【第42話】
長く過酷だった辺境の冬が終わりを告げ、グレイヴァルの大地に雪解けの泥濘と微かな春の匂いが漂い始めた頃。
城の分厚い石門をくぐり抜けてきたのは、泥にまみれた農民でも、西の商隊でもなく、極彩色に彩られた豪奢な馬車と、重武装の護衛騎士たちだった。
大陸最大の版図を誇る覇権国家、ヴェルミリア王国からの使節団である。
領主執務室に招き入れられた使者は、金糸の刺繍が施された豪奢な法衣を纏う、傲慢な肉付きの男だった。
彼は辺境の質素な執務室を鼻で笑うように一瞥すると、挨拶の礼すらろくに取らず、ヴェインの座るオーク材の机の前に立った。
その後ろには、威圧するように二名のヴェルミリア騎士が鋼の鎧を鳴らして控えている。
執務室の壁際では、クロードが大剣の柄に腕を乗せ、いつでも使者の首を刎ね飛ばせるように静かな殺気を放っていたが、使者はそれを田舎の番犬程度にしか認識していないようだった。
「……辺境の混乱が収束したこと、我がヴェルミリア王室におかれましても安堵しております。若き新領主殿」
使者の声には、隠しきれない侮蔑と、大国の威光を背負った絶対的な優位性がねっとりと絡みついていた。
ヴェインは机の上で両手を静かに組み、薄灰色の瞳で男を見据えたまま、一切の表情を動かさない。
「用件を聞こう」
氷のように平坦な声。
前置きの世辞を叩き斬られた使者は、微かに眉をひそめたが、すぐに懐から封蠟の施された羊皮紙を取り出し、机の上に尊大に広げた。
「本題に入りましょう。北の鉱山における、我が国の採掘権についてです」
使者の太い指が、羊皮紙に記された条文を叩く。
「先代の領主代行たるガレン殿と我が国との間で結ばれた不可侵および経済協定に基づき、今年度も引き続き、北の鉱山の採掘権の八割をヴェルミリアが独占する。さらに、採掘された鉱石の輸送に関わる街道の関税は免除される。……新領主殿におかれましても、この『正当な条約』を速やかに継承し、署名していただきたい」
それは条約などではない。
グレイヴァルの富を一方的に吸い上げるための、合法的な略奪の証明書だった。
叔父ガレンは、自らの地位を保証してもらう代償として、領地の血液とも言える鉱物資源を大国に売り渡していたのだ。
バルトの処刑や農民の解放など、大国にとっては辺境の取るに足らない内輪揉めに過ぎない。
玉座に座る者が誰に代わろうと、この不平等条約さえ守らせれば、グレイヴァルは永遠にヴェルミリアの餌場であり続ける。
使者の顔には、その絶対的な計算への自信が張り付いていた。
長い、凍てつくような沈黙が落ちた。
ヴェインは机の上の羊皮紙に目を落とし、やがて、瞬き一つせずに顔を上げた。
「署名はできない」
室内の空気が、ピシッと音を立てて凍りついた。
使者の顔から薄ら笑いが消え、背後の騎士たちが無意識に剣の柄に手をかける。
クロードの獰猛な双眸が、猛禽類のように細められた。
「……今、何と? 我が国との協定を破棄すると仰るか?」
「破棄ではない。そもそも、その条約は成立していない」
ヴェインは、一切の抑揚のない、残酷な事実だけを述べるような声で続けた。
「私の叔父であるガレンは、先代領主ヴァルターを暗殺し、正統な継承者である私を不当に追放した簒奪者に過ぎない。ガレンは『正統な領主』ではありませんでした」
使者の喉が引きつる。
ヴェインは、大国の軍事力に対抗するため、武力でも感情でもなく、「法と正統性」という最も鋭利で冷徹な概念を武器として抜き放ったのだ。
「したがって、正統な統治権を持たない一個人が結んだ協定に、現在のグレイヴァル辺境領、および正統な領主である私が縛られる法的根拠はどこにも存在しない。……あの紙切れは、ガレンという犯罪者の個人的な借用書に過ぎない」
