地上へ
――どれだけ倒しただろう。
もう数えるのはやめていた。ただ白い通路に転がる無数の死骸。
一つ目の巨人、鋼の甲殻を持つ蜘蛛。翼を持つ黒い獣。そのどれもが上層しか潜ったことのない烏真が遭遇したことのないモンスターばかりだった。
「――っ!」
しかし烏真は躊躇わない。
臆することなく、振り放ったナイフが巨人の喉をかき切った。
血飛沫が舞い、崩れ落ちる巨体。そのまま振り返ることもなく次へ向かう。視界にモンスターが映れば戦い、倒し、そして食べる。
ただそれだけを繰り返す。
――『レベルが上昇しました』――
上がる。まだ上がった。
際限なく上がり続けるレベル。その度に脳の奥を直接撫でられるような感覚に。止まっていたものが確かに前へ進んでいる。それだけで胸が熱くなる。
――『レベルが上昇しました』――
もっと。
――『レベルが上昇しました』――
まだいける。
――『レベルが上昇しました』――
もっと先へ。
――『レベルが上昇しました』――
諦めていた夢。
届かなかった場所。
才能がないと言われ続けた人生。
全部取り返せるかもしれない。
そう思うと止まれなかった。
いや――止まりたくなかった。
「次……!!」
烏真は血に濡れたナイフを握ったまま歩く。
疲労はない。
空腹もない。
眠気もない。
ただ身体の奥底で、もっと欲しいという衝動だけが燃え続けていた。
「マスター」
しかしそんな熱を帯びる烏真の隣でイエルが呼んだ。だが耳に入らない。視線は次の獲物を探していた。
「マスター」
また呼ばれる。それでも止まらない――しかし、
「地上への帰還を推奨します」
「いや、……まだ――――」
烏真は前を見たまま答える。
「まだ足りない」
「経過時間を報告します」
「……あと、一体――」
「経過時間を報告します」
「あと、少し……」
「経過時間を報告します」
「次だ……次のモンスターを……」
「経過時間を報告します――帰還の是非はお任せします」
「……え?」
イエルはそこで少し間を置いて、
「経過時間――現在、九十三日です」
そこで冷水を頭にかけられたように熱は消え、思考が止まった。
「…………は?」
手からナイフが落ちる。
乾いた金属音が白い通路に響いた。
九十三日――そう言ったのか、と。
「そんなに……」
「はい」
「九十三日?」
「はい」
「三か月も……?」
「正確には九十三日と七時間十二分十一秒ですが」
細かく時間を算出されて、更に冷静になってしまう。
周囲を見れば通路には無数のモンスターの死骸。血に塗れた腕、解体された大量の肉片。機械のようにモンスターを倒し、ひたすらにその肉を食い続けた。
「俺――……」
何体、倒した?
何体、食った?
それをどれだけ繰り返した――イエルに告げられた三か月という時間。
「……ずっと?」
背筋が凍るような、さっきまで身体を支配していた熱が一気に引いていくのがわかる。
「……俺、何やってたんだ……?」
地上へ帰るつもりだった――そのまま家に帰るつもりだったのに、それなのにレベルが上がる。その快感だけで、ずっと戦って食べ続けていた。
「……まじか」
気持ち悪い。
今更になって嘔吐感が込み上げてくる。それはモンスターを食べたことではなく、三ヶ月という長い時間をたった一つの欲望だけで動いていた自分自身に。
「マスター」
しかしそんな焦燥する烏真をよそにイエルは見上げたまま、
「継続しますか? 地上への帰還経路は維持されていますがマスターの選択を尊重します」
その時、ようやく気付いた。
イエルは両目を閉じたまま、顔色ひとつ変えずその場でただ烏真を見守り続けていたことに気付く。
烏真はそんな彼女を置き去りにしていたことを恥じた。それなのにイエルは何も言わず、ただ烏真のレベルアップのために協力してくれていた。
烏真はしばらく黙った。
そして、ゆっくり息を吐いて――
「……ごめんね」
「なぜ謝罪をするのですか?」
「いや、その……夢中になりすぎたよ……」
「問題ありません」
「問題あるよ……三ヶ月も、こんなことに付き合わせて――なんて言ったらいいのか……」
「私は待機していただけです。お気になさらずに」
しかし何を言ってもイエルは首を傾げたままで、烏真が何を言っているのかわからないようで、むしろ困ったような表情をしている。
(違うだろ――)
胸の中で自分にそう言い聞かせる。
強くなるのは大事だ。もうこれ以上、強くなれないと成長の限界を迎えてしまった烏真にとってレベルを上げるというのは大事なことなのかもしれない。
しかし、もっと大事なことがあったはずだ。
どうして探索者になりたい?
