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灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
第1部

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【第41話】



 雪解けの泥濘でいねいにまみれた西の街道を越え、一人の行商人がグレイヴァル城へと駆け込んできたのは、冷たい春の雨が降りしきる午後のことだった。



 アイゼンブルクの商業ギルド長、イゾルデが放った急使である。


男のまとう分厚い外套がいとうには、馬の汗と泥の匂いが深く染み付いており、彼が荷馬車も持たず、不眠不休で早馬を乗り継いできたことを雄弁に物語っていた。



 領主執務室に招き入れられた行商人は、震える手で防水布に包まれた一通の書簡をヴェインに差し出した。



 ヴェインが封を切り、無言で羊皮紙に薄灰色の瞳を落とす。


そこには、いつもの皮肉めいたイゾルデの挨拶は一切なく、大陸の東方――すなわちグレイヴァルのさらに外側に広がる未開の荒野から、不気味な軍事集団が大陸内へ侵入しつつあるという、商人たちの間で飛び交う『未確認のうわさ』が端的に記されていた。



「……どの程度の規模か」



 ヴェインは書簡から視線を外し、息も絶え絶えにかしずく行商人へ向けて、極めて平坦に問うた。



 まだ『東征軍とうせいぐん』という名すら定まっていない、正体不明の影。


それが単なる野盗の群れなのか、それとも一国の正規軍に匹敵する軍事質量を持っているのかで、盤面の意味はまったく変わってくる。



「か、確認できておりません。何しろ、生きて帰ってきた者の数が少なすぎて……」



 行商人は怯えたように身を縮め、しゃがれた声で証言を絞り出した。



「しかし、国境付近を回っていた複数の商人たちが、口を揃えて『見たことのない旗と装備だった』と証言しております。ヴェルミリアの赤備えでもなく、テネブラの黒鋼でもない。陣形も、武器の形状も、大陸のどの国家のものとも一致しない、異形の軍勢だと……!」



 未知の旗。未知の装備。



 ヴェインの脳内で、精緻せいちに組み上げられていた大陸の勢力図が、微かに、だが不吉な音を立ててきしんだ。



 彼は無言のまま、机の上に広げられた巨大な羊皮紙の地図へ視線を落とした。



 アイゼンブルク、ダスクマーレ、ヴェルミリア、テネブラ。


自らが血反吐ちへどを吐くような計算と謀略で均衡を保とうとしているこの大陸の盤面。


その最も東の端に位置するのが、ここグレイヴァル辺境領だ。



 もし、地図の外側から巨大な軍事的暴力が押し寄せてきた場合、真っ先に蹂躙じゅうりんされ、防波堤となるのは自分の領地である。叔父ガレンの逃亡や、国教会の宗教的熱狂などとは次元の違う、物理的な津波。



「下がって休め。十分な金と温かい食事を取らせるよう、ペトラに伝えてある」


「は、はいっ……!」



 行商人が深く頭を下げて退室すると、執務室には雨が窓を叩く音だけが残された。



 ヴェインは地図の東の余白——何も描かれていない羊皮紙の空白部分を、冷え切った瞳でじっと見つめ続けた。



 防ぐ手立てはない。


今のグレイヴァルには、まともな正規軍すら存在しないのだ。


ミレイユの計算をもってしても、外敵を迎撃するための軍事予算など、どこを叩いても一文たりとも出てこない。



 ヴェインは数分間、氷像のように硬直して思考の海に沈んでいたが、やがてパタン、と地図を二つに折りたたんだ。



「今は関係ない」



 誰に言うでもなく、極限まで感情を排した声で、自らの脳にくさびを打つように呟く。



「……ただし、忘れないようにする」



 対処不能な変数を、今すぐ盤面に組み込むのは下策だ。


恐怖に支配されれば、足元の内政が崩壊する。


だから、意識の最も深い底にその『影』を沈め、来るべき破滅の足音として常に耳を澄ませておく。


それは、凡人であれば正気を失いかねないほどの、恐るべき精神の分離作業だった。



 その日の夜。



 城は寝静まり、執務室を照らすのは小さな油ランプの炎だけになっていた。



 ヴェインは未だ机に向かい、ミレイユが残していった法案の草稿に目を通していた。


そこへ、コトン、と微かな音を立てて、温かい白湯さゆの入った木杯が置かれた。



 エラだった。



 彼女は泥を落とした簡素な寝巻き姿で、ランプの炎に照らされたヴェインの横顔を、平坦な鳶色とびいろの瞳でじっと見つめていた。


昼間、行商人がもたらした不穏な空気と、ヴェインが放つ目に見えない緊張感を、彼女の無垢むくな直感は鋭く感じ取っていた。



「……東から、何か来るの?」



 エラが、夜の静寂に溶けるような静かな声で尋ねた。



 昼間、ヴェインが地図の東の空白を狂ったようににらみ続けていたのを、彼女は部屋の隅から見ていたのだ。



 ヴェインは羽ペンを置き、木杯から立ち上る白い湯気を見つめたまま答えた。



「わからない」



 王としての虚勢を張らない、ありのままの事実。



「しかし、来るとすれば、全てが変わる」



 大国同士の均衡も、三分の一税の約束も、グレイヴァルというちっぽけな領地の存亡も。


地図の外側から来る未知の暴力は、盤面そのものを粉々に破壊し尽くすだろう。



 エラは少しだけ首を傾げ、ヴェインの薄灰色の瞳の奥底を覗き込んだ。



「全てって……あなたの計画も?」



 それは、死に体の辺境領を独立させ、父のかたきを討ち、大陸の秩序を作り直すという、ヴェインが己の魂と血肉を削って組み上げてきた、狂気のような巨大な計算式のことだ。



 ヴェインは木杯を手に取り、その温かさを右手の傷跡で確かめるように握りしめた。



 そして、一切の揺らぎのない、絶対零度の声で静かに宣告した。



「計画は変わる」



 盤面が壊れるなら、別の盤面を用意する。駒が足りないなら、敵の駒を使う。


そのための計算と修正は、何度でも行う。



「目的は、変わらない」



 父を殺した怪物の首をね、民が理不尽に血を流すことのない世界を創る。



 その絶対的な目的のためならば、何百という計画を書き捨て、自らの命すらも道端の石ころのように使い潰す。


エラの問いに対する答えは、ヴェイン=グレイハルトという男の核心にある、決して折れることのない強靭きょうじんな『軸』の宣言であった。



 エラは何も言わず、ただ一つだけ小さく頷くと、彼の隣で静かに燃える暖炉の火を見つめた。



 東の闇の奥深くで、世界を飲み込むための巨大な歯車が、音もなく回り始めている。


迫り来る未知の絶望の足音を聞きながらも、若き王の瞳に宿る冷たい炎は、いささかも揺らぐことはなかった。



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