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灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
第1部

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【第43話】



 あの日、灰色の夜明けとともに血を流したグレイヴァル奪還戦から、ちょうど一年の歳月が流れていた。



 城の尖塔せんとうには、かつての蔑称べっしょうをあえて受け入れた「灰色の風見鶏」の紋章旗が、春の風を受けて誇らしげにひるがえっている。


自ら泥にまみれて基礎を固めた西の街道は今や完全に復旧し、アイゼンブルクからの荷馬車が土埃つちぼこりを上げて行き交うようになった。



 長きにわたる圧政で死に絶えかけていた辺境領は、極端なまでに合理的な若き王と、数字の亡者たる補佐官の手によって、薄氷を踏むような危うさの中ではあるが、確実に息を吹き返しつつあった。



 領主執務室には、分厚い羊皮紙の束をめくる乾いた音が響いていた。



 机の前に立つミレイユの表情は、一年が経過しても相変わらず硝子ガラスのように冷徹で、感情の起伏を感じさせない。


彼女は淡々と、一年目の最終的な財政決算を読み上げていた。



「……以上が、本年度の総括です。三分の一税という破格の減税措置を強行したにもかかわらず、税収は事前の予測曲線をわずかに上回る形で回復傾向にあります。道路整備による関税収入と、アイゼンブルクの商会との非公式な取引が下支えとなりました」



 ミレイユは帳簿を閉じ、机の上に滑らせた。



 ヴェインは薄灰色の瞳でその数字の羅列を見下ろした。


計算上は黒字だ。


だが、その実態は、ペトラ経由で裏から資金を限界まで回し、ハインツの工兵隊を不眠不休で酷使し、ミレイユが連日徹夜で予算の組み替えを行ってようやく成立させた、奇跡的なまでの「綱渡り」に過ぎないことを、二人は痛いほど理解していた。



「しかし、あくまで綱渡りです。国庫の余剰金は無いに等しい」



 ミレイユが、残酷な現実を端的に突きつける。



「二年後にこの領地が真の安定軌道に入れるかどうかは、ひとえに、来年の秋の収穫にかかっています。もし順調に麦が実れば、基礎的な蓄えができ、大国の干渉を跳ね返すだけの軍備への投資も可能になります」


「凶作になったら?」



 ヴェインは瞬き一つせず、極めて平坦な声で最悪の変数を盤面に置いた。



 自然の猛威は、いかなる完璧な計算も法も容赦なく破壊する。


統治者として、希望的観測で未来を語ることは死を意味する。



「一年は持ちます」



 ミレイユもまた、一切の動揺を見せずに即答した。



「現在の備蓄と、緊急時の予算の切り詰めを行えば、一年の凶作なら餓死者を出さずにしのげます。ですが、二年続いたら限界です。国庫は完全に破綻はたんし、三分の一税の誓約も維持できなくなります」


「領民との誓約は、何があっても破らない」



 ヴェインの声が、微かに低く、そして冷え切った。



 あの泥の中で結んだ「法と契約」こそが、現在のグレイヴァルを繋ぎ止めている唯一のくさびだ。


凶作だからといって増税すれば、元の圧政に戻る。



「凶作減免制度を維持したまま、二年続く凶作に耐える方法は」



 無茶苦茶な要求だった。


無い袖は振れないというのが、国家財政の絶対的な真理だ。



 しかしミレイユは「不可能です」とは言わなかった。


彼女の硝子のような瞳の奥で、恐るべき速度で巨大な計算式が組み上がっていくのが見えた。



 執務室の空気が張り詰める中、部屋の隅の暖炉の前で、エラが領民の子供からもらったという青草を不器用に編んでいる微かな音だけが聞こえていた。


ヴェインはふとそちらへ視線をやり、自分が何のためにこの吐き気のするような綱渡りを続けているのかを、静かに自らの魂の底に再確認する。



 やがて、ミレイユの口がゆっくりと開かれた。



「……アイゼンブルクとの間に、大規模な『食料融通協定』を結ぶしかありません」



 彼女は冷徹な解答を提示した。



「平時はこちらから特産品を安価で卸す代わりに、凶作時には向こうの商会が絶対的な優先度で食料を適正価格で融通する、リスクヘッジの先物取引です。イゾルデ商会だけでなく、西のギルド全体を巻き込む必要があります」



「交渉してください」



 ヴェインは一秒の躊躇ちゅうちょもなく、その全権をミレイユに委ねた。



 自らの右腕たる数字の亡者への、絶対的な信頼。


ミレイユは小さく一礼すると、新たな難題に微かな笑みを浮かべながら、足早に執務室を後にした。



 その日の深夜。



 冷たい春の夜風が吹き抜ける城壁の上に、ヴェインは一人で立っていた。



 眼下には、一つ、また一つと灯りが消えていく城下町の穏やかな闇が広がっている。


一年かけて彼が守り抜き、血肉を与えてきた「国家」という名の箱庭。


だが、その箱庭を維持するために彼の脳髄が処理し続けている情報の重圧は、鉛のように骨の髄まで浸透していた。



「……疲れてるな」



 背後の闇から、低くしゃがれた声が響いた。



 振り返らなくてもわかる。


大剣を背負った巨漢の傭兵、クロードだ。


彼は重い足音を立てて歩み寄ると、ヴェインから少し離れた城壁の欄干に背中を預け、腕を組んだ。



「そうか」



 ヴェインは夜の闇を見つめたまま、平坦な声で短く応じた。



 為政者として、他者に弱みを見せることは滅多にない。


だが、クロードの獰猛どうもうな観察眼は、若き王のまとう空気が、かつてないほどに張り詰め、そして摩耗していることを正確に見抜いていた。



「お前が疲れている顔を見せるのは、珍しい」



 クロードが鼻で短く息を吐いた。


「昔は、親父さんのかたきを討つために、血走った目で地図ばっかりにらみつけてたってのによ。今じゃ立派な王様だ」



 その言葉に、ヴェインはゆっくりと息を吐き出し、冷たい石の欄干に置いた右手の傷跡を無意識にでた。



「……地面の上で戦うのは、地図の上で戦うより、消耗する」



 それは、計算と謀略だけで盤面を動かしていた頃には決して理解できなかった、統治者としての圧倒的な実感だった。



 地図の上では、兵の数はただの数字だ。


食料も、税も、すべてはインクの染みに過ぎない。


しかし、実際の地面の上には、泥にまみれて働く農民がいて、パンの耳を数える家族がいて、エラのように無垢に祈る者がいる。


彼らの命の重さを背負いながら、絶対に失敗の許されない綱渡りを続けることは、ヴェインの強靭きょうじんな精神力をもってしても、魂を削り取られるような作業だった。



 クロードは、何も言わなかった。



 気の利いた慰めも、傭兵なりの軽口も叩かない。


彼はただ腕を組んだまま、巨熊のような体躯たいくでヴェインの隣に立ち続けた。



 極限の疲労と孤独の中にいる王にとって、最良の支えとは言葉ではなく、決して裏切ることのない暴力と忠誠が「そこに存在している」という事実そのものであることを、歴戦の傭兵は誰よりも熟知していたのだ。



 夜風が、灰色の旗を静かに揺らす。



 過酷な一年目が終わり、未だ見ぬ大国の影と新たな動乱がうごめく二年目の盤面へと、ヴェインは冷たい覚悟とともに歩みを進めようとしていた。



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