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1回目の土曜日:柏柳椿のデッドエンド

ピピピピ、ピピピピ

静かな部屋に鳴り響く音。

ピピピピ、ピピピピ

無機質な機械音。

ピピピピピピピピピピピピ

夢の世界から引き戻され、不快感が募る。

ピピピピピピ……カチッ。

アラームを止めた。

重い瞼をこじ開け、時計を見る。



5月7日 土曜日 AM7:05



……なんだろう。何か夢を見ていた気がする。


どんな夢だっけ。

思い出そうと頭を捻る。

けれど、まるでぽっかりと穴が空いたかのように何も思い出せなかった。

ふと机の上を見ると、『1』とだけ書かれたメモ帳が置いてある。

使い慣れたメモ帳だけど、そこに書いてある数字には全く覚えが無い。

何の数字だろう。

忘れたときのためにメモをしたんだろうけど、思い出せないんじゃ意味ないな。

苦笑しながらベッドを降りる。

部屋を出ようと扉に手をかけると、下の階から物音が聞こえてきた。

なんだか表現し難い感情が溢れてきて、階段を駆け降り扉を開け放つ。


そこにいたのは、一人の幼い少女だった。

少女は驚いたように目を見開くと、すぐに笑顔になって言った。


「おはよう、お兄ちゃん」


なんだろう、この感覚。まるで失っていた物を取り戻したような……

目の前の少女がとても愛おしく思えて、抱きしめてしまった。

そうだ、この子は――

(ゆい)っ!」

「ちょ、ちょっと! お兄ちゃんが休みすぎておかしくなった!?」

結が困惑したような声を上げる。

そう、この子は僕の妹、浦見(うらみ) (ゆい)。小学3年生の9歳。

大丈夫、全部覚えている。

「え、えっと……もしかして泣いてる?」

結に言われて、自分の頬を伝うものに気づく。

はっとして結を離し、涙を拭く。

「ごめん……なんだか結がどこかに行っちゃったような気がして」

僕がそう言うと、結は優しく微笑みながら言った。

「私はどこにも行かないよ。お兄ちゃんこそ、どこにも行かないでよね」

その表情を見て、僕が見たかったのはこの笑顔なのかも知れないと思った。


「さ、朝ごはんにしよ。今日は私の特製目玉焼きだよ!」

「いつもだろ。結って簡単な料理は完璧に作れるのに、複雑な物を作ろうとした瞬間、謎の物体に変化するからな」

「し、失礼な! 難しい料理だってちゃんと作れるよ! 味がちょっと特徴的なだけだもん!」

怒る結を受け流しつつ、朝食をテーブルに運ぶ。

二人で目玉焼きを口に運びながらテレビを見ていると、海外で感染症が流行っているというニュースが流れてきた。

1000人以上の死者が出ていて、世界保健機関も動いているらしい。

「物騒だな……日本に上陸しなければいいけど」

「そうだね。日本は人口密度も高いし、すぐ広まっちゃいそうだもんね」

「お、結らしくない知性的な答え。どうしたんだ?」

「失礼な。丁度この間、学校で感染症について勉強したんだよ。ちょっと怖かったんで、自分で復習もしてみました」

「へぇ、結が自分から勉強するなんて、珍しいこともあるんだな」

「……さっきからちょっと酷くないかな」

結が拗ねたように言う。

ごめんごめんと軽く謝り、食事を再開する。

しばらくの沈黙。ふと窓の外を見ると青空が広がっていて、つい思ったことを呟いてしまう。

「今こうしてる間にも、世界のどこかで苦しんでる人がいるんだな」

僕の何気ないその一言に、結は全くの無表情で答えた。


「仕方ないよ。私たちは神様じゃないんだから」


達観したようなそのしぐさに少し驚きつつも、そうだなと返して会話を終える。

食事も終わり、牛乳を一杯飲み干した時、唐突に電話が鳴った。

椅子から立ち上がり、受話器を手に取る。

