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灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
第2部

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【第52話】



 農民たちと交わした「三分の一税」と「凶作減免」の誓約。



 そして、領主が法をたがえた際には民衆が領主を訴えることができるという、前代未聞の『裁判所』の設立約束。



 あの日、ヴェインが会議室で放った狂気じみた宣言は、領民たちの魂を繋ぎ止める強烈なくさびとなった。


だが、それを現実の盤面で機能させるためには、決定的に欠けているものがあった。



 大国の法体系に依存せず、この死に体の辺境領を独立した国家として成立させるための、独自の「法典」と、それを編纂へんさんする専門家の存在である。



 その解答は、春の雨が窓を叩く午後、ミレイユの手によって領主執務室へともたらされた。



「……彼が、私が西の国境付近で見つけ出してきた『法の亡霊』です」



 ミレイユの冷ややかな紹介とともに一礼したのは、仕立ては良いがひどく擦り切れた外套がいとうまとった、四十代半ばの小柄な男だった。



 丸い眼鏡の奥の瞳は、神経質そうに細められている。


そして何より異様なのは、彼がその腕の中に、抱えきれないほど分厚く、古びた革表紙の巨大な書物を、まるで自分の命そのものであるかのように大事に抱え込んでいることだった。



「お初にお目にかかります、若き領主殿。私の名はアルフ。……かつては、今は亡き旧帝国の法廷にて、末席ながら法官の任に就いておりました」



 アルフと名乗った男は、うやうやしく頭を下げた。



 帝国崩壊後、法という絶対的な拠り所を失い、各地の領主を頼って転々としていたところを、ミレイユの広範な情報網が拾い上げたのだ。


彼の腕に抱えられているのは、旧帝国時代に編纂され、今や大陸のどこを探しても完本は存在しないとされる伝説の法体系——『黄金法典』の写本であった。


彼こそが、この大陸で唯一、その完本を個人所有し、帝国の法のすべてを脳内に記憶している生きた化石だった。



「……前置きは長くなりますが、よろしいでしょうか」



 アルフは眼鏡の位置を中指で押し上げると、ヴェインが何も答える前から、よどみない口調で語り始めた。



「法とは、過去数百年における人間の愚行と血の歴史の蓄積であり、決して一個人の思いつきで制定されるべきものではありません。旧帝国においては、一つの条文を追加するのにも、元老院での三年間の審議と、過去の判例との照合が義務付けられておりました。したがって、私がこの辺境の地で法務を担当するにあたっても、まずは現行のヴェルミリア王国の法体系との法理的な差異を洗い出し、数年かけて基礎的な——」



 延々と続く、法学者特有の迂遠うえんで厳格な前置き。



 しかし、ヴェインは机の上で両手を組み、その薄灰色の瞳でアルフの眼鏡の奥を真っ直ぐに射抜いたまま、極めて平坦に、その長い前置きを刃物のように断ち切った。



「民衆審判員制度を作りたい」


「…………はい?」



 アルフの口が、間の抜けた音を立てて半開きになった。



 数秒前まで滑らかに回っていた彼の法解釈の歯車が、未知の単語を前に完全に停止したのだ。



「領主である私を含め、特権階級の犯罪や契約違反を、農民や工夫といった一般の民衆の中から選ばれた『審判員』が裁く。法の下では支配者も民も同等であるという、独立した司法の仕組みだ」



 ヴェインは瞬き一つせず、自らの狂気じみた構想を事実として口にした。



「そのための法案と、制度の骨組みを至急設計してほしい。おまえが抱えているその黄金法典の知識を使ってな」



 執務室に、雨音だけが響く重い沈黙が落ちた。



 アルフは限界まで目を見開き、信じられないものを見るような顔でヴェインを見つめ返した。


身分制度が絶対であるこの大陸において、農民に領主を裁く権利を与えるなど、異端を通り越して精神の異常を疑われるレベルの暴論だ。



「……正気、ですか」



 アルフの声が微かに震えていた。



「そのような制度、旧帝国の黄金法典のどこをひっくり返しても存在しません! ましてや、大国ヴェルミリアの法体系と真っ向から衝突する。……第一、農民に裁きを委ねるというその制度の『法的根拠』はどこにあるのです!」


「これから作る」



 即答だった。



 一切の抑揚も、迷いもない、絶対零度の宣告。



 アルフは思わず絶句し、傍らに立つミレイユへと助けを求めるような視線を向けた。


だが、数字の亡者である彼女はただ「この男はそういう生き物です」と言わんばかりに、冷ややかに目を伏せるだけだった。



「順序が、逆です」



 アルフは抱え込んだ黄金法典を強く握りしめ、法学者としての最後の矜持きょうじを振り絞るように声を荒らげた。



「国家の基本法を定め、それに紐づく形で制度を作るのが法の道理です! 根拠もないまま先に制度だけを立ち上げるなど、家を建てる前に屋根を宙に浮かべるような真似だ。崩壊します!」


「正しい順序で進めていたら、間に合わない」



 ヴェインの声は、ささやくように低く、そして恐ろしいほどの熱と質量を帯びていた。



「大国が牙をく前に、民衆の魂をこの国に縛り付ける『実体としての権利』が今すぐ必要なのだ。……必要だから作る。そして」



 ヴェインは、アルフの丸い眼鏡の奥にある、旧態依然とした法の亡霊の目を、正面から見据えた。



「後で、整合性を取る」



 現実に必要なものを先に力技で盤面に叩き込み、その無茶苦茶なゆがみを、後から己の血肉と論理を総動員して『法』という形に整えていく。



 それは、ただの暴君の振る舞いではない。


この絶望的な辺境で生き残るための、ヴェインの「現実優先の統治哲学」が、明確な方程式として定式化された瞬間だった。



 長い、長すぎる沈黙が執務室を支配した。



 アルフは、呼吸すら忘れたかのようにヴェインの薄灰色の瞳を見つめ続けていた。



 狂っている。


こんな男の元で法を編纂するなど、学者としての経歴を泥に捨てるようなものだ。


だが——アルフの腕の中で眠り続けていた古き『黄金法典』が、この若き王の破天荒な熱に当てられ、微かに脈動したような気がした。



 法とは本来、生きた人間を生かすためにあるものだ。


何十年も前に死んだ帝国の法典を抱えて各地を放浪していたアルフは、今、自らの手で「新しい時代の法」をゼロから産み出すという、法学者にとっての究極の麻薬を目の前に提示されたのである。



 やがて、アルフは深く、搾り出すようなため息を吐いた。



 そして、眼鏡の位置をゆっくりと直し、これまでで最も引き締まった、実務家の顔つきへと変わった。



「……わかりました」



 彼は黄金法典を分厚い机の上に置き、その表紙をでながら静かに告げた。



「あなたがおっしゃるその出鱈目でたらめな屋根の下に、私が後から、決して崩れない法理という鋼の柱を打ち込んで差し上げましょう。……ただし」



 アルフは、ヴェインへ向かって鋭く釘を刺す。



「私の名前で出す条文には、必ず事前に私に確認させてください。あなたの無茶な命令を、法的に『通る言葉』に翻訳するのは、この私の仕事ですから」



 ヴェインは微かに目を細め、静かにうなずいた。



 冷徹な王、数字の亡者、そして法の亡霊。



 のちに大陸全土の秩序を根底から覆し、大国すらもひざまずかせることになる恐るべき兵器『灰銀法典かいぎんほうてん』のいしずえは、春の雨が降りしきるこの小さな執務室で、三人の異端者たちによって密かにその産声を上げたのであった。



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