なぜダンジョンの奥深くを潜りたい?
父のようになりたかったからだ――その夢のために、他の誰かを巻き込んでしまうことは……あってはならないことだ。
烏真は溜息を吐いて頭を掻いた。
「……帰ろうか」
「了解しました」
その返事だけで少し安心した。
「こちらです」
イエルが烏真の前を歩き、何もないはずの白い壁に触れる度にその一枚の壁だけが消失し、新しい道への入口になる。その奥は白い光を放って、一歩踏み出せば吸い込まれそうだった。
「帰還経路の生成をしました」
「便利すぎる……」
「ダンジョンコアにとっては標準機能ですが――」
「そ、そっか……」
そしてイエルが生成した地上への帰還経路に足を踏み入れようとしたのだが、
「……あのね」
「はい」
「イエルって、その……ダンジョンコアなんだよね?」
「はい」
「それって……外に出ても大丈夫なの??」
烏真にとってダンジョンコアという存在がどういうものか全くわからない。
ダンジョンを形成するための最も大事な代物なんてその程度の認識だ。そもそもこの目でイエル以外のダンジョンコアを見たこともない。
「問題ありません」
即答だった。
「い、いやいや……契約してからこんなこと言うのもあれだけど、問題ありそうなんだけど???」
そのダンジョンが崩れるとか大変な事態が起こらないのか、と。
「ありません」
そこから「ありえません」と続けてイエルは断言する。
「俺がイエルを外に連れ出したせいでダンジョンが崩落しちゃうとか……」
「ご安心ください。私はこの難波ダンジョンとは無関係です」
「じゃあイエルはどのダンジョンに関わっているの?」
「該当情報への回答に対して権限がありません」
しかし返ってきたのは意外な言葉だった。
「現在、機能の一部に制限がかかっています――その情報は回答できません」
そのままペコリと深々と頭を下げて「申し訳ありません」なんて言われてしまうと、もう烏真は何も言えないでいた。
「現在、私が使用できる機能は全体の34%だけです」
「34……パー……」
その数字を聞いた瞬間だった。
脳裏に焼き付いていた黒い文字が不意によみがえる。
――《不治なる不死》
そこに表示されていた数字も確か――
「……34%」
無意識にそう呟いていた。
「長い間、眠っていたことで機能が十全に使用できずにいます。今の私は役立たずですね。もちろん契約も破棄して頂いて構いません」
項垂れるイエルを前に、烏真は大袈裟に手を振る。
「そんなこと言わないで。イエルのおかげでこうして生きていられるんだ。助けられてばっかりだからね……少しぐらい、俺も役に立てたらいいなって――」
そもそも烏真は延命のために契約を選んだ。契約破棄なんて出来るはずがない。
「ちがいます」
しかし烏真の自虐に対して、その言葉を否定するかのようにイエルは自分の小さな両手で烏真の手を強く握り締めていた。
「そんなことを仰らないでください……私を助けてくれた、あなただからこそ……私は――」
「はは、そう言ってもらえてうれしいよ……俺はそんな大した人間じゃないけど、イエルひとり守るぐらいは頑張るからさ」
だから、今度は烏真がイエルの両手を優しく包み込んで、
「イエルも自分のことを悪く言わないでね」
イエルは無言でコクリと首を縦に振って、そのまま烏真は目の前の地上に繋がっているらしい帰還への経路となる光の中へ足を踏み入れる。
「長距離座標接続は不可能ですが、難波ダンジョンの外へ移動は可能です」
それなら何の問題もない。
「周辺に生体反応が存在しない地点を自動選定して、移動しますのでご安心ください」
そして烏真の視界が目を閉じたくなるほどに眩い光に呑まれていくのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「…………ううっ」
烏真はゆっくり顔を上げる。気付けば難波ダンジョンの外に移動していた。見上げれば頭上には月が浮かんでいる。
「ここは……」
「地上です」
どうやら無事に地上へ帰還できたようだ。
「難波ダンジョン周辺から、人間の活動反応が最も少ない地点を選択しました」
日本に点々と存在するダンジョンの中でも最大級の広さを誇る難波ダンジョンは上層に進むための入口が無数に存在している。
その中で、イエルは人気の少ない入口を選んで移動させてくれたようだが――路地裏にまでダンジョンの入口が繋がっているのは何度も上層へは潜っていたがこれは烏真も知らなかった。
「マスターの今の状態から他者との接触はトラブル発生の原因になりうるので」