完璧な論理のすり替えと、法的な無効化。
使者は顔を朱に染め、激昂して机に身を乗り出した。
「屁理屈を……! 大国ヴェルミリアを愚弄する気か! このような真似をして、辺境のちっぽけな城が、我が国の正規軍を相手に生き残れるとでも思っているのか!」
それは明確な戦争の恫喝だった。
ここで使者を追い返せば、十日後には国境に数万の赤備えの軍勢が押し寄せる。
しかし、ヴェインの薄灰色の瞳には、微塵の恐怖もなかった。
彼は絶望の淵へ相手を突き落とした直後、極めて計算高い、冷徹な『救いの糸』を垂らした。
「ですが、ヴェルミリアの採掘事業への参加そのものを否定するつもりはありません」
使者の怒声が、ピタリと止まった。
「北の鉱山には、我が領地の技術だけでは掘り尽くせない資源が眠っている。大国の資本と技術は歓迎します。……過去の無効な条約は捨て、白紙の状態から、互いに利益となる『新しい条件』で交渉しましょう」
拒絶ではない。再交渉の提案。
使者の脳内で、激しい葛藤が渦巻くのが目に見えるようだった。
ここで席を蹴って戦争を起こせば、辺境の土地相手とは言え莫大な軍事費がかかる上、当面の鉱石の供給は完全にストップする。
だが、ヴェインの提案に乗れば、八割の独占は崩れるにせよ、利益のパイそのものは維持できる。
大国の使者として、手ぶらで帰り「戦争の火種だけを持ち帰った無能」の烙印を押されるリスクと、利益の匂いを天秤にかけた結果は火を見るより明らかだった。
「……ッ、この件、本国に持ち帰らせていただく。新しい条件とやらが、我が国を納得させるものであることを祈るのだな」
使者は忌々(いまいま)しげに羊皮紙をひったくると、捨て台詞を残して足早に執務室を立ち去っていった。
重厚な扉が閉まり、馬車の車輪の音が遠ざかっていくのを確認すると、壁際のクロードが深く、重い溜め息を吐き出した。
「……綱渡りにも程がある。戦争になるかもしれないぞ」
クロードが、本心からの危惧を込めて言った。
「あんなふざけた理屈で、大国が大人しく引き下がると思うか?」
ヴェインは机の上の白紙の羊皮紙に視線を落とし、羽ペンを手に取りながら、平坦な声で答えた。
「引き下がる。そのために、南のテネブラとの関係を作った」
ランプの炎が、ヴェインの横顔に深い陰影を落とす。
「老公爵エドガーとの間で結んだ、グレイヴァルを不可侵の緩衝地帯とする密約。ヴェルミリアの情報網であれば、我々の背後にテネブラの影があることにはすでに気付いているはずだ。もしヴェルミリアが条約の再交渉を蹴ってグレイヴァルに侵攻すれば、南のテネブラが黙っていない。……覇権国家といえど、北の辺境と南の軍事国家を、同時に敵に回すような愚行は犯せない」
クロードは言葉を失った。
すべては、あの単身で乗り込んだテネブラシアでの外交戦から繋がっていたのだ。
大国の使者を前に一歩も退かず、相手の恫喝を完璧な論理で無力化できたのは、ヴェインがすでに盤面の上に「大国同士の軍事的な膠着状態」という巨大な盾を用意していたからに他ならない。
「お前……本当に、恐ろしい王様になりやがったな」
クロードの嗄れた声には、畏怖と、抗いがたい敬意が混じっていた。
ヴェインは何も答えず、ただ静かに、ミレイユから上がってきた新たな税収の計算式に羽ペンを走らせていた。
大国への完全な宣戦布告と、独立国家としての最初の勝利。
グレイヴァルの灰色の旗は、いよいよ大陸の巨大な嵐の中心へと、その身を翻そうとしていた。




