契約
少女はしばらく烏真の胸元に顔を埋めたまま動かなかった。
薄闇に沈む隠された道の最奥で、崩れた女神像が異様な影を床へ引き伸ばしている。だが機械に囲まれ、壁面には黒いケーブルが束となって這い、天井には青白く発光する管が幾筋も走っている。
これをダンジョンと呼ぶには程遠い。烏真が上層しか潜ったことがないから、もしかしたら人類が未踏とされる《深層》の奥底はこうなっているのかもしれないが。
砕けた女神像の断面からは覗く金属骨格。内部に詰め込まれた無数の配線が臓物のように垂れ下がっていた。
ここは本当に烏真の知っているダンジョンではなかった。
だが、この場所が何なのか考えても答えは出ない。
――いや、そんなことよりも。
「あー……その、なんだ……」
ずっと烏真の胸板に顔を埋めていた少女がやっと顔を上げる。
瞳は今もまだ閉じられたまま。腰元まで伸びた長い銀白色の髪。毛先だけは海のように青く、このまま力を篭めてしまえば簡単に壊れてしまいそうな矮躯、まるで人形のような少女だった。
「…………服、着てもらっていいかな?」
少女は首を傾げる。
「必要でしょうか?」
「必要、だねぇ……」
さすがに即答だった。
女神像の活動を停止させて、少女を助けるまでは気にも留めていなかったがこうして落ち着いて今の状況を確認すれば、それはもう最優先で解決してもらいたい状態であった。
なにせ少女は一糸纏わぬ姿のままで烏真の両腕の中に佇んでいるのだから。
だが少女は驚くことも、慌てることもなく烏真の言葉に対しても理解できずに首を傾げたままだった。それでも服を着て欲しいと懇願する烏真の心情を汲み取ってくれたのか、数秒後――少女の身体を白い粒子が包み込んだ。
光が衣服へと姿を変え、白いワンピースのような装いとなった。
ふわりとスカート部分が烏真の腕に触れるが布というよりかは、まるで半透明の光の膜が重なってできた不思議な衣装だった。これが何という物質でできているのか形容できない。
「……おお」
だが目の前でまるで魔法のように集まった光が服になって、それを身に纏う少女の姿に感心していた。
「これなら、だいじょうぶでしょうか?」
「あ、ああ……たすかるよ……」
目のやり場に本当に困っていたので、心の底から助かった。
改めて少女を見る。
白いワンピースに身を包み、腰まで届く白銀色の髪が静かに揺れる。閉じられた瞳も、整い過ぎた顔立ちも、生きた人間というよりも精巧な人形のようだった。
これが人形なら、どれだけよかったことか。
だけど、その無機質な美しさとは裏腹に腕の中で感じた体温も鼓動も紛れもなく本物だった。
「それで、その……キミは何者なんだい?」
訊きたいことは山ほどある。ありすぎて何から聞けばいいのかわからない。だから最初の問い掛けは少女の正体についてだった。
「ダンジョンコアです」
少女は迷うことなくそう答える。
「ダンジョンコア……?」
今度は烏真が首を傾げる番だった。
探索者を目指していた以上、ダンジョンのどこかにコアと呼ばれるものが存在するという噂くらいは耳にしたことがあったけれど、腕の中にいるのはどう見ても少女だった。
頭の中で知っている情報と、目の前の光景を繋げようとしても上手く嚙み合ってくれない。どれだけ考えても答えを出せる気がしないので既に烏真は理解することを諦めかけている。
でも、それでもしばらく考え込んで烏真は自信なさげに訊ねる。
「えっと……つまり、このダンジョンでいちばんえらいってこと……かな?」
「概ね正解です」
「そっか~……」
そして烏真は少女を床にゆっくりとおろしてから、
「ごめんね、さっぱりわかんないや」
正直にそう言った。
自分なりに整理しようとも試みたが、わからないものはわからない。
ダンジョンコアって全部少女の姿をしているのか? なんて、そもそも中層すら潜ったことがない人間にとっては無理に理解しようとしても余計混乱するだけだった。
「わかりません……か?」
「急に『ダンジョンコアです』って言われてもねぇ……いや、俺がそもそもコアを見たことないからキミが悪いんじゃないよ。俺の経験不足なだけで……」
烏真は苦笑する。少女は何も悪くない。ダンジョンコアというものをこれまで一度も見たことがないから、
「説明すると長くなりますが――」
「じゃあいまはやめておこう。まずはここから出ないと……」
烏真は辺りに目をやる。崩れた女神像や周囲の壁を見回すが、入ってきた道すら消えている。
「正直……地上に帰れることの方が気になって……」
何もわからないまま勢いだけで突き進んでいるのはわかっている。まだこうして生きているのも奇跡のようなものだ。だが助けた少女をこのままにはしておけない。まずは生きて帰れるのかが重要になっている。
「帰還ですか? 可能です」
しかし少女は迷いなく言葉を返す。
「可能なんだ」
「はい」
「それを聞いて安心したよ」
可能――という言葉。まるで少女がどうにかできるような口振りだった。
