これから
五年越しの決着――
緋尋は赤く腫れた目に晴れやかな表情を浮かべ、イエルと手を繋いで居間を後にする。
「それでは、おやすみなさい」
イエルが就寝の挨拶を告げ、緋尋はぺこりと頭を下げる。
「うん、おやすみ」
そのまま扉が静かに閉まる。家の中を包んでいた話し声が消え、烏真だけが居間に残っている。
烏真は縁側へ腰を下ろす。空には満月が浮かんでいた。
今日は、いろいろありすぎた。
五年前のこと。
そして――名前を呼んだ。
「緋尋さん、か……」
小さく呟くと、思わず苦笑する。胸につかえていた何かが、少しだけ軽くなった気がした。しかし、その穏やかな余韻に浸かっている暇はなかった。
今日は本当にいろんなことが起き過ぎた。
脳裏に浮かぶ《探索者》が襲われる事件。そして緋尋もまた襲われた。ダンジョンの中ではなく、外で。モンスターではなく、人間に。
その襲撃者の身体に刻まれた【§】の紋章。
ただ一人だけ名乗り出た謎の男。
「……何者なんだ」
もしあの集団が支倉 晃を殺害したのなら――《探索者》たちを狙っているのならば、これで終わるはずがない。
あの連中は、きっと動く。
緋尋を狙うかもしれない。
他の《探索者》を傷つけるのなら――烏真ができることは、このまま放ってはおけなかった。
他の誰かを守りたくて《探索者》を目指した。自分を助けてくれた父のようになりたかった。
「……まずは相手のことを知らないと」
烏真はまだ知らないことばかりだ。今日はこれ以上、緋尋と話をするのが難しく、聞くことができなかった。
烏真は立ち上がる。
「今日はもう寝よう」
考えるのは明日だ。電気を消し、寝室へと向かった。
そのまま静かな夜が更けていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
朝日が障子越しに部屋を照らしていた。
顔を洗い、居間へ向かうと、イエルと緋尋は先に待っていた。テーブルの上には朝食が並んでいる。
「おはようございます」
「おはよう」
昨日よりも緋尋の表情は柔らかかった。
「おはようございます」
「うん、千ヶ峰……いや、緋尋さんもおはよう」
「あ、あの……呼び捨てでいいんですよ?」
「いやぁ……それは、さすがに――」
烏真の方が確かに年上ではあるがずっと『さん』を付けて呼んでいただけに、名前ならまだしも、呼び捨てで呼ぶのは気が引けた。
緋尋は少し不満そうな顔をしていたが、烏真は気付かないフリをする。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
食事を終え、お茶を飲みながら烏真は口を開いた。
「緋尋さん、昨日の……あの男たちは何者なんだい?」
烏真の問いに、緋尋が湯呑みを置く。
「すみません、わたしにも詳しいことは分からなくて」
「でも、緋尋さんも襲われたんだよね?」
「その……【§】の刺青をした《探索者》は数年前から確認されているんです」
そして続けて緋尋は説明してくれた。
十五年前――《探索者》がダンジョン内で別の《探索者》を襲った事件が起きた。そのときの犯人も【§】の刺青が身体に刻まれていたという。
しかしその印が、何を意味するのかわからぬまま。
ただの飾りかと思われていたが――
「わたしを襲った男のひとりは言いました……《REVER§E》だと」
「クランみたいな名前だね」
だが他者を傷つけるクランなどあってはならない。
「そうですね……複数人いましたし、それを束ねていた――」
「あの、蕃弥 唯一と名乗っていた男」
「あの男がリーダーなんでしょうか? 他の男たちもあのヒトには従ってましたし」
「周りもその男には従順だったし……ありえるね」
十五年前――気掛かりだった。
烏真が左眼に触れる。
「おじさま?」
「いや、なんでもないよ」
「逃げられてしまいましたが、数人は捕らえることができましたので今頃、取り締まりを受けているはずです」
「それで何かわかればいいね」
「はい……」
緋尋は下唇を噛み締め、
「わたしだけじゃなくて、同じクランの人も襲われたって言ってましたし……まるで無差別に《探索者》を狙っているような気がします」
「そもそも《踏破者》である緋尋さんまで狙っているのが容赦ないね」
《探索者》の上位存在である《踏破者》のひとりである緋尋にすら凶刃を向ける狂気。ただ無差別に襲い掛かっているようにすら思える。
しかし唯一は突然乱入してきた烏真を見た途端、すぐさま逃走した。
「俺のことも知ってる感じだったな」
「あの蕃弥 唯一という男、おじさまは知っていますか?」
「いや、初対面だったよ……でも――」
唯一は《左眼》についても何か知っている様子だった。他人が見れば縦に入った傷痕は痛々しく見えるが、ただ白く濁った瞳しか映らない。
それでも確かにあの男はこの眼を警戒していた。
