【閑話】夜と算盤と、いくつかの嘘
グレイヴァル奪還から一年が過ぎた、晩秋の夜。
城の奥まった場所にある小食堂には、まだ微かな暖炉の火の匂いと、夕食を終えた後の気怠い沈黙が淀んでいた。
正式な作戦会議ではない。
ただ、一日の重い執務と労働を終えた者たちが、それぞれの寝室へ戻る前の惰性で居座っているだけの、空白の時間だった。
長机の端では、ミレイユが一人だけ手元の帳簿を開き、羽ペンを走らせる乾いた音を立てて数字の海を泳ぎ続けている。
その向かいで、エラは両手で包み込んだ木のカップから立ち上る苦草茶の湯気を、ぼんやりと見つめていた。
ペトラは行儀悪く机の角に腰掛け、足をぶらぶらと揺らしながら、煤けた石造りの天井を仰いでいる。
そしてヴェインは、椅子の背に深くもたれかかり、腕を組んだまま何も言わずに目を閉じていた。
常に頭の中で回り続けている国家運営の巨大な歯車が、この瞬間だけは、ほんの少しだけその回転を緩めている。
パチ、と暖炉の火が小さく爆ぜた。
その直後、天井を見上げたままのペトラが、静寂を破った。
「ねえ、今夜暇なら相手してあげようか」
何の脈絡もない言葉だった。
あくびの延長線上にあるような、ひどく軽い声。
そこに計算された誘惑や、深い意味があったわけではない。
ただ、あまりにも張り詰めたまま生きている目の前の若き王を、ほんの少しだけ揺さぶってみたかったのかもしれない。
あるいは彼女自身も、なぜそんな言葉を口にしたのかわかっていなかった。
ヴェインは組んだ腕を解かず、閉じていた目だけを開けて、静かにペトラの方へ視線を向けた。
「……おちょくるな」
「冗談だよ、冗談」
ペトラは足を揺らすのをやめ、肩をすくめて短く笑った。
「あんまりにも顔が固すぎるからさ、少しは崩れるかと思って」
「崩れない」
「知ってる」
即答するヴェインに、ペトラは悪びれもなく笑い声を立てた。
そのやり取りの最中も、ミレイユは帳簿から一切目を上げることなく、冷ややかな声だけを空間に放った。
「余計なことを言わないでください。計算が狂う」
「はいはい、お堅いこって」
三人の間を行き交った、毒気の抜けたような短い応酬。
すると、木のカップを両手で持っていたエラが、不思議そうに小首を傾げた。
「何の話?」
ピタリと。
羽ペンの音が止まり、ペトラの笑い声が消え、ヴェインの薄灰色の瞳が動いた。
三人の視線が、同時にエラへと集中する。
本当に言葉の意味を理解していない無垢な疑問なのか、それともすべてを理解した上で、あえてこの空気をはぐらかすために放った天然の防壁なのか。
誰にもわからなかった。
「……仕事の話」
数秒の奇妙な空白の後、ペトラが即答した。
「そう」
エラは疑う素振りもみせず、小さく頷いて再び苦草茶に口をつけた。
ミレイユが、呆れたような、安堵したような、微かなため息を吐く。
ヴェインは何も言わず、ただ静かに視線を暖炉の火へと戻した。
しばらくして、ペトラが机からふわりと飛び降りた。
「おやすみ。働きすぎないようにね」
誰にともなく言い置き、軽い足音を立てて食堂を出ていく。
それに釣られるように、エラもカップを置いて立ち上がった。
「私も寝る」
彼女は扉へ向かいかけ、一度だけ振り返ってヴェインを見た。
「おやすみ」
「ああ」
短い言葉を交わし、エラもまた廊下の暗がりへと消えていった。
小食堂に、ヴェインとミレイユの二人だけが残された。
カチ、カチという古時計の音と、ミレイユの羽ペンが羊皮紙を擦る音だけが、しばらくの間、規則的に響いていた。
やがて、暖炉の中で燃え尽きかけた薪が一本、崩れ落ちて鈍い音を立てた。