その一言につい肩の力が抜けた。もはや余命一年を切っているとはいえ、さすがに行方不明のまま死ぬのもごめんだから。
「…………ん?」
少女が近づき、烏真の腹部に触れていた。
「どうしたの?」
「確認します」
「…………え?」
更に少女が一歩近づいて、今度は左腕に触れた。
「状態を……確認します」
しばらくして左腕に触れた少女はぴたりと手を止める。
「状態は、良好のようです……が――」
余命を宣告される前から身体は不調で、余命二年とタイムリミットを突き付けられたときは精神的にも落ち込んでいたせいなのか、酷く身体は重かった。元々左眼の視力も悪かったし、左腕の握力も下がっていた。
なのに意を決してダンジョンに潜ってから身体はやけに軽く、ついには上がることのなかったレベルもモンスターを食ったことで上昇した。レベルが上がって肉体が強化されたのか今では病人とは思えないほどに健康そのものである。
それでも事実は覆らない――
「いまはまだ良好……かな。でも、俺の余命はあと一年なんだ」
余命二年と告げられて、一年は無駄に過ごしてしまった。そんな烏真の言葉に少女の動きが止まる。
「余命?」
「ああ、医者にそう言われてね」
数秒の沈黙。
「それは困ります」
「困ってるのは俺の方なんだけど……」
「いえ、困ります」
少女は頑なにそう呟いて、
「またお礼ができていません」
「いや、そんなのいらないから」
返礼のために助けたわけじゃない。烏真は自分がやりたくてそうしただけだ。ただの自己満足だ。たまたま偶然と運で上手く行っただけだから、そんなものは要らない。
「いえ、助けてもらいました。なので死なれると困るのです」
「そんなこと言われても……」
烏真が少女に求めるものは何も無い。そんな言い淀む姿を眺める少女だったが視線が腰の剣へ向かれていた。
折れた剣の柄。
半分に折れて刀身を失くした剣。
それは父の形見だった。
「それは?」
「俺の、父親の剣でね……」
烏真は柄を抜き、少しだけ目を細めた。父の形見の剣。少女を助けるためとはいえ無理をさせすぎた。未熟なせいで剣としての意味を失わせてしまった。
「……親父みたいになれたらと思って持ち歩いたんだけど」
そう言って苦笑して、
「俺が未熟なせいで折ってしまった」
少女に話すことでもないのに、自分の弱さを隠すこともできなくて正直に話してしまった。だがそんな烏真に対して少女は何も言わず、ジっとその柄を見つめていた。
だが、やがて両手を広げて、
「そちら……お預かりします」
「ん?」
「お返ししますので」
「でも、これはもう――――」
「必ずお返しします」
少女の瞳は開かない。しかし真っ直ぐと烏真を見ているようにも思えた。自身を助けてもらった代わりに大事な剣を折ってしまったことに責任を感じているのだろうか。
もう剣としての役目は終えている。そして烏真もまた少女を助けたことで満足してしまっている。ここがきっと烏真にとっての終着と決めている。
だから、
「それじゃあ……」
刀身は折れていても残った刃は人を傷つける。だから鞘に入れたまま少女に手渡すと、ギュっと大切そうに両手で抱き締めている。
そして瞬きしたころには消えて無くなっていた。どこに、隠したのかわからないけれど……少女の言葉を信じて、烏真は何も聞かなかった。
そのまま少女は言葉を継ぐ。
「病を完治させることはできませんが、進行を停止することはできます」
その言葉に烏真は目を見開いた。
治るわけではない。しかし止めることができるならまだ烏真はこの世界を生きることができる。
「止めることが……できる?」
自然と声が震えていた。
「はい」
即答だった。
「本当に……?」
「はい」
胸の奥が大きく脈打った気がした。
余命は一年を切っている。もう終わった人生だと思った。だから最期にもう一度だけ夢を追おうとここへ来た。それなのに、まだ生きられるかもしれない。
「どうすれば……いい?」
余裕を失くした烏真の声は驚くほど強かった。それでも少女は臆することなく即座に返答する。
「契約……を」
「契約……?」
「私と共生するための契約です」
「その、それで病の進行は止められる……んだよね?」
「はい」
「それで十分だよ」
烏真の覚悟を前に、少女は小さくうなずいた。
「ですが、これには一つ条件があります」
「条件?」
「私から……離れすぎてはいけません」
思わず首を傾げる。
「どれくらいかな?」
「一キロメートルならば問題ありません」
「それなら普通に生活できそうだね……」
「ですが十キロメートルを超えると契約が不安定になります」
「……不安定になると?」
「病の進行が再開します」
烏真は黙った。
「ちなみにそのままだと?」
「余命を過ぎた場合でそうなると死亡します」
「……さらっと怖いこと言うなぁ」
「事実ですので」
少女は淡々としていた。だが嘘をついているようには見えない。
「つまり……あまり遠くへ行かないでください」
「わかったよ」
そして沈黙。
だが少女が、ゆっくりと口を開いて、
「契約しますか……?」
