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灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
第2部

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【第53話】



 執務室のオーク材の机に置かれた上質な羊皮紙には、南の軍事国家テネブラの国章である『双頭のわし』をかたどった重厚な黒蠟くろろうが押されていた。



 老公爵エドガーからの、二通目となる親書である。



 ヴェインが単身テネブラシアの死地に乗り込み、血のにじむような知略と度胸でもぎ取ってきた密約。


大国ヴェルミリアの侵攻を牽制けんせいするための巨大な盾。


その効果が、グレイヴァル奪還という結果を受けて、いよいよ正式な国家間の条約として盤面に現れようとしていた。



『——グレイヴァル城の奪還を確認した。我が国は約束通り、両国間の不可侵および緩衝地帯化の文書作成を進める』


 そこまでは、ヴェインの計算通りだった。


 だが、羊皮紙の末尾に記された一文が、冷え切った執務室の空気に、これまでとは違う種類の重く湿った緊張感をもたらしていた。



『ただし、先にグレイヴァルが落ち着いた折に直接申し上げた通り、改めて正式な形で求める。我が孫娘セレーナとの面会を』



「……いよいよ、政略婚約の話か?」



 壁際に背を預けていたクロードが、大剣の柄から腕を下ろし、低くしゃがれた声でつぶやいた。



 テネブラが辺境の小国をただの緩衝地帯として守り続ける理由はない。


血の繋がりという最も強固な鎖で両国を縛り付けることこそが、老公爵エドガーの真の狙いであることは、最初から盤面に提示されていた絶対条件だ。



 ヴェインは表情を全く変えることなく、親書をゆっくりと机の上に置いた。



「わかっていた」



 極めて平坦な声だった。その事実を脳内で何百回と反芻はんすうし、すでに計算式の一部として消化しきっている者の響き。



「嫌か?」



 クロードが、珍しく踏み込んだ問いを投げた。



 傭兵として数多の悲惨な政略結婚を見てきた彼だからこその、人間としての問いかけだった。


相手は軍事国家の誇り高き姫君であり、この結びつきはグレイヴァルがテネブラの属国になりかねない諸刃の剣でもある。



 ヴェインは即答しなかった。



 薄灰色の瞳を黒蠟の印に落としたまま、ほんの数秒だけ、氷のような沈黙が執務室に落ちた。


そのわずかな空白の間に、彼の中にどのような思考が巡ったのか、あるいは何の感情も動かなかったのか。


クロードの獰猛どうもうな観察眼をもってしても、その分厚い氷の底をのぞき見ることはできなかった。



「……感情の問題じゃない」



 やがて、ヴェインは静かに、しかし断ち切るように言い切った。



「テネブラとの同盟は、グレイヴァルの生存に必要だ。東のヴェルミリアに対抗するだけの軍事的な盾が得られるのなら、盤面にあるどの駒でも使う。……私自身であってもな」


「それが答えか」


「それが答えだ」



 王としての、残酷なまでの自己犠牲と合理性。



 民の命を繋ぐためならば、自らの心臓も、人生も、他国の祭壇に捧げる供物として冷徹に差し出す。


そこに個人の幸福や感情が入り込む余地はない。



 カチャ、と。



 不意に、執務室の半ば開いた重厚な扉の隙間から、微かな陶器の触れ合う音が鳴った。



 ヴェインが視線を向けると、そこには、温かい苦草茶にがくさちゃを乗せたお盆を持つエラが立ち尽くしていた。


いつからそこにいたのか。彼女の鳶色とびいろの瞳は、いつもと同じように平坦に見えたが、その奥で何かが微かに震えているのをヴェインは見逃さなかった。



 政略結婚。



 愛のない結びつき。



 国を生かすための生贄いけにえの取引。



 裏街の泥をすすって生きてきたエラにとって、それは遠い王族の御伽噺おとぎばなしでしかなかったはずだ。


だが、それが今、最も身近な存在であるヴェインの身に、逃れようのない現実として降りかかろうとしている。



「……聞いていたか」



 ヴェインの抑揚のない問いかけ。


彼はエラがどう反応するか、あるいは彼女の無垢むくな直感がこの盤面をどう捉えるかを、無意識のうちに測っていたのかもしれない。



「……うん」



 エラは視線を逸らさず、短く答えた。



「何も言わないのか」


「……」



 エラは少しの間、沈黙した。


お盆を持つ手に、微かに力が入る。



 正しいことなのか、間違っているのか。


ヴェインが国を守るためにそうすると言うのなら、それはきっと「正しい計算」なのだろう。


だが、胸の奥底に泥のように重く沈み込んでいく、この息苦しいような感情は何なのか。



「言えることが、何もわからないから」



 それは、怒りでも悲しみでもなく、彼女自身にも処理しきれない正体不明の感情の吐露だった。



 エラは初めて、ヴェインの冷徹な決断に対して「何も言えない」自分に深く戸惑っていた。


彼女は無言のまま机にお盆を置くと、一度だけヴェインの薄灰色の瞳を見つめ返し、足早に執務室を後にした。



 扉が閉まる鈍い音が、いつもよりひどく重く響いた。



 その夜。



 城の片隅にある、エラに与えられた小さな自室。



 彼女はベッドの上に膝を抱えて座り、ランプの小さな炎を一人で見つめていた。



 窓の外では、春の夜風が静かに吹いている。


彼女の胸元には、奪還の前夜にヴェインに渡したものと同じ『息吹束いぶきたば』の青草が、まだ大事にしまわれていた。



 一人じゃないと思えるから祈るのだと、いつかヴェインに言った。


だが今夜は、その青草に触れても、胸の奥の重い塊は少しも軽くならなかった。



 ——感情の問題じゃない。



 扉越しに聞いたヴェインの冷たい言葉が、夜の静寂の中で何度も反響する。



 本当に、感情の問題ではないのだろうか。


あの数秒の沈黙の間に、彼は本当に何も感じていなかったのだろうか。



 自分の中に渦巻くこの感情の名前すらわからないまま、エラはただ一人、長く静かな夜の闇の中で膝を抱き続けていた。



 国家という巨大な歯車が、少しずつ、しかし確実に、彼らの人間としての輪郭を削り取ろうとしていた。



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