《あの事件》
軽く頭を下げる緋尋を見送り、烏真はイエルと共に建物を出た。
夕焼けに染まる空の下。二人はそのままダンジョンを経由し、静かな田舎の家へ帰った。都会の喧騒が消え、耳へ届くのは虫の鳴き声だけだった。
「まさか……また《深層》へ向かうとは――」
烏真は靴を脱ぎ、大きく息を吐いた。
烏真とイエルが居間に入ると、
「マスター」
「ん?」
「――あの事件とは、何だったのですか」
イエルの問い掛けに烏真の表情がわずかに強張った。
そして烏真は少しだけ目を伏せた。
十五年前――《探索者》殺しとは違う別の事件。
辷と烏真の会話の中で出ていた言葉――しかし辷がそれを口にした途端、烏真の様子は明らかに変わっていた。
「……十五年前のことだよ」
烏真は左眼に触れている。
そしてぽつりと呟く。
「ダンジョンの外にね……モンスターが現れたんだよ」
イエルは静かに耳を傾ける。
「それは突然ですか?」
「そうだね。難波ダンジョン周辺にね……突然モンスターが現れて大勢の人が巻き込まれたんだよ」
その時の光景が脳裏をよぎる。あの頃、烏真たちはその周辺に暮らしていた。いまここにある田舎の家とは違う。
崩れた建物。燃え上がる街。
悲鳴。逃げ惑う人々。
そして――血の匂い。
「《探索者》殺しなんて事件があったのは初耳だったよ……でもいまなら合点がいくよ」
どうしてあのとき事態をすぐに収拾できなかったのか。その理由が、ようやく分かった気がした。
「《探索者》が少なかった――もし、優秀な人たちが殺されていなければもっと早く鎮圧できたかもしれない」
静かな声だった。
「情けないな……」
でも、言い終えて烏真は自虐的に笑った。
「俺はあのときもレベルは低くて、魔力もスキルもなかった……戦う術を持たず、どうしようもなかった。逃げることしかできなかった」
イエルは何も言えなかった。
「十五年前……そんなモンスターが地上に現われた事件より前に《探索者》を殺していた唯一という男――何故、そんなことを……」
あの日の惨劇。
殺された《探索者》――地上を襲ったモンスターたち。
偶然とは思えない。
「マスターの……その眼は……」
「モンスターに襲われたときに受けた傷だね……何もできなかった。逃げることしかできなかった」
「もしや……そのときご家族も――」
烏真は小さく頷いた。
「父さんは《探索者》だったからね……俺たちを逃がすためにモンスターの群れに立ち向かって……」
それ以上は言えなかった
けれど、その一言だけで十分だった。
「俺は……あのとき――」
自然と左手が傷を帯びた左眼に伸びる。
「何もできなかった……だから《探索者》になる夢を諦められなかったのかもしれない」
ただ静かに烏真を見つめていた。
しばらく沈黙が流れる。風鈴がまた、小さく鳴った。
「マスター……また同じことが起きると思いますか?」
烏真は窓の外へ目を向ける。暗闇の向こうで、虫の声だけが響いていた。
「あの日とよく似てる……」
《探索者》が襲われている。
そしてモンスターが何故地上に現われたのか――後にも先にもそんな事件が起こったのはたった一度だけれど。
一拍置く。
「わからないけれど……蕃弥 唯一という男――あれを放っておくのは危険すぎる」
十五年前の傷は、今もそこにある。
「ごめんね、イエル」
だが烏真は謝った。
「……イエルのこと、何も調べられてないね」
《探索者》になった夢が叶ったあと、あれからイエルの過去について調べようとしていたのに。難波ダンジョンにあったイエルと出会った場所へ続く入口も見つけられないまま。
しかし、イエルは左右に首を振って、
「それは前回謝っていただきました……不要です」
そしてイエルは手を伸ばし、
「まずは……できることをしましょう」
そう言ってくれるイエルに烏真は安心する。
「ああ……そうだね――」
そして烏真はイエルに向き合ったまま、
「俺はさ……前にも言ったけど父さんに助けてもらったおかげでこうして生きていられるんだ」
「はい……聞いております」
前にイエルに教えたことがある。
幼い頃、暗いダンジョンの中で泣いていた記憶。
何故、そこにいたのか烏真も覚えていない。しかし助けてくれたのが烏真の父親だった。
しかし烏真とその父とは血は繋がっていない。ダンジョンをひとり彷徨っていた烏真を《探索者》だった父親が助けてくれた。ただそれだけだった。
烏真は本当の父も母も知らない。
烏真本人も何も思い出せないまま……そんなとき家族として迎え入れてくれた人。
「恩返しができなかった……でも、こうして《探索者》になれて、俺がいま出来ることは――父さんみたいな他の誰かを守りたくてさ」
後悔ばかりの人生だった。
しかしどれだけ遅くても烏真の物語はやっと動き出した。
「昔のことよりも、その先のために出来ることをするよ」
余命を告げられて全てを諦めてしまったあの瞬間を超えて、いまの烏真がいる。
「マスター」
イエルはそっと烏真の側に寄り添うように近づいていた。
「私も……マスターのお力になりますから」
「ありがとう。イエルがいてくれるおかげで俺はここまで来れたからね」
「いえ……そんなことは……」
イエルの小さな指先が左眼にそっと触れていた。
「マスターの左眼に傷をつけたモンスターは……」
「え?」
「いえ、その……お答えしたくなければ――」
「白い……竜のようなモンスターだったかな」
「……そう、ですか」
「イエル?」
「いえ……すみません、嫌なことを思い出させるようなことを聞いて……」
あの事件――烏真にとって大切な人を喪った悲しい事柄に、イエルは踏み入れてしまったことに申し訳なさで烏真を直視できなかった。
しかし、
「気にしないで。俺も……十五年前にあったこととあまりに似すぎていて……驚いてるんだ。だから、またもし同じことが起きたらどうしようって怯えてる」
「カッコ悪いな」なんて、そう言って――だが、烏真はギュっと手を握りしめて、
「でも、十五年前とは違う……いまの俺はイエルや緋尋さん……いろんな人たちのおおかげで成長できた。俺自身……借り物の力ばかりだけれど、逃げずに前を向いて進むことは出来る」
「マスター……」
「だから、これからも力を貸してくれると助かるよ」
そう言って、手を広げるとイエルは烏真の手のひらに自身の手のひらを乗せていた。
「もちろんです……これまでも、これからも――」
瞳は閉じられたまま、だけど長い一本の前髪はぴょんと跳ねていた。
明日、烏真とイエルは緋尋のクランに同行し、《深層》へ向かう。
――《不治なる不死》――
――《進行率:68%》――




