長すぎる帰り道
視界に浮かんだ意味不明な文字。
《不治なる不死》という、どう考えても物騒な表示。
イエルと契約したことで病の進行は止まり、二年で終わるはずだった余命が延長されたことを知っていまは安堵している。
烏真は小さく息を吐いた。
「とりあえず、地上に戻ろう……」
考えるのは家に帰ってからにしようと、烏真は苦笑する。本来ならばライセンスを持たない状態で中層より奥へ進むつもりでいたはずなのに、まさかこんなことになるなんて想像もできなかった。
これからのこともある――今後どうするかも、まずは家に帰ってから考えようと烏真はイエルに視線を移す。小さな身体。烏真の腰ぐらいの背丈。そんなイエルもまた静かにこちらを見ていた。
「地上に帰還しますか?」
「えーっと、そうなんだけど……これ、どこから出れば……」
「お任せください」
そう言ってイエルが白い壁へ手を伸ばす。
その瞬間、壁面の一枚が水面みたいに揺れ始めた。
そのままゆらゆらと透明になっていく。その向こう側には暗い通路が現れる。烏真が来た道と同じどこまでも真っ直ぐに続く一本道だった。
「あー……」
察した。
「やっぱりこれ……歩いて帰る感じだよねぇ」
「はい。ですが上層までの最短経路です」
なら、弱音を吐いている場合ではない。意を決して烏真は帰路への道に足を踏み込んだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
地上を目指し、通路を歩き始めて数分後だった。
頭上から嫌な音がした。ずり……ずり……と何かが擦れる音がする。
「マスター」
「……ん?」
「右上方――――」
イエルの言葉に引き寄せられるように視線を動かした頃には壁を這う巨大な白蛇が飛びかかって来た。またもや十メートル近い巨体の怪物だ。ここにはボスクラスのモンスターしかいないのか?
「うおっ……!!?」
反射的に後ろへ飛んだ。白蛇の牙をただ避けるはずだった。
烏真は自身の腰へと手を伸ばした。だが、そこにあるはずの感触はなかった。剣は折れてしまった。しかもそれはイエルに渡してある。今の烏真は丸腰だった。
「あ、やば…………」
しかし身体が勝手に動いていた。一歩踏み込み、腰が回る。
そのまま右腕が自然に振り抜かれて――
――ドゴォッ!!!!
轟音。
回避と同時に何が起こったのか巨大な蛇の頭部がありえない方向へ折れ曲がり、数メートル先の壁へ叩きつけていた。白い壁には蜘蛛の巣状の亀裂が走ったまま蛇のモンスターはそのまま動かなくなった。
静寂。
「…………………………………え?」
ポカンと、唖然としたまま烏真は固まった。
ゆっくり自分の拳を見る。
握る。
開く。
もう一度見る。
「…………ど、どうなってるんだ?」
ぽつりと呟く。
「レベルが上がったから……かな?」
あのサソリを食べてから確かにレベルは上がった。魔力もスキルも相変わらずゼロのままだけれど、今の一撃は明らかに普通じゃない。
どれだけレベルが上がったのかわからないけれど、あんなにも大きな蛇のモンスターを武器を使わず素手だけで殴り倒した事実に驚くしかなかった。
「……食べたら、また――レベルが、上がるかも……」
ここに来てまたモンスターを食おうとしている烏真がいた。だがそこでポツリと呟いてすぐに固まってしまう。
「いや…………」
眉をひそめて、
「どうなっちゃったのかな、俺――」
おかしい。
やっぱりどう考えてもおかしい。
余命を宣告されて病が進み始めてから、まともに食事なんて取っていなかった。何を食べても味がしない。ただ生きるために流し込んでいただけだ。
しかしサソリの怪物を食べたときに何年と上がることのなかったレベルが間違いなく上昇したのだ。
「……っ」
思わず口元を押さえる。
嫌悪より速く、欲求が膨れ上がる。
何十年と上がることのなかったレベルが、たった一度モンスターを食べるだけで上昇した。頭では警鐘が鳴っている。
こんな方法は異常だ。普通じゃない。それなのに躊躇いよりも先に、もっと試したいという執念が湧き上がっていた。
烏真は小さく息を吐いてイエルを見る。
「……あのさ――」
「はい」
「モンスターを食べて……レベルが上がるなんて、そんなことあるのかな――」
イエルはただ静かに、しかし返すべき言葉を探している。そのままイエルは白蛇をじっと見つめて、
「モンスターをですか?」
「……おかしいよね」
「申し訳ありません私のデータベースにもそういった情報は残っておらず……」
「そ、そっか……いや、やっぱおかしいよね」
サソリのモンスターを食べたときは独りだった。だから何も考えず、ただレベルが上がることだけを確かめることに必死だった。
しかし今は違う。
目の前にイエルがいる。そんな彼女の前でモンスターに食らいつこうとしている自分がひどく醜いものに思えてしまった。
「しかしマスターが行うことに私は否定も拒絶も致しません。どうぞお召し上がりください。それで……私は何をすればよろしいですか?」
イエルはただ肯定だけを口にする。倫理などそこにはなく、ただ烏真の行為を尊重してくれる。だが、いまはどうしてもその優しさが辛かった。
「マスターは生きるために、手段を選びますか?」
イエルはそこで小さく首を傾げたままそう言って、烏真は鈍器を頭で殴られるほどの衝撃を受けた。その言葉は烏真の息を止めるほどだった。
今まで何度も夢を諦めてきた。そして告げられた余命によって才能がないことも仕方がないと受け入れてしまっていた。
空腹で死ぬわけじゃない。
食べる必要なんて本当はない。
だけど……何十年も上がらなかったレベルが、確かに動いた。それを知ってしまった以上、ここで止まる理由なんてどこにもなかった。
もっと強くなれる。強くなれたから、いま烏真は生きている。
魔力がなくてもいい。
スキルがなくてもいい。
生きるために手段を選べるほど自分は強いのか?
