【第46話】
グレイヴァル奪還の熱狂と血の匂いが、冷たい冬の風にさらわれてから二週間。
城の奥深くにある領主執務室は、剣の代わりに羽ペンが、血の代わりに没食子インクが支配する、音のない過酷な戦場へと姿を変えていた。
分厚いオーク材の机の上に、一冊の真新しい革張りの帳簿が開かれている。
そこには、アイゼンブルクから招き入れた若き財務補佐官、ミレイユの流麗な文字で、現在のグレイヴァル辺境領が抱える「絶望」が、一切の情を交えない冷徹な数字の羅列として可視化されていた。
「……これが、現在の我が国の全容です」
ミレイユは硝子のように冷たい瞳でヴェインを見据え、淡々と事実を読み上げた。
「秋の税収見込みは、ガレン統治下の実に六割まで落ち込んでいます。労働力の流出により、農地の荒廃率は三割超。城と領民を合わせた備蓄食料は、切り詰めても二ヶ月分しか持ちません。流入者の増加は始まっていますが、開墾地が収穫を出すまでには最低二年かかります。現時点では人口が増えた分だけ食料消費が増え、既存の農地への負荷が高まっています。さらに——」
彼女の細い指が、帳簿の最も下の行、赤インクで記された数字を叩いた。
「情報の対価としてイゾルデ商会に約束した手形と、アイゼンブルクの職人ギルドへの前払い報酬を合わせ、現在の国庫には金貨三十枚の明確な『負債』があります。要するに、完全に破綻しています」
金貨三十枚。
辺境の小領地にとっては、首を吊るに十分な天文学的数字だ。
同席していた老工兵のハインツが、たまらず深いため息をついてひび割れた手で顔を覆った。
しかし、ヴェインの薄灰色の瞳は、帳簿の数字を見下ろしたまま微塵も揺らがなかった。
彼は怒ることも嘆くこともなく、ただ純粋な計算機として、その破滅的な盤面を脳内で処理していく。
「あなたが立てたこの三年計画の試算書」
ヴェインは、帳簿の隣に添えられた別の羊皮紙を指でなぞった。
「三年で財政を安定軌道に乗せるとあるが、この予測曲線を成立させるための変数が一つ、極めて危うい」
「ご明察です」
ミレイユは微かに顎を引き、冷ややかに肯定した。
「この三年の安定軌道入りは、『今後三年間、一度も凶作が来ないこと』という絶対条件の上に成り立っている砂上の楼閣です。もし一度でも天候が崩れれば、この国は内側から餓死して崩壊します」
凶作。
それは大国の軍隊よりも恐ろしい、防ぎようのない暴力だ。
ヴェインはその一文を、薄灰色の瞳の最も深い底に、決して消えない不吉な楔として打ち込んだ。
今はまだ、見えない脅威だ。
だが、為政者として最悪の事態を想定しないのは怠慢に過ぎない。
「……最初にどこを直すか」
数秒の沈黙の後、ヴェインは短く、平坦に問うた。
「銀流川の渡河路です」
ミレイユが即答する。
「主要街道の整備は完了していますが、銀流川を渡る短絡路はまだ使えません。現在はダスクマーレ経由の迂回路しか使えず、輸送距離が倍になる分だけ物資の輸送コストが嵩んでいます。橋を架ければ、アイゼンブルクとの交易が本来の速度を取り戻す。それが最優先です」
「すでに測量は終わっている」
顔を覆っていたハインツが、顔を上げて低く唸るように言った。
「ダスクマーレから連れてきた工夫たちをすぐにでも動かせる。だが、彼らに食わせる麦と給金が要るぞ」
「それは私が計算して捻出します」
とミレイユは答え、ヴェインは小さく頷いた。
領地の足場を固めるための、最初の一手。
だが、それだけでは足りない。
経済を回すためには、何よりもその土地で働く「農民たちの魂」を、この死に体の国に繋ぎ止めるための強烈な楔が必要だった。
その日の午後。
城の広い会議室に、領内各村の農民代表たちが集められた。
彼らの顔には深く刻まれた皺と、長年の圧政によって染み付いた抜き難い疲労、そして新しい領主に対する警戒心が色濃く張り付いていた。
ヴェインは彼らの前に立ち、美辞麗句を一切並べることなく、ミレイユが書き上げた羊皮紙を机の中央に滑らせた。
「今年の秋から、税は一律で三分の一とする。さらに、天候不順による不作時には、段階的に税を免除する凶作減免制度を導入する。以前に口頭で伝えた通りだ。今日はこれを正式な文書として交わす」
氷のように冷たい、事実だけの宣告。
農民たちは羊皮紙を手から手へと回し、文字を読める者が読めない者に囁いて内容を伝えていく。
歓喜よりも先に、本当にこの通りになるのかという重い疑心暗鬼がその場を支配する。
やがて、農民たちを束ねるコル老人が、震える声で口を開いた。
「……ヴェイン様。先日、訴える権利があると仰いました。しかし文書などというものは、領主様がその気になれば、いつでも破り捨てられる紙切れではありませぬか。その『裁判所』とやらは、本当に作るおつもりなのですか」
支配者という存在そのものへの、血を流し続けた民衆の悲痛な問いかけ。
その言葉に対し、ヴェインは薄灰色の瞳で老人を真っ直ぐに見据え、一切の感情を交えずに答えた。
「作る。この文書に私が署名した瞬間から、私はこの法に縛られる。破れば訴えればいい」
コル老人の目が、じっとヴェインを見つめる。
疑念を探るような、長い沈黙だった。
やがて老人は、皺だらけの手で羊皮紙の端をそっと押さえた。
まだ信じ切ってはいない。
しかし、信じてみようとする意志が、その手の震えの中にあった。
ヴェインは無言のまま羽ペンを取り、文書の末尾に署名した。
インクが紙に染み込む、微かな音だけが会議室に響く。
廃墟と化したグレイヴァルで、若き領主と民衆との間に、口約束ではない「契約」という名の鋼の鎖が、音もなく打ち込まれた瞬間であった。




