【第50話】
西の商業都市アイゼンブルク。
泥と汗の匂いに満ちたグレイヴァルとは打って変わり、石畳の街道には極彩色の天幕が並び、香辛料と金貨の擦れ合う音が絶え間なく響く、巨大な経済の心臓部。
その中心にそびえ立つ商業ギルド本部の最上階——豪奢な調度品と微かな紫丁香花の香水が匂い立つ執務室に、ヴェインは足を踏み入れた。
「……泥にまみれた辺境の王様が、随分と身軽な格好でいらしたこと」
巨大なマホガニーの机の奥で、豪商イゾルデが艶やかな唇の端を歪めて笑った。
国庫に金貨三十枚の負債を抱え、銀流川の橋を架けるための上質な材木すら買えないグレイヴァルの窮状は、西の裏社会を牛耳る彼女の情報網にはとうに筒抜けである。
しかし、ヴェインは薄灰色の瞳を微塵も揺らがせることなく、差し出された革張りの椅子に静かに腰を下ろした。
「交渉に来た。互いの利益のためにな」
「あら、無一文の国が私に何を差し出せるというのかしら。……紹介するわ。私の弟よ」
イゾルデが視線で促した先、部屋の隅の書棚の影から一人の若い男が歩み出てきた。
年齢はヴェインと同じか、少し下だろうか。
豪奢な絹の服を纏ったその男は、姉のイゾルデのような冷酷で刺々しい威圧感は一切なく、ひどく人懐っこい、柔和な笑みを顔の全面に貼り付けていた。
「初めまして、グレイヴァルの若き領主様。アイゼンブルク商会にて、姉の下で通商の実務を担当しております、ロベール=カーンと申します」
ロベールは恭しく頭を下げると、小脇に抱えていた分厚い帳簿をヴェインの目の前に滑らせた。
表向きは愛想の良い、どこにでもいる商人の次男坊。
だが、ヴェインの極めて論理的な脳髄は、帳簿のページが開かれた瞬間に、彼が纏う「異質さ」を正確に感知していた。
そこに並んでいたのは、グレイヴァルの特産品とアイゼンブルクの物価変動を、十手先まで見越して弾き出した恐ろしいほど精確な関税率の予測表だった。
姉のイゾルデ、あるいはミレイユと同等の——狂気じみた「数字の正確さ」。
笑顔の裏に、一切の感情を排した冷徹な算盤の音が隠されている。
「……あなたが、姉の言う『面白い男』ですか」
ロベールが、相変わらずの人懐っこい笑みを崩さぬまま、唐突に核心を突くような直接的な問いを投げかけてきた。
ヴェインは瞬き一つせず、机の奥に座るイゾルデへと目線だけを動かした。
「そう言っていたのか」
イゾルデは表情を全く変えず、ただ優雅な手つきで陶器のティーカップに口をつけるだけだった。
肯定も否定もしない。それは「弟の力量を試している」という、底知れぬ商人のテストでもあった。
ヴェインは再びロベールへと視線を戻し、一切の前置きを切り捨てて本題へと入った。
金のないグレイヴァルがアイゼンブルクから物資を引き出すための唯一の手段。
それは、互いの不足を補い合う『大規模な物々交換協定』の締結である。
「橋の修復に必要な上質な材木、開墾用の工具、そして越冬のための加工品。これらをアイゼンブルクから無関税で供給してもらう」
ヴェインは平坦な声で盤面の条件を提示する。
「対価として、グレイヴァルからは辺境特有の希少な薬草、春に刈り取られる羊毛、そして保存用のチーズを優先的にアイゼンブルクの市場へ卸す。……差額が生じた場合の補填は、次年度の収穫物での先物取引とする」
それから一時間。
豪奢な執務室は、音のない激しい斬り合いの戦場と化した。
ロベールは柔和な笑みを全く崩さないまま、コンマ数パーセントの関税率と輸送コストの不均衡を指摘し、グレイヴァルから一滴でも多くの利益を搾り取ろうと精密な計算式をぶつけてくる。
ヴェインも一歩も引かない。
先日、エラが言った「向こう側から見た景色」——アイゼンブルクが今、他国との競争において真に欲している資源は何かを冷静に見極め、絶妙な均衡点でロベールの要求を跳ね返していく。
やがて、極限の知的闘争の果てに、両国の血液を循環させるための通商協定の強固な骨格が、ついに羊皮紙の上に固まった。
「……見事な手腕ですね。姉が注目するだけのことはある」
ロベールが、初めて商人の仮面を少しだけ外し、底知れぬ知性の光を瞳に宿して感嘆の息を吐いた。
交渉を終え、ヴェインが席を立って扉へ向かおうとした時だった。
それまで黙って二人の交渉を眺めていたイゾルデが、ティーカップをことり、とソーサーに置き、背後から冷たい声を投げかけた。
「若き領主殿。もし今後——『ハウト商会』から接触があった場合は、どうするつもりかしら」
ハウト商会。
その名が出た瞬間、温和だったロベールの顔からスッと笑みが消えた。
それは、西の経済圏において急激に勢力を拡大し、イゾルデの商会をも脅かしかねない強大な質量を持った正体不明の怪物である。
彼らが、新興勢力であるグレイヴァルを取り込もうと暗躍し始めているという裏情報だった。
ヴェインは扉のノブに手をかけたまま、振り返ることなく、首だけを僅かに横に向けた。
薄灰色の瞳の奥に、大国を相手に立ち回る冷徹な王の炎が揺らぐ。
「……どんな接触があったか、私に教えてください」
極めて平坦な、氷のような声。
「それが、あなたを守るための『情報という名の武器』になる」
イゾルデが、面白そうに目を細めた。
ハウト商会の誘いに乗るでも、拒絶するでもない。
接触そのものをアイゼンブルクのカードとして利用させ、恩を売り、同時に相手の腹を探る。
辺境の死に体の領主は、すでに巨大な経済の盤面すらも自らの生存戦略の歯車として回し始めていた。
重厚な扉が開き、ヴェインはアイゼンブルクの喧騒の中へと足音を立てて消えていく。