それを合図にしたかのように、ミレイユがパタン、と帳簿を閉じた。
彼女は立ち上がろうとして、ふと動きを止め、再び椅子に深く座り直した。
「……何だ」
その微かな挙動の淀みを見逃さず、ヴェインが問う。
「聞いていいですか」
「内容による」
極めて実務的なヴェインの返しに対し、ミレイユは硝子のように冷たい瞳を真っ直ぐに彼へ向け、淡々と口を開いた。
「あなたは、誰かを好きになったことがありますか」
ヴェインの呼吸が、ほんの僅かに止まった。
「……藪から棒だな」
「ずっと聞こうと思っていました」
ミレイユは表情一つ変えずに続けた。
「今夜のペトラの話で、聞き時だと思ったので」
「興味があるのか」
「あります」
一切の迷いがない、透き通った声だった。
彼らは共に数字と論理の亡者であり、互いの思考回路の裏の裏まで読み合う同類だ。
だからこそ、ミレイユはヴェインの人間としての最も非合理的な『隙間』に、純粋な計算式としての興味を抱いたのだ。
「バカを言うな」
ヴェインは、いつものように抑揚のない、平坦な声で切り捨てた。
しかし。
その答えは、彼にしてはあまりにも『早すぎた』。
普段のヴェインであれば、沈黙で受け流すか、なぜそんな無意味な質問をするのかと論理で切り返すはずだ。
それが、まるで飛んできた矢を無意識に払いのけるように、反射的に否定の言葉を口にしてしまった。
そこに彼自身も気づいていない、覆い隠すべき誰かの存在——あるいは彼自身の人間らしい脆さが、致命的なエラーとして漏れ出ていた。
ミレイユだけが、そのコンマ数秒の計算の狂いという嘘に、はっきりと気づいた。
「……わかりました」
彼女はそれ以上は何も追及せず、立ち上がって分厚い帳簿を脇に抱えた。
踵を返し、扉へと向かおうとしたその背中に、今度はヴェインの声が投げかけられた。
「あなたは──」
「父が死ぬ前に、一人だけいた」
ミレイユの足が、ピタリと止まる。
彼女は振り返ることなく、暗い廊下を見つめたまま答えた。感情の色はどこにもない。
ただ過去の事実を読み上げるような声だった。
「どうなった」
「父が没落して、消えました。会いに来ることもなく」
「それで」
「それだけです。……それだけのことでした」
ミレイユの声が、冬の夜の冷気に溶けて消えた。
暖炉の火はすでに限界まで小さくなり、部屋の輪郭が薄闇に沈みかけている。
極端な合理主義者として生きるミレイユにとって、愛などという非論理的なものは、とうの昔に切り捨てたはずの感情に過ぎない。
「なぜ、話した」
ヴェインが静かに問うた。
聞かれてもいない己の過去を自ら開示するなど、普段の彼女の計算では絶対にあり得ない行動だ。
ミレイユは、扉のノブに手をかけたまま、少しの間だけ沈黙した。
「……わかりません」
「本当に」
「本当に、わかりません」
それは、数字の亡者である彼女の感情が、長い歳月の中で初めて完全にコントロールを外れた、奇妙で不器用な瞬間の再現だった。
ガチャリと扉が開き、そして閉まる。
規則的な足音が、石造りの廊下を遠ざかっていった。
小食堂には、ヴェインがただ一人残された。
彼は薄闇の中で、チロチロと消えかかる暖炉の残り火を、薄灰色の瞳でじっと見つめていた。
机の上には、エラが残していった苦草茶の椀が、すっかり冷めきったまま置かれている。
完璧な計算機であろうとする王と、その右腕。
しかし彼らの分厚い氷の鎧の奥には、確かに生身の心臓が不規則な音を立てて脈打っている。
キィィ……と。
窓の外の暗闇で、風に吹かれた城壁の風見鶏が、微かな、しかし鋭い金属音を立てて鳴いた。
秋の夜は深く、静かに更けていく。




