、国を創りたいのか、あるいは……ただ世界を壊したいのか。敵の敵が味方になるのは、互いの『目的』が物理的な利益の範囲で妥協できる時だけだ。もし彼女の望みが、我々の法や国家という枠組みそのものを否定するような『狂気』であった場合、引き込んだ瞬間にこの国は内側から食い破られる」
わからないものを、ただ排除するわけではない。
だが、安易に利用することもしない。
極限まで情報を集め、相手の真の目的を解剖し尽くすまで、徹底的に「保留」する。
それが、ヴェイン=グレイハルトという王の恐るべき自己制御能力であり、統治の冷酷な哲学であった。
ペトラは呆れたように肩をすくめ、「相変わらず、可愛げのない盤面の読み方だね」と小さく呟いた。
だが、部屋の隅に立つエラだけは、ヴェインのその冷たい論理の奥に、かつてないほどの『警戒』が潜んでいることを本能で察知していた。
ヴェイン自身も無意識のうちに気づいているのだ。
論理と計算で組み上げたこのグレイヴァルという国が、最も脆く、最も対抗し得ないもの。
それは、理屈を一切必要としない、シビラやエラが抱くような「祈り」という名の、圧倒的に純粋な感情であることを。
窓の外では、雪解けの風が冷たく吹き抜けている。