少女は静かに問い掛けるもどこか不安げだった。
契約を『する』か『しない』かの選択肢が迫る。
正直、怪しく思ってしまうのも事実だ。初対面で、ダンジョンコアと自称する少女の共生を促す契約。理屈もわからない。それをするだけで病が止まるなんて、警戒するのも無理もない。
しかし烏真には時間が無い。
もう一年を切ってしまった余命の中で出来ることは限られている。なら、少女を信じて――そしてそれで上手くいかなくても、少女を恨む理由にはならない。
少女を信じて、残りわずかなこの時間を引き延ばしてもいいんじゃないかって。
余命を宣告されたあの日から、諦めた振りをしていたのは重々理解している。こんなにも無様に、まだ抵抗しているのが諦めの悪さを証明している。
死にたくない。
生きられるなら、まだ生きたい。
そんな当たり前の願いを、ずっと見ないふりをしてきた。
だから、烏真は――――
「本当に……契約しますか?」
契約を『する』に決まっている。
「ああ、お願いしても……いいかな?」
少女が白く小さな手を差し出して、躊躇いなく烏真は少女へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、白金色の光が二人を包み込んだ。温かな力が身体へ流れ込む。左眼が熱を帯び、背中の傷が脈打った。少女の首元から今まで見えなかった紋章が滲み出て、淡く輝き、その光が胸元へ広がっていた。
服の奥から白金色の結晶が見えた気がした。しかし、それも一瞬で消えた。
やがて光が収まる。
「……」
そして少女の頭頂部から一本の長い髪が立ち上がり揺れている。その毛先は触覚のようにまるで生きてるように動いている。
ぴこん。
「え? なにそれ……??」
「わかりません……不明です」
ぴこん。
一本の毛がまるで少女の無表情の感情を表現するためのアンテナのように見える。
「本当に、よろしかったのですか?」
「まだ生きれるなら……頼らせてもらうさ」
そしてまたぴこぴこと跳ねるように動いていた。嬉しい――の、だろうか。
少女は深く頭を下げた。
「契約完了です」
身体の奥に居座っていた死の気配が遠ざかるような気がした。
「よろしくお願いします」
少し間を置いて、
「マスター」
「ま、ますたー?」
そんな呼ばれ方をするとは思っていなかったので驚いてしまう。
「いけませんか?」
「いや、好きに呼んでくれて構わないけどね」
ぴこん、と髪が跳ねる。
その時、烏真は少女の首元の紋様に目を留めた。
「逆に俺はなんて呼べば……」
「どうお呼び頂いても構いません。数字でも記号でも」
「そんな悲しいこと言わないでよ」
だが名を付けるなんてとても重大な展開で戦っていたときよりも緊張してしまう。
何かいい名前……と、長考するものの何も思い浮かばない。
困り果てた烏真だったが、契約してからうっすらと首元にも浮かんでいる文字とも数字ともつかない奇妙な記号が目に映る。
しかし何て書いてあるのか読めない。
読めないが、それを無理やり読むのなら、
「……l……i……L……?」
さすがに無理があると烏真も思っているのだが、
「『えるあいえる』ですね。では、そのように」
「いやいや……ダメだよそんなの」
いくらなんでもそんなものを名前には出来ない。しばらく考えた末、烏真は肩を竦めた。
「俺……こういうのセンスないんだよ……」
少し唸ってから、諦めたように言う。
「イ……エル……」
口に出してみる。不思議とその名がしっくりきた。いや、きっとこれ以上は烏真の感性では思いつかないのだが。
「イエル――で、どうかな?」
「イエル」
少女は、その名をゆっくりと繰り返した。
その瞬間、首元の紋章が淡く揺らめく。
ぴこん。
「はい」
そして、
「私はイエルです」
まるでその名を待っていたかのように、少女……いや、イエルは烏真が与えた名を受け入れる。
一瞬、本当に一瞬だけ閉じられていた両目が少しだけ開いた気がした。瞼の奥底の白金色が垣間見えたような――
「本当に、それでよかったのかい?」
「マスターが与えてくださった名前ですので……」
「そ、そっか……じゃあ、その、これからよろしくね――イエル」
「はい、マスター」
ぴこん、と一本だけ髪が跳ねていた。
すでに両目は閉じられている。けれど先程よりもずっと表情は柔らかく見えて、そんなイエルを前に烏真は思わず微笑んだ。
まだ生きられる。
それだけで十分だった。
余命一年を切り、終わったはずの人生はもう少しだけ続くらしい。イエルは病の進行を止めると言った。ならば、もう死を恐れる必要はない。
そう思っていた。
「……?」
視界の端。
烏真の視界に薄く文字が浮かんでいた。
――《不治なる不死》――
病は止まった。
――そのはずだった。
だが文字は消えてはいない。
――《進行率:34%》――
進行は停止したはずだった。
それでも、その数字だけは静かに明滅を繰り返していた。
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