「―――もしもし?」

『ああ、浦見君? 僕だよ、柏柳』

「なんだ柏柳か……ってなんで僕の家の番号知ってるのさ。教えた記憶が無いんだけど」

『それはまあ……企業秘密ってことで』

「企業じゃないじゃん」

『そ、そんなことより今日は暇かな? もし暇なら、一緒にイベントに行って欲しいんだけど』

「イベント? ……何の?」

『ライトノベルだよ。浦見君ってそういうの嫌う人じゃないだろ? 交通費は僕が出すからさ』

確かに嫌いじゃないし、連休中やることなくて暇だったから丁度いいかもしれない。

何より、休日に誰かと遊びに行くなんて機会を逃す理由が無い。

「わかった。いいよ。どこに行けばいい?」

『やった! それじゃあ10時に駅前で待ち合わせで』

「了解。じゃあ後で」

そう言って電話を切る。

今の時刻は8時27分。急いで支度しないと。

「電話、誰からだったの?」

結が尋ねてくる。

「クラスメイトだよ。ライトノベルのイベントに行かないかって」

「へぇ…… 私も行きたい!」

「結も? どうして?」

「だって家にいても暇だし」

そっけなく結が言う。

うーん…… 柏柳はなんて言うだろう。

でも、できることなら連れて行ってやりたい。

家にいても暇だというのは、きっと心からの言葉だろう。

僕と同じで、結も友達が少ない。

気持ちは痛いほどわかる。

「……わかった。ただし、相手が嫌だって言ったらおとなしく帰るんだぞ」

「うん。わかった」

そうして、僕たちは二人で出かける準備を始めたのだった。




「ちょっと早すぎたかな……」

駅前に設置された時計を見ながら呟く。

針は9時19分を指している。約束の時間より30分以上早く着いてしまった。

「だから急ぎすぎだって言ったのに」

結が拗ねたように口を尖らせる。

「でも遅れるよりいいじゃないか」

「まあそうだけど……」

不満気に結はそっぽを向いた。

しばらくの沈黙。

辺りに目を向けると、かなり大きな駅だからかこの時間帯でも大勢の人で溢れている。

当ても無く駅前の喧騒を眺めていると、ふいに結が口を開いた。

「……暑い」

僕は無言で首を縦に振って返事をする。

5月とは思えないほどの暑さだ。

結の方を見ると、ショートカットの黒髪が汗で顔に張り付いている。

心なしか呼吸も荒い。

日陰が無いか辺りを見渡すと、近くに知り合いの姿が見えた。

神宮寺さんだ。

「あっ!」

さっきまでぐったりとしていた結が、なぜか嬉しそうに声を上げる。

神宮寺さんもこちらに気づいたようだ。

「う、うう浦見さん!? あ、えっと……き、奇遇ですね!」

驚いた様子の神宮寺さん。いや、そこまで反応しなくても。

「そうだね。どこか出かけるの?」

「いえ、本屋で買い物をしてきたところです。この辺りで一番大きなお店ですから。ところで……そちらの方はどなたですか?」

神宮寺さんが僕の隣に目を向けながら言う。

「ああ、妹の結だよ」

そう言って神宮寺さんに結を紹介する。

けれど結は、さっきの笑顔が嘘のように暗い表情をしていた。

「結?」

僕が声をかけると結は驚いたように顔を上げ、慌てて自己紹介をする。

「う、浦見 結です。兄がいつもお世話になっています」

心なしか早口で言い終えると、結は頭を下げる。

「初めまして、神宮寺 神奈です。こちらこそ、浦見さんにはいつもお世話になっています」

神宮寺さんも結に答えるように挨拶する。

やっぱり本物のお嬢様なだけあって、そのしぐさからは気品が感じられる。

それが原因かはわからないけど、結は笑顔に悲壮感を混ぜ込んだようなすごく微妙な表情をしていた。

「ところで、浦見さん達は何を?」

神宮寺さんが尋ねてくる。

「ああ、柏柳と待ち合わせしてるんだよ」

