五年越しの《名前》 <後>
「わたしは、あのときおじさまに庇ってもらった……受験者のひとりです」
烏真は少しだけ目を丸くする。
転移床を踏み、受験者たちを別の空間に飛ばしてしまった。罠に触れたのは間違いなく緋尋だった。にも関わらず烏真は緋尋を庇った。
「あのときの……」
緋尋の告白に烏真は小さく呟く。
「五年前……、あの試験で……責められるのはわたしでした」
それが後に《探索者協会》の上層の落ち度だったとしても、あの瞬間だけは間違いなく緋尋が責められるはずだった。しかし庇い、助けてくれたのは烏真だった。
そして烏真は《探索者》になるチャンスを失ってしまった。
他の誰よりも時間を掛けて、それでも《探索者》になる夢を諦めなかった人の未来を奪ってしまった。
「あのとき、庇ってもらったとき……わたしは怖くて、何も言えなくて……本当はわたしが悪いのに、おじさまに全て押し付けて――」
言葉を紡ぐごとに、胸の奥の痛みが増す。
忘れた日は、一日もない。
あの日、庇ってくれたことで緋尋は《探索者》になれた。
そして事実を隠したまま、いつかもう一度どこかで烏真と会えたとき立派な《探索者》になることで――それだけが緋尋にできることだった。
そして《踏破者》になった。
それでも過去は消えない。
緋尋は烏真の夢を奪った。烏真が選んだことだとしても、その選択をさせたのは緋尋だから。
「でも、千ヶ峰さんはもう一度……俺が試験を受けれるようにしてくれたじゃないか」
「それは……でも、わたしのことは黙ったままでしたから」
あのときはまだ本当のことを言えなかった。
「俺は《探索者》になれたよ」
それが遠回りだとしても、烏真は夢を叶えた。緋尋の協力がなければ実現することは不可能だった。
部屋が静まり返る。
時計の針だけが、小さく時を刻んでいた。
烏真は緋尋の顔を見つめる。
烏真は一言も緋尋に対して非難するようなことは言わなかった。当然だろう。あのとき庇ったのは烏真の独断だった。
緋尋が確かに転移床を踏んだことで始まった話だとしても、それでも発端は別にある。緋尋は何も悪くない。
だから、烏真は後悔していない。
「だから、千ヶ峰さんが謝る必要なんてないんだ」
一度として緋尋に怒りも憎しみも向けることなく、ただ優しくそう言うから緋尋の視界が滲む。
「わたしは――――…………」
唇が震える。
「おじさまを置いて逃げたようなものです……」
どうして、
「助けてもらったのに……」
どうして、
「こわくて、何もできなくて……」
どうして、そんな優しくしてくれるのだろう。
「わたしは、卑怯者です――」
涙が一粒、膝へ落ちた。
「ずっと……ずっと、後悔してました……」
《探索者》になって、たくさんレベルを上げて、気付けば世界が羨む《踏破者》になって、それなのに救ってくれたひとに何も返せずにいた。
「わたしはぁ……」
涙が止まらない。
こんなに時間をかけて、烏真に本当のことを言えなかった弱い自分が情けなくて、それなのに一切、烏真は緋尋に対して悪く言うことはなくて。
「その……千ヶ峰さん……」
それどころか烏真が逆に申し訳なさそうに頬を指で掻いている。
「はい……?」
「ごめん」
挙句の果てには烏真が先に謝るのだった。
「な、なんでおじさまが……謝るんですか……」
思ってもみなかった烏真の行動に激しく動揺する緋尋。しかし烏真は顔を上げると、
「きみが五年前に俺といっしょにライセンス試験に受けてた女の子ってのは……知ってるんだ」
「…………え?」
「試験のときは前髪で顔が隠れてたし、髪の色も黒かったからね……いまの千ヶ峰さんとは雰囲気が違いすぎて《深層》で会ったときは気付かなかったんだけど」
しかし何度も話をしているうちに――電話で会話を重ねるたびに、その確信は強くなっていった。
その声は、あの五年前にいっしょに試験を受けた女の子だと。
「千ヶ峰さんが《探索者》になれれば……俺みたいなおっさんよりも若い子が《探索者》になったほうがいいなんて、俺が勝手に納得して――あのとき名乗り出たんだけど、それで……千ヶ峰さんはずっと辛かったんだね」
烏真にとっては善意だった。
けれど、それが緋尋に消えない罪となった。
烏真はこれでよかったと思っていたけれど。置き去りにされた緋尋はずっと罪のように背負っていた。「わたしのせいで」と贖罪を求めていた。
恨んでくれた方が。
憎んでくれた方が。
「再会したあの日に俺が気付いていれば……」
嘘を吐いて、自分がやったと言い切って、ただ緋尋を更に苦しめてしまった。
「ちがいます!」
だけど、そこで初めて緋尋は大きな声で烏真を否定する。
「再会したあの日、あの日……そうです……そこで、はっきりわたしはおじさまに向き合えていれば……今日まで、ずっと、わたしは逃げてたんです」
緋尋は絞り出すような声で訴えた。
