エピローグ あなたと見る、吉野の桜
翌年の春、雅臣は紗良を吉野へ連れていった。
山を埋め尽くすように、淡い桜が咲いている。
風が吹くたび、花びらが春の空へ舞い上がった。
紗良は、その景色を見たまま動けなかった。
「ここだったのですね」
「あの方と来るはずだった場所ですか」
「はい」
雅継は、満月が過ぎてすべてが片づいたら、吉野へ行こうと言った。
けれど、その約束が果たされることはなかった。
雅臣は上着の内側から、折り畳んだ紙を取り出した。
「藤原家の蔵から、新しい記録が見つかりました」
「雅継さまの?」
「ええ」
紗良は、差し出された紙を受け取った。
「雅継は、都で果たすべき役目を終えたあと、晩年を宇治の別邸で過ごしたそうです」
「宇治の別邸で……」
「最期まで、あの邸を手放さなかったとあります」
二人で庭を歩き、池を眺め、夜遅く帰る雅継を待った場所。
紗良がいなくなったあとも、雅継はあの邸へ戻り続けた。
けれど、雅継は生きた。
紗良に生きよと告げた人は、自分もまた、紗良のいない時を生き抜いた。
「吉野には、雅継の所領がありました」
雅臣は桜の向こうへ目を向けた。
「あなたを送り出した翌年から、春になると一人でここへ来ていたそうです」
「毎年ですか」
「少なくとも、身体が動く間は」
紗良の目から涙がこぼれた。
雅継は、二人で見るはずだった桜を一人で見ていた。
紗良のいない春を迎えるたび、この場所へ通っていた。
「歌も一首、残っていました」
雅臣が静かに読み上げる。
「待つ人の」
その声が、春の風に重なる。
「来ぬ春ごとに、吉野山」
紗良は目を閉じた。
「花は咲けども、色なきものを」
待っている人が帰ってこない春を迎えるたび、吉野山の花は咲く。
けれど、その人がいなければ、どれほど美しい桜にも色はない。
「ごめんなさい」
紗良の口から、声がこぼれた。
「雅継さまを一人にして、私は……」
その先を言うことができなかった。
元の時代へ帰ると決めたのは、自分だった。
雅継に手を離させ、一人で千年前の時へ残した。
その雅継は、毎年一人で吉野へ来ていた。
紗良が隣にいない桜を、色がないと詠みながら見上げていた。
「あなたは、生きるために帰った」
雅臣が静かに言った。
紗良は首を横に振った。
「でも、雅継さまは一人で」
「あの方が、あなたを送り出したのでしょう」
「はい」
「あなたに生きてほしいと願って」
紗良は答えられなかった。
満月の下で聞いた声が、今も胸に残っている。
――私のいない時でも、生きよ。
「この歌は、あなたを責めるために残されたものではないと思います」
雅臣は、吉野の桜を見上げた。
「待ち続けたことを、あなたへ届けるための歌です」
紗良は手にした紙を胸へ抱いた。
雅継の声を、千年後に受け取ったような気がした。
「雅継さまには、この桜の色が見えなかったのですね」
雅臣は、すぐには答えなかった。
ただ、紗良が泣きやむまで隣に立っていた。
「紗良さん」
「はい」
「こちらを見てください」
その言葉に、胸が鳴った。
紗良が顔を上げると、雅臣は少し眉を寄せていた。
泣いている紗良を見る時、雅継も同じ顔をした。
雅臣の指が、紗良の頬を伝う涙に触れる。
「まだ、泣くのですか」
「千年分ですから」
「それは、すぐには止まりませんね」
「はい」
「では、止まるまでここにいます」
当然のように告げる声も、紗良から目を離さないところも、よく知っていた。
雅臣は紗良へ手を差し出した。
その手を見た瞬間、宇治川のほとりで最後まで重なっていた指先を思い出した。
紗良は、自分からその手を取った。
千年前に離れた手と、同じ温かさだった。
「雅臣さん」
「はい」
「来年も、一緒に来てくださいますか」
雅臣の表情が、わずかに緩んだ。
「来年だけでよいのですか」
「では、その次の年も」
「それから?」
「ずっと、です」
雅臣の指が、紗良の指の間へ重なる。
「最初から、そう言ってください」
紗良は涙の中で笑った。
その言葉も、少し不機嫌そうな顔も、あまりに懐かしかった。
「ずいぶん遅かったですね」
「何がですか」
「私を見つけるまでです」
雅臣は紗良を見つめた。
風が吹き、二人の間を桜の花びらが通り過ぎる。
「どれほど待ちましたか」
「千年です」
雅臣の手に、わずかに力がこもった。
「それは、待たせすぎました」
「はい」
「ですが、もう見失いません」
低く、迷いのない声だった。
雅臣はつないだ手を引き寄せる。
紗良は逆らわず、その胸元へ一歩近づいた。
「遅くなりました」
「本当に」
「迎えに来ました」
紗良は目を閉じた。
「はい」
吉野の桜が、二人の上へ降り注いでいる。
抱き寄せられた腕の中で、千年前から胸に残っていた痛みが、春の光へゆっくりとほどけていく。
その春、吉野の桜は、千年ぶりに色を取り戻した。
――完――