「結さんと一緒に……ですか?」

「家にいても暇だって騒ぐから仕方なくね」

僕が肩をすくめてそう言うと、神宮寺さんはクスクスと楽しそうに笑った。

「あ、そうだ。よかったらこれ飲んでください。家にたくさんあるので」

そう言って神宮寺さんは、持っていたかばんからスポーツドリンクを取り出す。

それを見た結は、目を輝かせて嬉しそうにそれを受け取った。

「やった! 丁度のどが渇いてたんだ!」

キャップを開け、ボトルを傾けて一気に半分ほどを飲み干す。

「ぷはー! 生き返る~」

満面の笑みで口元を拭う結を見て、神宮寺さんは優しく微笑むと僕にも同じものをもう一本取り出して渡した。

「今日は暑いですからね。私も家を出るときに飲み物を5本も持たされちゃいました」

「ずいぶん心配性だね。お母さんが持たせたの?」

「い、いえ、えっと……」

急に口ごもる神宮寺さん。

しばらくすると、言いにくそうに口を開いた。

「執事の義之さんが……」

り、リアル執事……

僕が戦慄していると、こちらの様子を伺うように目線を向けてきている神宮寺さんが目に入った。

僕の反応が気になるのだろうか。

確かに家に執事がいるなんて普通じゃないけど、神宮寺さんのお嬢様っぷりは今に始まったことじゃない。

そんなに気にしなくてもいいとおもうけどな。


「あれ? 浦見君、もう来てたんだ。僕も結構早く来たつもりだったんだけどなぁ」


神宮寺さんにかける言葉を考えていると、柏柳がやってきた。

「あ、柏柳さん。おはようございます」

「おはよう、神宮寺さん。それと……」

結を見て柏柳が言葉につまる。

「ああ、こっちは僕の妹の結だよ。一緒に行きたいって言うんだけど、いいかな?」

「もちろんさ! むしろ、結ちゃんがいるなら浦見君はもう帰ってくれてもいいよ」

「えっ」

「冗談だよ。というか妹いたんだね。知らなかったなぁ」

心なしか悔しそうに柏柳は言う。

情報屋で通っている柏柳としては、結のことも頭に入れておきたかったのかもしれない。

「よろしくね、結ちゃん」

「こちらこそ!」

柏柳が差し出した手を、結が握り返す。

嬉しそうな結を見て、僕は内心ホッとしていた。

誰もいない家に一人きりというのは、すごく辛い。

普通の子はたくさんの友達と一緒にどこかで遊んでいるのに、自分はなぜ家で一人過ごしているのだろう。

そんなことを考え始めると、暗い気持ちになる。憂鬱になる。生きていることさえ、苦痛になる。

僕も結も、お互いにそんな感情を抱えているのがわかっている。

だから、柏柳が僕を誘ってくれて嬉しかった。

結のことも受け入れてくれて、安心した。

「それじゃあさっそくだけど行こうか」

握っていた手を離し、柏柳が言った。

「そうだね。じゃあ神宮寺さん、またね」

「はい。さようなら。浦見さん、柏柳さん。それに結ちゃん」

「うん。またね! ……神宮寺さん」

最後に結の声のトーンが下がったのは気のせいだろうか。

ふと浮かんだそんな疑問を深く考える暇も無く、僕は結に手を引かれて駅へと向かっていった。




柏柳は約束だからと言って僕、そして結の分の運賃を払ってくれようとしたが、僕たちはそれを断った。

感謝したいのはむしろ僕のほうだ。誘ってもらった上におごって貰うなんてできない。

そして、今いるのは電車の走行音が響く車内。

周りに迷惑にならないよう気をつけながら、僕たち3人は雑談をしていた。

柏柳は情報屋で通っているだけあって、僕も結も話していて飽きない。

「それでさ……おっと」

突然柏柳の言葉が止まる。

何事かと柏柳の方を見ると、小さな女の子がしりもちをついてこちらを見上げていた。

「ごめんよ。大丈夫かい?」

柏柳が女の子に手を差し出す。