「他の誰かに……わたしが何て言われようとも――でも、おじさまに……もし、もし……許さないと言われたら……」
自分の両肩を抱くようにして、ガクガクと震えたまま緋尋は烏真の顔を見つめていた。
「やっぱり……あのとき、言い出せませんでした……」
がっくりと項垂れて、緋尋は両手で顔を覆い隠している。
緋尋はただ何度も「ごめんなさい」と謝り続ける。
烏真は立ち上がった。
「あのときのことを謝るのは俺の方だ。俺が取った行動が千ヶ峰さんをずっと追い込んでいた……もっと早く気づいてあげられれば――」
「な、なんで……そんな……」
「でも、これだけは……知っていて欲しいんだ」
涙を浮かべたままの緋尋が烏真を見つめている。
「あのとき名乗り出たこと、俺は後悔してない」
そして烏真ははっきりとそう言って、
「だから……もう謝らないで。俺は千ヶ峰さんのことを恨んでも、憎んでもいない……俺の選んだことは間違ってないって思ってるから」
烏真はそっと緋尋の両肩に触れた。
「千ヶ峰さんは俺の夢を奪ったと思っている。俺は千ヶ峰さんのこれまでを苦しめてしまったと思っている」
互いに傷つけたままここまで来てしまったと、思っている。
「だって俺は――《探索者》になれたんだから」
もう一度、だからもう一度、結果を告げる。
全て過去だ。
過去は変えられない――しかし、未来は変えられる。
そして変えることができた。
烏真は夢を叶えた。その夢を叶えるために緋尋は力を貸してくれた。
「だから――これからの話をしよう」
《探索者》になれた烏真。
《踏破者》としての緋尋。
ずっと止まっていた時間を、ここから動かすために。
なんて――
「いい歳したおっさんがなに言ってんだって話だけどね……いまさらこの歳で《探索者》なんて自分でも思うよ」
気恥ずかしくなって、そのまま緋尋の肩から手を離して後退している。むしろ勝手に触れてしまって慌てている様子。
それがなんだかおかしくて。
緋尋は涙を拭い、小さく息を吐いた。胸の奥にあった重たいものが少しだけ軽くなっている。
「でも、そんなおじさまだから……わたしは――」
真っ赤になった両目のまま、首を左右に振って緋尋は意を決する。
「そうですね……『これから』……何をするべきか、いっしょに考えてくれますか?」
その一歩を、ようやく踏み出せた気がした。
しばらく静かな時間が流れる。風鈴が、ちりん、と優しく鳴った。
「もちろんだよ」
烏真は力強く頷いて、後ろでイエルも小さくコクリと頭を下げている。
「で、でしたら……」
緋尋は少しだけ視線を泳がせる。
五年前のことを話していたのに、今度は違う意味で鼓動が速い。
「わたしの、お願いを……聞いてもらっても、いいですか?」
「お願い?」
緋尋は膝の上で両手を重ね、小さく息を吸う。
「これからは……」
一度言葉を切る。
耳まで熱くなっていくのが、自分でも分かった。
「苗字じゃなくて――」
こんなことを言って、困らせてしまいそう。だけど、緋尋は言わずにはいられない。
「名前で呼んでもらえませんか?」
頭を下げて、緋尋は願った。
しかし烏真からの返事がなかった。緋尋はただ恐る恐る顔を上げる。
「名前?」
「わたしの……み、苗字……言いにくくないですか? 名前のほうが短いですし――」
名前で呼んで欲しいくせに、今さらそんなことを言って誤魔化す緋尋が恥ずかしい。
でも、直接そう言えるわけもなく。言い終えた途端、恥ずかしさが込み上げてくる。顔を上げていられない。畳へ視線を落としたまま、返事を待つ。
「名前で、呼んだ方がいいのかな?」
「よ、呼んでください……」
だから正直にそう言った。
烏真は少しだけ間を置いてから、ゆっくりと口を開く。
「じゃあ――」
一拍。
少し恥ずかしそうにしている。緋尋よりずっと大人なのに、名前で呼ぶことに覚悟が必要そうに見えて、そこがなんだか微笑ましくて。
緋尋よりずっと大きくて、強くて、素敵な大人なのに。
そんな烏真は意を決して緋尋に向き合ったまま――
「緋尋さん」
それが耳に届いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
五年前――緋尋を助けてくれたひと。
五年後――また緋尋を助けてくれたひと。
いつでも、何度でも助けにきてくれるひと。
そんなひとが、緋尋の名を呼んでくれる。
世界中のどんな言葉よりも、嬉しかった。
涙で滲む視界の向こうで、烏真が少し照れくさそうに笑っている。
「はい……緋尋です――」
緋尋も自然と笑みがこぼれた。
五年越しの物語は――ここで、一つの決着を迎えた。
けれど、これは終わりではない。
過去に向き合ったふたりが、これから何を選び、何処へ歩んでいくのか。
――物語は、ここから続いていく。
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