【第49話】
領地の西側を南北に分断するように流れる銀流川。
春の雪解け水で水嵩を増したその濁流は、グレイヴァルと西の商業都市アイゼンブルクを繋ぐ物流において、最大の物理的障壁となっていた。
かつて帝国時代に架けられた堅牢な石と木の橋は、長年の放置とバルトの圧政による搾取によって完全に腐朽し、中央から無残に崩落している。
これまでは、荷馬車は危険な浅瀬を命がけで渡るか、遥か南のダスクマーレ方面へ何日もかけて迂回するしかなく、それがこの辺境領の商業路を物理的に断絶させていた最大の要因であった。
灰色の空の下、冷たい川風が吹き抜ける岸辺に、ハインツの枯れた怒号が響き渡っていた。
「そっちの基礎が甘い! 濁流を甘く見るな、春の嵐が来たら土台ごと持っていかれるぞ! もっと深く杭を打ち込め!」
ダスクマーレから連れてこられた荒くれ者の工夫たちと、農作業の合間を縫って駆り出された農民たちが、泥水に腰まで浸かりながら必死に重い丸太を支え、大槌を振り下ろしている。
その過酷な労働の輪のすぐ傍らに、ヴェインは立っていた。
豪奢な外套の裾は容赦なく泥に汚れ、上質な革靴も泥水に浸かっている。
彼はただ遠くから視察するだけでなく、定期的に現場へ足を運び、自ら川岸の斜面に降りて土の脆さを確かめ、工夫たちと直接言葉を交わしていた。
「……領主様」
泥まみれになりながら杭を打っていた工夫の一人が、顔の汗を拭いながら不思議そうに声をかけた。
「なんで、一番偉いあんたが、こんな泥の中に突っ立ってるんで? 暖かい城の奥で、図面でも眺めてりゃあいいのに」
支配者が泥にまみれる。
この大陸の常識からすれば、それは威厳を損なう愚行に他ならない。
だが、ヴェインは薄灰色の瞳で荒れ狂う銀流川の水面を見つめたまま、一切の抑揚のない、平坦な声で答えた。
「自分の土地のことを、知りたいからだ」
報告書の数字や地図上のインクだけでは、決して測れないものがある。
土の重さ、水の冷たさ、そして何より、この土地を支える民の疲労と筋肉の軋み。
盤面を真に支配するためには、盤面そのものの物理的質量を己の皮膚で理解しなければならない。
それは情けや温情ではなく、王としての極限まで冷徹な合理主義に基づく行動であった。
工夫は言葉の意味を完全には理解できなかったようだが、泥を厭わぬ若き王の横顔に、静かな畏敬の念を抱いて再び槌を握り直した。
しかし、現場の熱意とは裏腹に、工事の進捗には致命的な狂いが生じ始めていた。
昼の休憩時、ハインツが険しい顔でヴェインの元へ歩み寄り、切り出されたばかりの材木の一本をドスリと地面に投げ出したのだ。
「……若様。こいつじゃあ、駄目だ」
老工兵は、材木の断面を指差して忌々(いまいま)しげに吐き捨てた。
「地元の森から切り出した木だが、長年手入れされてなかったせいで質が悪すぎる。芯が腐りかけてやがる。橋の完成は三ヶ月後の予定だが、こんな材木で骨組みを作っても、秋の長雨には耐えきれずに崩れ落ちるぜ」
ヴェインは無言で材木の断面に触れ、その湿った感触から事態の深刻さを瞬時に計算した。
「アイゼンブルクから、上質な材木を輸入する必要があるな」
「ああ。だが、足元を見られて高くつくぜ。予算は持つのか?」
ヴェインの脳裏に、城の執務室で徹夜を続けるミレイユの、硝子のように冷ややかな瞳が過った。
金貨三十枚の負債を抱え、ただでさえギリギリの綱渡りをしている国庫だ。
そこへさらなる追加費用をねじ込むのは、狂気の沙汰に近い。
しかし、橋が架からなければ物流は死に、三年計画そのものが破綻する。
ミレイユは必ず、血を吐くような計算の組み直しを強いられるだろう。
「……費用は用意する。強度の高い橋を架けることだけを考えろ」
「了解した。無茶を言ってすまねぇな」
ハインツが再び現場へと戻っていく。
ヴェインが小さく息を吐き出したその時、川岸の少し離れた高台に、城下の子どもたちが連れ立って集まってきているのが見えた。
珍しい大工事を見学に来たのだろう。
その子どもたちの中心に、エラの姿があった。
彼女は春の風に髪を揺らしながら、未だ骨組みしかなく、川の半ばで途切れている橋の先端を、鳶色の瞳でじっと見つめていた。
ヴェインが足音を立てずに隣に立つと、エラは彼を見上げてふと微笑んだ。
「橋ができたら、向こう岸に何が見えるかな」
対岸には、見慣れた灰色の荒野と、西へ続く泥の街道がうねっているだけだ。
ヴェインは極めて論理的な事実として、淡々と答えた。
「同じ景色だ。道がアイゼンブルクまで続いているだけのこと」
だが、エラはゆっくりと首を横に振った。
「違うよ」
彼女は、濁流の向こう側に広がる世界を指差しながら、どこまでも澄んだ無垢な声で言った。
「向こう側から見た景色に、なるんだよ」
ヴェインの呼吸が、ほんの一拍だけ完全に停止した。
向こう側から見た景色。
それは、ただの風景の話ではない。
アイゼンブルクの商人たちから、あるいは大国ヴェルミリアの玉座から、この辺境のグレイヴァルが『どう見えているか』。
相手の盤面の視座から自分自身を客観視するという、高度な外交的発想の神髄そのものだった。
エラは政治も謀略も知らない。
だが、彼女の純粋な魂は、ヴェインがこれから足を踏み入れようとしている「他国との関係性」という新たな戦場の本質を、無意識のうちに射抜いていたのだ。
ヴェインは微かに目を細め、骨組みだけが突き出た橋の先端越しに、広大な西の空を見据えた。
川風が吹き抜ける中、若き王の脳髄では、すでに国内の内政だけでなく、他国の視座を組み込んだ巨大な『外交の計算式』が、音もなく回り始めていた。