女の子はその手を掴んで立ち上がると、申し訳無さそうに頭を下げた。

「はい。……ごめんなさい」

「別にどうってことないさ。それより君、一人なのかい?」

「うん、お母さんの病院までお見舞いに行く途中……あっ」

女の子が何かに気づいて声を上げる。

その視線の先にいたのは、結だった。

「えっ?」

突然向けられた視線に、戸惑う結。

「3年1組の浦見さんだよね? 私は2年2組の西河(さいか)。見覚え……ないかな」

西河と名乗った女の子がたずねる。

その問いに、結はさらにうろたえた。

結の小学校は一学年50人と、僕たちが住んでいる地域の学校としてはかなり少人数だ。

だから学校内では組や学年が違っていても意外と交流があったりするんだけど……

結は僕と同じく、あまり人と関わるのが上手くない。

クラス内ですら友人はいないと言えるほどなのに、他学年の相手を知っているはずがない。

「……ごめんなさい」

「そっか。そうだよね。私もそんなに顔が広いほうじゃないし」

そう言って女の子は苦笑する。

「ところで、浦見さん達はどこに行くの?」

「ああ、ここだよ」

柏柳がかばんからチラシを取り出す。

「あっ! 『クローズ』だ!!」




「二人が何の話してるかわかる?」

「……さっぱり」

電車に乗ってから十数分。

柏柳と女の子には共通の趣味があったらしく、あっという間に打ち解けていた。

その話についていけない僕たち兄妹は、白熱していく二人の会話を眺めながら言葉を交わす。

二人は今度会う約束もしているようだ。

「……でも、少し羨ましいな」

結が呟く。

それは僕が感じている気持ちと同じだった。

休むことなく話し続ける二人の顔は、とても輝いて見える。

あんな友達がいたら、きっと毎日が楽しいんだろうな……

横を向くと、結と目が合う。

かすかに揺れるその瞳は、結が僕と同じ感情を抱いている証だった。

僕が手を握ると、結も握り返してくる。

結がいるから、この気持ちを共有できる相手がいるから、辛くても僕はなんとかやっていける。

きっと今掴んでいるこの小さな手は、僕が失っちゃいけない、かけがえのない物なんだ。

「そろそろ次の駅だね。あんまりドアの近くにいると邪魔になるかな」

女の子との会話が一段落したのか、柏柳が言う。

あれ……? 何か嫌な感じがする。

なんだろう……忘れ物でもしたかな?

僕がそう思った、その時だった。


―――突然、耳を劈くような大きい音が鳴り響く。


同時に強い衝撃が僕たちを襲う。

他の乗客たちのざわめきに紛れて、柏柳の「危ない!」という声が聞こえた。

僕はとっさに結を抱きしめる。

何かがぶつかる音と共に、一際強い衝撃と浮遊感が僕らを襲った。

そして、意識が闇に消える。




結に揺さぶられて目が覚める。

どのくらい気を失っていたんだろう。

一瞬かもしれないし、かなり長い時間かもしれない。

「結……大丈夫か?」

僕の問いに、結はうなずく。

酷い頭痛に耐えながら身体を起こすと、少し離れた場所に柏柳と女の子が見えた。

ドアの前に横たわる柏柳は、僕の位置からだと座席が邪魔で下半身しか見えない。

女の子が柏柳の身体を揺さぶっているけど、柏柳はピクリとも動かなかった。

「柏柳……大丈――」

駆け寄って言おうとした言葉は、最後まで出なかった。

柏柳の後頭部から流れ出る物を見てしまったから。

真っ赤な鮮血でできた水溜りは、僕の思考を止めるのに十分すぎた。

信じたくない光景を前に、後ずさりするその足からカクンと力が抜ける。

遠のく意識の中、揺らぐ視界に一瞬だけ映ったのは、一切の感情が消え去った結の顔だった。

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