イエルと緋尋
緋尋は「どうして?」と呆けたような表情で、湯気の立ち込める浴室に立ち尽くしていた。
「あの……イエルちゃん?」
そんな緋尋はいまどうなっているかと言うと、
「綺麗にしましょうね」
「あ、はい……、いや、ちがくて」
素直に返事してしまったが、緋尋は座ったまま両手でスポンジを持ったイエルに泡まみれにされていた。
「まずは緋尋さまを綺麗にしませんと」
小さく丸まって、緋尋はイエルになすがままにされていた。こんな小さな女の子に身体を洗ってもらっているなんてなんだか恥ずかしい。
「大丈夫ですか?」
その言葉の意味を緋尋はわからなかった。
「ど、どういうこと?」
「あれは人間でした。緋尋さまと同じ人間。モンスターではありません」
イエルの言葉に、緋尋の肩がびくりと震えた。
そっと腹部に触れる。
凶刃は確かに緋尋の腹部に触れていた。その刃先がもしねじ込まれていたらどうなっていたことだろうか。
「モンスターとは……たくさん戦ったよ。ダンジョンもいっぱい潜ったし……怪我もしたし、死にかけたこともある――」
終焉級に殺されそうになったときは、烏真が助けに来てくれていなければ間違いなくこの世にいない。
「でも、ヒトに刺されたのは初めてだったよ」
それが、とても怖い。
その刃には殺意が籠められていた。レベルがどれだけ高くても、悪意を向けられたことが――精神的にショックだった。
人に殺されそうになった。
その事実が何よりも辛かった。
「でも、緋尋さまは生きてます」
「うん、イエルちゃんのおかげ……だよ」
着ていた服をイエルが終焉級の素材を使って直してくれたから。刃を通さないほどに強靭な硬さを得たみたいで。それが命を繋いでくれた。
「私は、緋尋さまのお役に立てましたか?」
全身が真っ白に泡まみれになったままの緋尋に横から覗き込むようにイエルが見ていた。
でも両目は閉じられている。
だけど、真白の雪のような髪とそんな髪に負けないほどに白い肌。熱い湯気に肌が触れても顔は白いまま。長い一本の前髪がくるりとなって、水滴が落ちている。
精巧な人形に心を宿しているかのような――なんて、つい見惚れてしまう。
「ずっと助けてもらってばかりだよ」
烏真とイエルにずっと今日まで救われている。
そしてそれに甘え続けている。
緋尋は正面を向いた。
「イエルちゃん」
スポンジを持ったままのイエルの片手を取って、
「……心臓の音、聴こえる?」
緋尋はイエルの手を、自分の胸へそっと重ねた。
「とくん、とくん……音が、します」
「イエルちゃんがいなかったら、この音は止まってたんだよ」
イエルが烏真を連れて来てくれなかったら、きっとあのとき――終焉級に殺されて、緋尋はこの世から消えていただろう。
だから、この音は――ふたりが繋いでくれたもの。
「イエルちゃん……わたしじゃ力にならないかもしれない――でも、わたしもイエルちゃんにお礼がしたいの」
「必要ありません」
だけどイエルは機械のようにそう返して、だがそれは拒絶という意味ではなく。
「マスターのお力になっていただければ、それだけで――」
「わたしは……イエルちゃんの力にもなりたいよ」
烏真やイエルの役に立てる自信はないけれど、それでも貰ってばかりでこのままでは押し潰されてしまいそう。
「こ、こんどはわたしの番だよ」
そして泡がついたままの緋尋がイエルの持っていたスポンジを奪うように取り上げて、イエルを椅子に座らせた。
「い、いえ……私は……」
「わたしもイエルちゃんのからだ洗わせてよ」
背中ではなく正面からイエルの身体にそっと触れる。身体は氷のように冷たいまま。人の形をしているけれど、全く熱を感じない。
だけど、これだけはわかる。
「イエルちゃんも……ちゃんと心臓の音、聴こえるね」
「人間に模して作ったダンジョンコアですので」
「だとしても、ちゃんと生きてるんだよイエルちゃんも」
「私、は……」
「イエルちゃん……わたし、イエルちゃんの力になれること、あるかな」
緋尋がそう訊ねるとイエルは小さくうなずいて、両目が少しずつ開いた。
「私は、私のことを何も知りません……私が、何者なのか――それを知りたい」
白金の光が静かに瞳へ宿る。神秘的なその光に吸い込まれてしまって緋尋は目が離せなかった。
「ずるいよ、イエルちゃん……目も綺麗だなんて……」
「緋尋さまの瞳も宝石のように綺麗ですが」
「……ふぇ?」
反撃を食らい腑抜けた声を上げる緋尋。
だけど、首を左右に振って立て直す。
「は、話がそれちゃった……ごめんね。そ、そのね……わたしもイエルちゃんのお手伝い、してもいい?」
「緋尋さまのやるべきことを優先してください」
「そ、そうだけど……もし、力になれることがあったら……そのときはさ――」
だが言葉を遮るようにイエルがシャワーの蛇口を捻る。冷たい水を頭から被り、緋尋はかわいい悲鳴を上げる。
「ひゃああああ……っ!?」
「優しいですね……緋尋さまは」
「そ、そんなことないよ。わたしは、イエルちゃんにもお礼がしたいだけなんだよ……」
両目は閉じられている。
長い一本の前髪が嬉しそうにぴょこぴょこと揺れていた。
「どうして――」
疑問だった。
「イエルちゃんは、こんなわたしに良くしてくれるの?」
主である烏真とふたりきりの時間を過ごすほうがいい。そこに部外者である緋尋が入り込んでいることが後ろめたかった。
だって、わたしは――
「マスターにとって、大切なひとだからですが……そこに私も混ざるのは、行けなかったでしょうか?」
「………………………………………………………………え?」
何度、鈍器で頭を殴られたような錯覚をすればいいのかと。
「マスターに何か言いたげなことも、言えなくて困っているところも……ずっとわかってますよ」
「う……」
イエルにはずっと前から、もう知られていたようで。
「おじさまに……どうしても、言いたいことがあって――」
「言えますよ」
だけどイエルが確信するように、
「そのために、ここまで来てくださったんでしょう?」
イエルは緋尋の背を押すために、援護してくれただけだ。
「……う、うん」
ずっと言えなかったこと。
言わなきゃいけないこと。
もう逃げない――緋尋はパンっと頬を叩いて、
「お、お風呂はいろっか……」
泡まみれだったお互いの身体を洗い流して、緋尋は浴槽を指差す。イエルは無言のままコクリと頷く。
「イエルちゃん」
イエルは首を傾げる。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
イエルはニコリと笑った。
笑顔もかわいいのは、ずるいな――緋尋は思った。
そしてふたりで入るには少し狭い浴槽に浸かった。身体だけでなく、心の疲れも取れたような気がした。
イエルとふたりきり、話ができてよかった。
五年前の決着を――必ず。
脳裏に烏真の顔が浮かぶ。
恥ずかしさをごまかすように緋尋はそのまま湯舟へ顔を沈めた。
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