第二部・第十五章:「慈悲と憎悪の残響」
ヒナタは、部屋を満たしていた重く息苦しい沈黙を破るように、静かな声で言った。
「カネキくん……本当に、すごいよ」
僕は彼女を見つめた。崩れ落ちた直後だったせいか、まだ視界が少しぼやけている。
「僕をからかっているのか?」
彼女はゆっくりと首を横に振った。
「絶対にからかってなんかいないよ。やっと自分自身に正直になってくれたことを、私は嬉しく思ってる。だから、その大きな一歩へのご褒美として……私はあなたを助ける。隠された理由も、裏の目的もなく」
僕は何も言えず、ただそこに座っていた。頭の中はひどく混乱していた。
「この感覚は何だ? なぜ彼女と一緒にいると、こんなにも不思議な静けさを感じる? いや……認めるわけにはいかない。今すぐ立ち上がらなければ」
こんな弱い姿を誰かに見られるわけにはいかない。
痺れた身体を無理やり動かし、僕は寝室へ戻ってドアを閉めた。表情から温度が消え、冷たく険しいものへと変わっていく。
僕は机の引き出しを開け、危険な考えに囚われながら、ある行動を取ろうとした。
「誰にも見られない。もしこの可能性を今のうちに消してしまえば……」
しかし、リビングへ戻った瞬間、言葉が喉に詰まった。
ヒナタは一人で静かに部屋を掃除していた。空になったソーダの缶や散らかったゴミを片付けている。
僕の気配に気づくと、彼女は顔を上げ、温かな笑顔を浮かべた。
「少し休んでて、カネキ。掃除は私がやるから。それに、何か食べるものも作ってあげる」
僕はその場で固まった。
そして、ふと苦い現実に気づいた。
「僕は馬鹿なのか? 学校側は、今日ヒナタが生徒会長としてここへ来たことを完全に把握している。もし彼女に何かあれば、真っ先に僕へ疑いが向く。すぐに露見する」
僕は歯を食いしばり、考えを振り切って寝室へ戻った。
ベッドの端に腰を下ろし、混乱と不安の渦に沈んでいく。
何時間もの疲れ切った沈黙の後、彼女の声が僕を現実へ引き戻した。
「カネキ! 昼ご飯できたよ!」
僕は部屋を出てテーブルにつき、目の前に置かれた温かな料理をじっと見つめた。
「本当に腹が減っている……。でも、この料理を信用していいのか? 何か入っているんじゃないか?」
ヒナタは僕の向かいに座り、優しく言った。
「ほら、食べて。頑張って作ったんだから」
空っぽの胃に負け、僕はようやく箸を手に取り、一口食べた。
彼女は期待するように身を乗り出した。
「どう? 美味しい?」
僕は料理から目を離さず、冷たく呟いた。
「……たぶん、美味しい」
ヒナタは楽しそうにため息をついた。
「『たぶん』ってどういう意味?」
しかし次の瞬間、彼女の表情が真剣なものへ変わった。
「カネキ……本当は何があったのか、ちゃんと話してほしい。あなたには元気な状態で学校へ戻ってきてほしいの。学校側も、今回の夏の活動を私たちの成績に直接関係させるでしょうから」
僕は静かに嘘をついた。
「ただ少し精神的に疲れていただけだ。それ以上でも、それ以下でもない」
ヒナタは目を細めた。
「嘘ばかりついて、恥ずかしくないの?」
僕は苦々しく考えた。
「彼女には、生まれつき嘘を見抜く能力があるらしい。でも、その能力はそこまで高度なものじゃない。単純な話だ。今の僕は肉体的にも精神的にも限界まで疲弊している。彼女の尋問をかわすために、筋の通った話を作り上げるだけの精神力すら残っていない」
ヒナタは真剣で、そして心配そうな声で囁いた。
「ねえ。もし本当のことを話してくれたら、来年なら力になれるかもしれない。あなたが学校行事に参加しなくても、成績に影響しないように、私の立場を利用して調整することもできる。今学期、あなたがどれだけあの行事を嫌がっていたか、私は気づいていたから」
