五年越しの《名前》 <前>
「マスター」
浴室から出て来たイエルの声が届く。
「緋尋さまの入浴が終わりました」
「助かったよ」
烏真は火を止め、ハンバーグを皿へ盛り付ける。するとイエルの後ろから遠慮がちな足音が近づいて来る。
「その……」
振り返る。
「お、おまたせしました……」
「んん???」
思わず烏真の手が止まった。
緋尋が袖を通していたのはどこにでもある紺色のジャージだった。少し大きめのサイズなのか袖は指先まで隠れ、裾も余っている。
よく見れば烏真が普段、家の中で着ているものと同じだった。
「い、イエル……これはどういう……」
「こちらはマスターのものですが、新品なのでご安心ください」
「安心できないねぇ」
緋尋の服はイエルが用意すると言われたので任せたのだが、まさか烏真の私物を使っているとは思わなかったので真顔になっている。
「あ、あのぉ……」
「ごめんね、千ヶ峰さん。新品とはいえそれ俺のだから……その、今からイエルに別のものを――」
「こ、ここ、これでいいです」
なぜかしどろもどろになっている緋尋だが、嫌そうにしていない緋尋に対して烏真は頭を掻いて、
「……大きくてサイズ合ってないね」
烏真は苦笑する。しかし緋尋は慌てて首を振った。
「わ、わたしが普段着てるパジャマもおっきいので……その、ぜんぜん気にならないです!」
そう言って袖を少し摘まんでいる。指先が隠れてしまうほど長い袖だが、
「千ヶ峰さんがいいなら……まぁ……」
そこにイエルが腕を組んで頷いている。
「似合っています」
「えっ?」
「非常によく似合っています」
緋尋は少し照れながら笑った。
「そ、そうかな……」
胸元へそっと手を添える。
(……別におじさまが着ているやつでもよかったのに)
「なにか言った?」
「い、いえっ……!」
慌てて緋尋は手をぶんぶん振りながら首を振った。烏真は首を傾げたものの、それ以上気にする様子はなかった。
「それじゃあ、ご飯冷める前に食べようか」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
食卓には温かな料理が並んだ。
食事中の会話は他愛のないものだった。田舎での暮らしとか、そんな何気ない会話をしながら箸を進めていく。
気付けば、今日の出来事を忘れてしまうほど穏やかな時間が流れていた。
「ごちそうさまでした」
三人の声が重なる。
そして食器を重ねた緋尋はそのまま立ち上がる。
「洗い物はさすがにやらせてください」
「いや、いいよ。千ヶ峰さんはじっとしていて」
烏真は笑って首を振る。
「おねがいします、これだけはさせてください」
緋尋は真っ直ぐ頭を下げた。
「さすがに申し訳なくて……だめ、ですか??」
瞳を潤ませながら食器を持つ緋尋を前に、烏真は困ってしまいイエルに目配せし、イエルが小さく頷くと――
「マスターはその間に身体を洗ってきてください」
「ええ……」
まさかの裏切りに烏真は乾いた声を上げる。
「私も緋尋さまのお手伝いをしますので」
長い一本の前髪がぴょこんと跳ねて、烏真はこれ以上何を言っても変わらないと諦めた。
「わかったよ……じゃあ、その……千ヶ峰さん、おねがいしてもいいかな?」
「任せてください! ごゆっくり」
そのまま退席する烏真の背中を見て、緋尋は両手に力が篭った。
(おじさまに……伝えなきゃ――)
五年間、胸に抱え続けた言葉を。
「あの、おじさま……」
だから、ついに烏真の背中に声を掛けてしまう。烏真はゆっくりと振り返った。
「そ、その……あとでお時間……いいですか?」
「……? もちろん、だいじょうぶだよ」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
イエルといっしょに食器を洗って、片付けてから――ふたりは居間に座って、烏真が戻ってくるのを待っていた。
緋尋の横にちょこんと座っているイエルは喋らなければ本当に人形にしか見えない。だけど耳を傾ければ呼吸の音が聞こえる。心臓の音もしていた。
彼女は自身をダンジョンコアと言っているが、これまで様々なダンジョンを潜ってきた緋尋はダンジョンを構成する核があるのは知っているが実際のそのような代物は見たことはなかった。
しかしイエル自身も本当の正体を知らないままだ。
なら、緋尋もイエルのために力になりたい。今日までずっと助けてくれたこの小さな女の子のために、自分の出来ることがしたい――そう、思っていた。
「待たせちゃったね」
風呂上がりの烏真が戻ってくる。
イエルがお茶を淹れ、三人は再び席へ着いた。
窓の外では風鈴が静かに鳴っている。
「おじさま」
緋尋はゆっくりと顔を上げた。
「わたし、おじさまに隠してたことがあって――」
風鈴がちりん、と小さく鳴った。窓から吹き込む夜風が火照った頬を優しく撫でていく。けれど身体の芯は冷たく感じた。
緋尋は膝の上で、そっと拳を握り締めている。指先に力が入り、白くなる。
今日、この家へ来た理由――ずっと胸の奥にしまい続けてきた言葉。五年間、一度も口にできなかった想い。
それを伝えるために、ここまで来た。
何度も頭の中で練習してきた。
もし会えたなら、何と言って謝ろう。
どう頭を下げよう。どんな顔をすればいいのだろう。
そのたびに想像してきた。なのに――本人を前にすると、考えていた言葉は何一つ出てこない。
喉が締め付けられる。胸の奥が苦しい。だけど、何を言われても受け入れなければならない。それだけのことを緋尋は烏真に背負わせてしまった。
緋尋はゆっくりと息を吸い込んだ。
「五年前の試験のこと……あそこにわたしもいたんです」
一瞬、時間が止まったように思えた。烏真は何も言わない。イエルはただ傍観している。音が消えたように、ただ静まり返る空間に緋尋は居たたまれなくなった。
だけど、
「あの試験に、千ヶ峰さんも?」
だが烏真はいつもと変わらぬ声色で、そう返す。
けれど緋尋の声は震えた。一度言葉が止まってしまう。唇を噛み、もう一度息を整える。
「はい……覚えて、いませんか――」
その一言を絞り出した瞬間だった。
「わたしは、あのときおじさまに庇ってもらった……受験者のひとりです」
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