――否。
イエルの言葉はあまりにも正しかった。
「解体しましょうか?」
それはとても平坦な声だった。
「助かるよ……ありがとう」
余計な思考でこの先の選択を潰す方が愚かだ。
今はどんな醜態であろうとも、それが倫理から外れていたとしても、これはただ飢えを満たすのではなく強くなるためにレベルを上げる――そのためにモンスターを食うという十分な理由なのだから。
それを気付かせてくれたイエルに烏真は感謝したのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
イエルがぺたりとその場に座りこんで、何もない空間にそっと片手を前へ差し出す。その瞬間、胸元に薄く紋様が浮かび上がった。
淡い青白い光が脈打つ。
次の瞬間、空中に白い立方体が現れた。
「……おお――?」
立方体はゆっくり変形していく。
一枚の金属板と、細長い刃。
なんというか見たまんまのフライパンとナイフだった。
「簡易的な生成でございますが」
「す、すごい……」
「近くにある金属や石を集めて好きな形に作り変えてるだけです」
「いや……だけって……十分すぎると、思うよ?」
素っ気なくそう言うけれど、何も無い空間から物質を作り出したイエルの力を目の当たりにして烏真は感嘆の声を上げる。
そのまま小さなナイフを持ってイエルはゆっくりと白蛇の死骸に近づく。
大木よりも太い身体をした蛇の尾をそんな短い刃渡りのナイフで切り取れるのだろうか?と思ったが、あっという間に輪切りに解体を始めるイエルを前にそれは杞憂に終わった。
そのままフライパンのような形をした鉄板に輪切りにされた肉を乗せるとじわりと赤く染まり始める。
そういえばコンロのようなものもないのに、鉄板の上に乗せるだけで火が上がっているがあれはどういった仕組みなのだろうか。
「加熱完了しました」
「火がないのに焼けてる……」
「私の熱エネルギーをそのまま物質に伝導すればいいだけですので」
「……どういうことなの――」
もう何がどうなっているのか分からない。けれども少なくとも、イエルがとんでもなくすごい子だってことは理解できた。
「すごい子だなぁ、ほんと……」
イエルは明らかに烏真とは違う存在だった。だからこそ、そんな自分が出来ることをするしかない――今はただレベルを上げる……それだけだ。
一口かじる。
手離しで美味いとは言えないが、やはり生肉を齧るより遥かにいい。しかし、こんなことでまた都合よくレベルが上がってくれるのか……。
――『レベルが上昇しました』――
また頭の中に声が響く。
またレベルが上がった。ならばもう一口と齧る。
――『レベルが上昇しました』――
胸の奥が熱くなった。
動かなかった時計の針が進むような、諦めていた道の先にいる。夢ではない現実だ。レベルアップの条件があまりにも狂っているけれど、それでも知ってしまった以上はもう止められない。
だから、また一口、もう一口と繰り返して、
――『レベルが上昇しました』――
――『レベルが上昇しました』――
――『レベルが上昇しました』――
止まらない。
止めるわけにはいかない。
脳内に響くレベルアップのアナウンスが止まるまで、決してこの行為を止めるつもりはなかった。だから、もう迷わない。烏真は長い時間をかけて、白い蛇を食らい続け、
――『レベルが上昇しました』――
イエルは無言のまま、
――『レベルが上昇しました』――
ただ何も言わず肉を解体しては、焼き続けてくれた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「…………?」
ふと、手が止まる。
人が食べるには明らかにあり得ない量の肉だ。サソリの怪物のときもそうだった。どれだけ時間が掛かったのかわからないが、烏真は白蛇の肉を完食してしまった。
いくら食べても空腹が満たされることはなく、いくら食べても満腹にはならない。食った肉の全てが、そのまま身体のどこかへ消えてしまったかのように。
「ほんと、どうなってんだこれ……」
――『レベルが上昇しました』――
そしてそれが最後のアナウンスとなって、ついに聞こえなくなった。
残念だ――まだ、足りない。
だって、食べればレベルが上がるのだ。この程度で終わるわけがない。
もっと欲しい。
もっと――上へ。
その時だった。
ずしん、ずしん――と、重い足音が響く。
そして今度は一つ目の巨人が棍棒を担いで現われる。
「イエル、さっきのナイフ……貸してもらっていい?」
「どうぞ」
イエルは膝を曲げて、態勢を低くしたまま両手で献上するようにナイフを差し出した。それはついさっきまで白蛇を解体していたものだった。
「……これでまた上げられそうだ」
ナイフを握り、モンスターを見る。地上へ戻るはずだったのに、そのことはもう頭にはなかった。
その瞳に映っていたのは、もはや出口ではなく――次の獲物だけだった。
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