「あ、ありがとう……」
服はボロボロだし、髪もヒゲもぼっさぼさの状態で、しかも返り血を浴びてあまりにも酷い状態だ。
ダンジョンを潜っている探索者でもここまでみすぼらしい状態になっている人間はそういない。こんな状態で他者に接触してもどう考えても悪い事態しか起きないだろう。
しかし辺りを見渡すと、イエルのおかげで確かに誰もいない――ホっと一安心。
そして数秒、ただ立ち尽くして、
「……帰ってこれた」
ぽつりと呟いた。
まだ生きている。まだ終わっていない。余命宣告を受けて、どうせ死ぬなら最後に一度だけ夢を見ようと潜って――だけど生きて帰って来れた。
まさか独りではなく、ダンジョンコアと名乗る少女と共に帰還することになるとは思わなかったけれど。
「人生って分かんないもんだ」
「なにか問題が発生しましたか?」
「ごめん、独り言だよ」
烏真は苦笑しながら自分の身体を見るが、本当にぼろぼろだった。
何度も戦ったせいでシャツは裂けているし、乾いた血が黒くこびりついている。客観的に見ても誰であろうと反応されてしまう悲惨な状態である。
「これ、まずいな」
「何がでしょうか」
「いやほら……この格好――」
両腕を広げて見せる。
「人に見られたら絶対へんな目で見られるよねぇ」
「事案ですね」
「だよねぇ……」
返り血を浴びたボロボロのおっさんが幼女を連れて歩いている――こんなもの他の誰かに見られれば事件か何かかと思われて当然だろう。
電車に乗ってこのまま真っ直ぐ帰りたいけれど、とてもその移動手段は選べない。そもそも時計を見れば深夜二時――終電はとっくに過ぎている。
タクシーなんてもっと無理だろう。血まみれのおっさんが乗り込んできたら運転手は悲鳴を上げる。
「……歩くしかないかぁ」
「現在地点から居住地まで徒歩五時間七分といったところでしょうか」
一度も烏真はイエルに帰る家がどこにあるのか教えていないのに、既に徒歩で帰宅までにかかる時間を算出している。しかし聞きたくなかった。それだと到着した頃には朝になっている。
「うわぁ……」
思わず夜空を見上げた。
ダンジョンの中でいたときは全く疲れなかったのに、もはやこの場で今すぐ寝たかった。しかし職質されないことを祈りながら、帰宅のための一歩を踏み出すのだが、
「……あれ?」
ダンジョンの中でいたときはずっと重く苦しかった身体が嘘のように軽かった。三か月という長い時間を戦い続けてもダンジョンの中では一度も疲労なんて感じなかった。
「なんだこれ……?」
それなのに今になって倦怠感が押し寄せてくる。息をするのが苦しい。全身が鉛でも詰め込まれたみたいに重かった。
「マスター……?」
「いや、だいじょうぶだ……」
疲労感に耐えるように烏真は前を向いて歩き始める。ここまで生き延びたのだ……あと数時間くらい歩ける、と。
歩き始める――イエルは相も変わらず無表情のまま。月明かりの下で白い髪が静かに揺れていた。
「イエル」
「はい」
「その……五時間も歩くんだけど、イエルはだいじょうぶなの?」
「特に問題ありませんが?」
なんて即答されてしまう。人ではなくダンジョンコアだから疲労することもないのだろうか。
「マスターお疲れでしたら担いで帰りましょうか?」
「そ、それはさすがに……」
いくら疲れているとはいえ遠慮した。そしてそのまま二人は帰路を歩く。
「俺が住んでるところさ……すっごい田舎なんだよ」
そんな帰路の途中で烏真はイエルに向かって呟いて、
「田舎……ですか?」
「何もなくてさ……コンビニも遠いし、正直かなり退屈だと思う」
それでも夜空を見上げたまま、
「ダンジョンも無いし……でも静かで、いいところなんだ」
ぽつりと呟く――だからこそ落ち着ける。自分にとって唯一の帰る場所だった。
その言葉にイエルは数秒だけ沈黙した。
そして小さく頷いて、
「楽しみです」
その返答に烏真は目を丸くした。まさかそんな言葉が返ってくるとは思っていなかったから安心してしまう。
「じゃあ……帰ろうか」
「はい、マスター」
深夜の道を歩き始める。長い帰り道だった。あれだけ疲れていたのに今は不思議と足取りは軽かった。
余命を宣告されて、人生は終わったと思っていた。だが今は違う――イエルと出会い未来は変わった。これからどうするか……それは帰ってから考えようと……。
ようやく取り戻した穏やかな日常。
その尊さを――烏真はまだ知らずにいた。
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