【第54話】
血と炎にまみれた奪還の夜から、ちょうど一年。
グレイヴァルの大地は、再び深く白い雪に覆われていた。
だが、昨年のようにただ凍え、大国と暴君の鞭に怯えるだけの死に絶えた冬ではない。
城下町の煙突からは途切れることなく薪の煙が立ち上り、人々の吐く白い息には、明日を生き延びるための確かな熱がこもっていた。
城の領主執務室では、暖炉の火が爆ぜる音を背景に、ミレイユが一年目の最終的な冬季財政報告を行っていた。
「……銀流川の橋が開通したことによる商業流通の改善は、劇的でした」
ミレイユは帳簿から視線を上げ、硝子のように冷ややかな瞳でヴェインを見据えた。
「アイゼンブルクとの物々交換協定も機能し、関税と合わせた秋の最終的な税収は、前年比で実に一・四倍を記録しています。金貨三十枚の負債はすでに完済し、国庫は首の皮一枚で破綻を免れました」
数字の亡者が弾き出した、奇跡的なまでの回復曲線。
だが、ヴェインの薄灰色の瞳は微塵も緩むことはなかった。
彼は机の上で静かに両手を組み、冷徹な王として次なる懸念材料を待った。
「しかし、喜べる数字ばかりではありません」
ミレイユの声が一段低くなる。
「流浪の民による西の荒野の開墾は進んでいますが、長年放置された土壌の回復は予想以上に遅れています。人口増加に対する現在の食料自給率は、未だ七割。不足分はアイゼンブルクからの輸入で補っていますが、この不均衡が続けば、いずれ大国の経済干渉を招く隙となります」
自給率七割。
それは、もし他国に物流を封鎖されれば、領民の三割が餓死するという明確な死の宣告だ。
「来年の収穫が、鍵です」
ミレイユは帳簿をパタンと閉じ、残酷な事実を突きつけた。
「凶作が来れば、この一年で積み上げた砂上の楼閣はすべて崩れ去ります。来年の秋、この土地がどれだけの麦を実らせるかに、グレイヴァルの命運のすべてが懸かっています」
「……わかっている」
ヴェインは短く答え、窓の外の雪景色へと視線を移した。
盤面の足場は固まりつつある。
だが、自然という名の巨大な暴力と、息を潜める大国の影は、常にこの辺境の喉元に冷たい刃を突きつけていた。
その日の夜。
普段は冷え切った静寂に包まれている城の大広間が、珍しく賑やかな喧騒と熱気に満ちていた。
長机の上には、アイゼンブルクから輸入された塩漬け肉のスープや、領内で採れた根菜のシチュー、そして粗末だが温かいパンが並べられている。
この一年、それぞれの持ち場で血反吐を吐くような実務に追われていた者たちが、冬の到来という節目に、初めて一堂に会して食事を取る場であった。
「だから、その条文の解釈は現行の商法と矛盾するのです! ロベール殿、あなたは数字ばかり見て法の精神を蔑ろにしている!」
「まあまあアルフ殿、そう固いことを言わずに。商売ってのは、法が追いつく前に利益をかすめ取るのが醍醐味なんですから」
机の端では、分厚い法典を抱え込んだアルフが顔を真っ赤にして抗議し、アイゼンブルクから来たロベールが人懐っこい笑みでそれをのらりくらりと躱している。
その隣では、老工兵のハインツが美味そうにエールを煽りながら、巨漢の傭兵クロードと何やら武骨な冗談を交わしていた。
普段は人を斬り殺すような殺気を纏っているクロードが、珍しく相好を崩し、低く嗄れた声で笑い声を上げている。
ふと、クロードの視線がテオの方へと流れた。
エラの隣に座るその少年は、今夜だけはスープの椀を前に行儀よく背筋を伸ばしている。
だが、その右手の親指の付け根には、ここ数ヶ月で新しくできた、薄い赤茶色のタコが固くついていた。剣の柄を毎日握り続けた者だけが持つ、紛れもない痕だ。
クロードは笑い声を上げたまま、その痕には一切触れなかった。
半年前から始めた剣の稽古で、テオは飲み込みが早い。
無口で、余計な質問をしない。
ただ示された動きを黙って何百回も繰り返す。
傭兵崩れの目には、その繰り返しの密度が、生きることに飢えている者の質量として正確に映っていた。
(まだ、戦場には出さない)
クロードは視線を外し、ハインツとの話に戻った。
そして机の中央では、エラが読み書き小屋に通う孤児のテオとフィンを両脇に座らせ、忙しそうに世話を焼いていた。
「テオ、スプーンはこうやって持つんだよ。こぼさないようにね」
エラが優しく教える横で、裏街の顔役であるはずのペトラが、立ち上がって身を乗り出し、食べるのが遅いフィンの前にあった冷めたシチューの皿を、温かいものと手際よく取り替えてやっていた。
「ほら、食える時に腹いっぱい食っときな。冬は脂肪がないと凍えちまうよ」
ペトラは飄々(ひょうひょう)とした口調で言いながらも、その手つきには、裏街の過酷な冬を生き抜いてきた者特有の、不器用だが確かな優しさが滲んでいた。
ミレイユすらも、手元の小さな手帳に数字を書き込みながらではあるが、その輪の中で静かにスープを口に運んでいる。
身分も、出自も、抱えている過去の闇も全く違う異端者たち。
彼らが一つの火を囲み、同じ飯を食い、笑い合っている。
それは、かつてのグレイヴァルでは決してあり得なかった、奇跡のような光景だった。
ヴェインはただ一人、長机の最も端——暖炉の火の光が届きにくい、少し引いた薄暗い場所から、その賑やかな喧騒を無言で見つめていた。
彼の手元のスープは、とうに冷めきっている。
彼の脳髄は、目の前の温かな光景を認識しながらも、同時にヴェルミリアに潜むガレンの影、テネブラとの政略結婚という冷酷な取引、そして来年の収穫率という冷たい計算式を処理し続けていた。
(これが、守るべきものか)
不意に、己の心の最も深い底から、静かな問いが浮かび上がった。
父ヴァルターが命を懸けて愛し、そして大国に無残に踏みにじられた「温かさ」。
ヴェインは復讐のため、国を独立させるための「計算の歯車」として彼らを盤面に集めたはずだった。
だが、彼らが泥まみれになりながら築き上げたこの一年目の冬の夜は、どうしようもなく人間らしく、そして残酷なほどに美しかった。
この温もりを守るために、自分は自らの血肉と魂を、極寒の論理の海に沈め続けているのだろうか。
あるいは、この光景すらも、いつか大国の軍靴によって無残に踏みにじられ、永遠に失われてしまう脆い幻に過ぎないのだろうか。
エラがふとこちらを向き、無垢な鳶色の瞳でヴェインに微笑みかけた。
ヴェインは、答えを出さなかった。
ただ薄灰色の瞳を静かに伏せ、冷え切ったスープの椀に視線を落とす。
王冠の重さと、未来に待ち受ける血みどろの動乱の予感を一人で背負い込んだまま、若き王は賑やかな喧騒の中で、底知れぬ孤独の底へと静かに沈んでいった。