僕は食べる手を止め、本当の意味で困惑した。
「どうしてそこまで僕を気にする? 僕は君を知らないし、君だって僕を知らない。あの日、君の直感を信じようとした。でも……この様子を見る限り、どうやら僕の考えは間違っていたらしい」
ヒナタは迷うことなく答えた。
「あなたが私を二度助けてくれたから。……少なくとも二回は」
部屋に重く暗い沈黙が落ちた。
僕は背もたれに寄りかかり、声を氷のように冷たく落とした。
「もし僕に問題があると言ったら……そこに女なんて一切関係ないと言ったら?」
ヒナタは落ち着いた目で僕を見つめた。
「その問題を解決したいわけじゃない。ただ、あなたを支えたいの」
僕はしばらく彼女を見つめ、それから視線を逸らした。
「……考えておく」
「それなら、すごく嬉しい!」
ヒナタは明るく、そしてどこか隠されたものを感じさせる、誠実な笑顔を浮かべた。
ヒナタを家まで送り、無事に到着したことを確認すると、僕はそのまま市立病院へ向かった。
僕の苦しみが積み重なる原因となった友人に会うためだった。
「彼があんな状態になっているところを見るのは嫌だ……でも、仕方がない」
しかし、運命は僕にさらなる残酷な驚きを用意していた。
消毒された病院の廊下を歩いていると、同じような上品なスーツを着た男たちの集団とすれ違った。
聞き覚えのある皮肉な声が響いた。
「やあ。誰かと思えば……久しぶりだな、坊や」
あの男だった。
ナガミを撃ったFCIのエージェント。
彼は僕を見ると、皮肉な笑みを浮かべた。
「完全にボロボロじゃないか。はは」
僕は完全に立ち止まり、言葉を返すことも、彼を見ることさえ拒んだ。
男は僕に近づき、耳元で嘲るように囁いた。
「正直言って、俺たちはお前みたいな連中に構っている暇なんてないんだ。お前たちのせいで、俺たちは貴重な時間を大量に無駄にした。特に、あの母親に事情を説明する羽目になったのは最悪だったよ」
そして彼は薄ら笑いを浮かべた。
「お前が約束した『復讐』とやらも、永遠に待つことになりそうだな。どうせ実現するわけがないんだからな! はははは!」
男は廊下に響き渡るような笑い声を上げ、そのまま去っていった。
僕は何も聞かなかったかのように歩き続け、患者の病室のドアを開けた。
中では、ユウト・ナガミがベッドに座り、無意識に携帯ゲーム機を握っていた。
「本当に頭がおかしいのか、カネキ!」
ドアが閉まるなり、ナガミが叫んだ。その声は恐怖で震えていた。
「挨拶もなしに、そんな芝居がかった前置きをするのはどうでもいい」
僕は冷たく答えながら、窓へ向かって歩いた。
「本当に復讐するつもりなのか? それとも、自分から破滅しようとしているのか、この馬鹿! まだ子供だろ。それで、どうやって始めるつもりなんだ?」
ナガミは叫びながら、ゲーム機を布団の上へ投げた。
「僕の考えに口を出すな」
僕は振り返り、完全に冷え切った目で彼を見つめながら囁いた。
「それに、そもそも今回の問題の最大の原因はお前だ。だから、お前には黙っているのが一番ふさわしい。僕はお前との関係を切る。ここで終わりだ。僕はお前を知らない。お前も僕を知らない」
ナガミは震え、顔を青ざめさせた。
「わかった! でも、本当にまた完全に一人になるつもりなのか? 他に友達はいないのか?」
「僕はお前に友達になってくれなんて頼んでいない。お前が勝手にそうしたんだ」
僕は石のように鋭い声で答え、出口へ向かって歩いた。
「お前が全部やったのは、自分自身の欲望のためだった。それに……僕の中には、今でも完全で完璧な誰かがいる。そいつが僕の話し相手になってくれる」
「……さようなら、ナガミ」
僕はドアを閉めた。
そして、あの病室に自分の過去を残したまま、その場を去った。