だがこの左眼の力はダンジョンの中でしか使えない。外では光を失った瞳のままだ。
「これからはダンジョンに潜るときはモンスター以外にも気を付けないといけないね」
「そうですね……あまりに危険ですし、ダンジョンを攻略するよりも先にこの集団をどうにかした方が良さそうです」
正体不明の謎の集団――《探索者》でありながら《探索者》を狙う者たち。平穏が少しずつ壊されていくのがわかる。このまま野放しにはできない。
「そうだ……」
烏真が思い出したように声を漏らす。
「昨日のことで《協会》に事情聴取を受けに行かないと」
緋尋を襲撃した連中を退けるために烏真は自ら介入した。この事件とは無関係ではなくなってしまった。《協会》からは後日、話を聞きたいと言われている。
ここは素直に《協会》に行かなくてはならない。
「わたしも……クランのみんなを置いてこっちに来ちゃったので、帰りませんと……」
緋尋も烏真と話がしたいのもあってクランに責任を押し付けてここまで来てしまった。
「それじゃあ一緒に行く?」
「お願いしてもいいですか?」
その時だった。突然、どこからともなくスマホから着信音が鳴る。烏真のものではなかった。
「あ、わたしです……」
緋尋はそのまま持っていたスマホを取り出し、画面を見る。
「げっ……」
緋尋の顔が面倒くさそうに歪んだ。しかしすぐに鳴り響く着信音に対して、電話に出た。
「も、もしもし……」
緋尋は電話に出ると、ぺこぺこと頭を下げながら返事をしていた。
「……はい、はい」
そして、その表情が少しずつ真剣になっていく。
「突然、消えたのは申し訳ないです。でも、いまはだいじょうぶですから。え? いや、どこって……それは――」
相手の声は聞こえないが、緋尋は一つ一つ返答している。
「な、なんで……それを……」
緋尋は少し驚いたように目を見開く。
「わ、わかりましたよ……」
緋尋がスマホを耳から離す。
「……おじさま」
緋尋は困ったような顔をして烏真を見ていた。
「どうしたの?」
「代わってほしいそうなんです」
「俺に?」
「その……わたしのクランのリーダーが……」
緋尋が所属しているクランのリーダーのことは烏真は全く知らなかった。そんな人物が突然に烏真と電話がしたいという。
緋尋からスマホを受け取り、烏真は耳へ当てる。
「もしもし」
『電話越しでごめんねぇ』
落ち着いた女性の声が聞こえる。
『ボクは【ver.horogram】のマスターを務めている……物部・オリベリン・辷って言うんだけど――』
緋尋が所属しているクランのリーダーらしき女性は言葉を続ける。
『まずはウチの緋尋を助けていただき、ありがとうございました』
「い、いえ……俺はたまたま……」
短く答える――すると相手は少し間を置いてから、
『ご謙遜を。いえ、そのね……鏑木くん、もしお時間あるなら会えないかな?』
烏真は思わず眉をひそめた。
「え? 俺と、ですか??」
『うん』
静かな声が返ってくる。
『昨夜の件で、お話がしたくてね』
わずかな沈黙。
『電話越しだと話しにくいこともあってねぇ』
烏真は少し考えて、
「……分かりました」
『ありがとうございます』
通話が切れる。
静まり返った居間で、烏真はスマホを緋尋に返した。
――自分にしか話せない何かがあるのだろう。
所詮は部外者だ。《協会》でもクランの人間でもない。だが《探索者》を狙う謎の存在について何か知れるなら、烏真も知りたいことに変わりなかった。
緋尋に目を配る。
「あ、あの……うちのリーダー……おじさまになんて……」
「ああ、会って話がしたいって」
「別に会わなくていいですよ。おじさまは《探索者》になりましたけど、わたしのクランとは無関係なんですし――」
「でも俺はもう緋尋さんと無関係ではないはずだよ」
即座にそう言うと、緋尋は何故か耳まで真っ赤にしていた。
「緋尋さんを襲った連中とはいずれまた出会うことになる。それは俺じゃなくて緋尋さんだ。彼らは間違いなく緋尋さんを狙っていた」
守りたいなんて、歯の浮いたことは言えなかったけれど。
五年前――あの日、出会ったときからもう無関係ではない。
そして烏真は自分の知っている人を喪ってしまった。知らぬ間に奪われた。支倉 晃のように次の日にテレビのニュースで死亡の訃報を聞かされるなんて堪えられない。
「少しでも……緋尋さんの力になりたいよ、俺は――」
そして烏真は緋尋の返事を待つことなく準備を始めた。
緋尋は何も言えずに、その場でぺたんと小さく丸まっていた。いま、きっとひどい顔をしていると思う。
「緋尋さま?」
そんな様子のおかしい緋尋を心配するようにイエルが声をかける。
緋尋は、やっぱり何も言えなかった。
烏真の眼には耳まで真っ赤になっている緋尋の姿が映っていた。
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