【第45話】
空は、吸い込まれるように高く澄み渡っていた。
痛いほどの冷気を含んだ秋の晴天。
かつてバルトの圧政によって血と絶望の匂いに満ちていたグレイヴァルの大地は、今や見渡す限りの黄金色に染まり、力強い生命の喧騒に包まれている。
城壁の最も高いバルコニーに立ち、ヴェインは眼下に広がる己の領地を静かに見下ろしていた。
視界の先には、ダスクマーレの流浪の民たちが切り拓いた西の荒野が広がり、そこには風に揺れる豊かな麦の穂が波打っている。
三分の一税の誓約によって、彼らが己の命を繋ぐために勝ち取った実りだ。
修復された太い街道には、アイゼンブルクとの食料融通協定を成立させたミレイユの計算通り、絶え間なく荷馬車が行き交い、冬に備えた物資を運び込んでいる。
城門の前の広場では、ハインツの工兵隊とクロードの傭兵たちが入り混じって声を張り上げ、城下町の路地裏からは、泥にまみれて走り回る子どもたちの高い笑い声が春の小鳥のように響いていた。
ペトラの裏情報網も、コル老人の束ねる村々も、すべてが緻密な歯車となってこの土地の血液を循環させている。
それは、ただの数字の羅列でも、地図上のインクの染みでもない。
かつてすべてを奪われ、雪の夜に国を追われた一人の青年が、絶望的な盤面の上で泥を啜り、自らの血肉を削ってゼロから組み上げた「国家」という名の生きた質量だった。
灰燼に帰しかけていた辺境の地は、わずか一年の歳月を経て、大国すら無視できない熱を帯びた砦として完全に蘇っていたのだ。
背後の石段を上る、軽い足音がした。
振り返らなくても、その気配の主はわかる。
エラだ。彼女は少しだけ大きくなった簡素な外套を羽織り、秋の風に髪を揺らしながら、ヴェインの隣の石の欄干に並んで立った。
彼女もまた、広大な黄金色の麦畑と、活気に満ちた城下町を、平坦な鳶色の瞳で静かに見下ろした。
「……変わったね」
エラが、風に溶けるような静かな声で呟いた。
「ここが?」
ヴェインは前を向いたまま、抑揚のない声で聞き返す。
確かに、景色は劇的に変わった。
絶望は希望に、恐怖は法と秩序に書き換えられた。
しかし、エラはゆっくりと首を横に振り、ヴェインの横顔を真っ直ぐに見上げた。
「ここも。あなたも」
「……どう変わった」
「最初は怒ってたけど、今は……なんだろう」
エラは少しだけ考えるように視線を宙に泳がせ、やがて、彼女自身の心の中にある最も正確な言葉を探し当てた。
「もっと、重いものを持ってる感じがする」
「重いもの、か」
「うん。でも、悪い重さじゃない。ちゃんと足がついてる感じ」
その言葉は、ヴェインの胸の奥底を静かに、しかし深く貫いた。
ダスクマーレの泥濘にいた頃の彼は、ただ父の仇を討つという、純粋で鋭利な「怒り」だけを原動力とする謀略家だった。
軽やかに盤面を飛び回り、相手を罠に嵌めるだけの存在。
だが、今の彼は違う。
数千の領民の命、来年の麦の収穫、大国とのヒリつくような外交の均衡。
それらすべてを両肩に背負い、泥にまみれて自らも石を運び、逃げ場のない地面の上に立って戦っている。
王冠という名の呪いは途方もなく重いが、その重さこそが、彼を冷酷な復讐鬼ではなく、確かな大地に根を張る『統治者』へと変質させたのだ。
エラの無垢な瞳は、その恐ろしいほどの精神的変容を、一切の理屈を抜きにして本能で見抜いていた。
ヒュウウウ、と。
不意に、一段と冷たく強い風がバルコニーを吹き抜けた。
ヴェインが視線を上げると、遠くの稜線——北方の険しい山々の頂に、うっすらと最初の白い雪が積もり始めているのが見えた。
また、冬が来る。
しかし、去年のような絶望だけの冬ではない。
戦うための備えを持った、強靭な冬だ。
頭上の高い旗竿に取り付けられた『灰色の風見鶏』の紋章が、風を受けてギィィと乾いた金属音を立てて激しく回り始めた。
かつての屈辱の象徴であり、今やこの国の不屈の意志を示すその鉄の鶏は、嵐を予感するように空を切り裂いている。
ヴェインは、薄灰色の瞳でその風見鶏を静かに見上げ、極限まで感情を排した氷のような声で宣告した。
「まだ始まりだ」
グレイヴァルを取り戻したことは、盤面における最初のひとマスを進めたに過ぎない。
父を殺した真の黒幕である大国ヴェルミリア、未だ逃亡を続ける叔父ガレン、熱狂を帯びて広がる緑祈のシビラ。
そして——地図の空白地帯から迫り来る、未知の影。
このちっぽけな城を拠点に、大陸全土の秩序を書き換えるという狂気の旅は、ここからが本番なのだ。
「知ってる」
エラが、迷いのない澄んだ声で即答した。
「わかるのか」
「わかる」
エラは微かに微笑み、ヴェインの瞳の奥で静かに燃え続ける漆黒の炎を見つめ返した。
「あなたの目が、そう言ってる」
言葉も約束もいらない。
ただ、互いの魂の底にある最も確かな熱だけを共有し、二人は再び無言で眼下の景色へと視線を戻した。
ギィィ……と回り続けていた頭上の風見鶏が、やがて不自然なほどピタリと静止した。
風の吹き抜ける先。
鉄のくちばしが真っ直ぐに指し示していたのは、ヴェルミリアのある南東でも、テネブラのある南でもない。
すべてを蹂躙する巨大な暗雲が立ち込め始めている、未知なる『東』の方角であった。




