もう誰も笑わない
森の静寂を切り裂くように、助けを求める悲鳴が響いた。
「助けてくれぇぇぇぇッ!!」
烏真は反射的に顔を上げる。
その直後、甲高い音と木々を揺らす激しい音が立て続けに耳へ届いた。
誰かが戦っている。しかも、かなり近い。
「マスター」
イエルが静かに口を開く。
「前方に複数のモンスターが存在します」
それだけ聞けば十分だった。
「行こう」
烏真は迷うことなく駆け出す。
「ですが、試験では私の力は借りないと――」
「そうだよ」
走りながら烏真は苦笑した。
「俺の力でなんとかしたいけど……危ないと思ったらすぐ逃げるよ」
試験だから、自分一人の力でやる。それでもきっと出来ることは限られているから。
《探索者》用の装備は持っていない。
ダンジョンを潜ればモンスターからドロップした装備を、隠された宝箱を空ければ武器を手に入れる可能性もあるだろう。だがそれらを目にしたことはなかった。
ライセンスを持たない烏真でも《上層》の探索は許されているが、そこで出会うモンスターが装備をドロップすることもない。
高性能の装備や武器は地上で売られているが、それには膨大な資金が必要となる。烏真が手に入れるのは現実的ではない。
だから、持ち合わせているのはどこにでもあるホームセンターで売られている鉈だけだ。こんなもの《探索者》が見れば鼻で笑うような代物だが。
ここで《《透明な刀身を伸ばす剣》》を出してもらえばいいのだろうが、これがもし不測の事態を想定しての試験ならば――まだ、イエルにその剣を生成してもらうわけにはいかない。
「了解しました――お気をつけて」
イエルもそれ以上は何も言わず、その隣を静かに走る。
草木を掻き分け、獣道を抜ける。途中、何度も分かれ道が現れた。しかし烏真は一度も足を止めない。左眼に映る景色だけを頼りに、迷うことなく道を選んでいく。
右へ進めば黒い靄が揺らめく。
左へ進めば何も見えない。
その眼が映し出す違いだけを頼りに歩き続けた。
数秒後――背後からズズズッと地面を擦るような音が聞こえる。振り返ると、先ほど避けた道の奥で巨大な食虫植物がゆっくりと花弁を開いていた。
赤黒い花の中心には幾重にも並ぶ鋭い牙。粘つく液体を滴らせながら、獲物を待ち構えている。
「危なかった……」
左眼が見せる答えを信じて危険は避ける。さらに森を駆け抜ける。やがて木々の隙間から土煙が舞い上がるのが見えた。
「そこか――」
烏真は足を止め、大木の陰へ身を寄せる。慎重に前方を窺うと、小さく開けた広場が目に入った。
「くっ……!」
三人の受験者たちが背中を合わせるように武器を構えている。誰もが肩で息をし、鎧や衣服は血と泥で汚れている。
一人は肩から血を流し、もう一人は片膝をついたまま立ち上がれずにいる。それでも誰一人として武器を手放してはいなかった。
彼らは決して弱くない。《深層探索者》の認定試験へ進めるほどの実力者たちだ。《下層》で数々の魔物を討伐し、レベル【400】を超えた探索者ばかり。
世間では一流と呼ばれてもおかしくない実力者たちのはずだ。そんなパーティを追い詰めていたのは――
「猿……?」
二メートルを超える巨体に黒い体毛に覆われ、人のように二本足で立つモンスターが見える。その手には棍棒や石斧を握り、鋭い牙を剥き出しにして低く唸っている。
「あれはフォレストエイプです」
イエルが静かに告げる。
「高い知能を持ち、群れで獲物を狩ることで知られています」
その数は六体。
「レベルは【500】です」
能力測定を受けていた受験者の中には【500】のレベルに達している者はいなかった。
「イ、イエル……俺は自分の力で試験に挑戦するって言ったのに……」
「申し訳ありません、説明しただけなので聞き逃してください」
「そ、そんな強引な……」
しかし、その情報は聞いてよかった。レベル差はモンスターが有利。
さらに状況は悪く受験者たちの背後では、人の背丈ほどある巨大な食虫植物が三体、大きく花弁を開いて待ち構えていた。
前へ出ればフォレストエイプ。後ろへ下がれば食虫植物。完全に逃げ道を塞がれている。
「まずいな……」
広場では焦りを隠せない声が飛び交う。
「くそっ! フォレストエイプが六体だぞ!?」
「《下層》の中でも特に危険なモンスターがどうして……」
「慌てるな! 一体ずつなら俺たちのレベルでも何とかなる!
「一体ずつならな……さすがに同時にこの数で襲われたら無理だ!!」
「ひ、左へ抜けろ!」
「ダメだ! やばい植物が道を塞いでる!!」
そんな中で一人が強引に突破しようと踏み込んだ、その瞬間だった。
巨大な花が勢いよく口を開く。
「しまっ――!」
鋭い牙が目前まで迫る。
受験者は咄嗟に飛び退き、その一撃を避けた。だが、その隙をフォレストエイプたちは見逃さない。
「CAYYYYYYYYYYY!!!!」
フォレストエイプの一体が地面を蹴り、振り下ろされた棍棒を剣で受け止めるが、圧倒的な質量に押し負け、そのまま数メートル吹き飛ばされた。
「ぐぁっ!」
地面へ叩きつけられ、剣が手から離れる。
「あっ……!?」
起き上がろうとした受験者の頭上へ、一体のフォレストエイプがゆっくりと棍棒を振り上げた。
誰も助けに入れない。他のフォレストエイプが援護すら許さず他の受験者たちの行動を阻害している。これではもう間に合わない。
「――やめろッ!!」
烏真は反射的に飛び出していた。だが、今から走ってもその手は届かない。腰の鉈を抜いても間に合わない。
しかし足元へ転がる拳ほどの石が目に入る。
「……これなら――」
ただ身体が動く。石を拾い上げ、大きく振りかぶる。
(せめて、気を逸らせれば――!)
そう願いながら、烏真は全力で腕を振り抜いた。
どこに当たってもいい。フォレストエイプに当たれば……最悪、棍棒に当たって軌道を逸らすだけでもいい。とにかく当たってくれと投石した。
そう思って放った一投は、一直線に空を切り裂き――。
ドゴォォォンッ!!
乾いた破砕音が森中へ響き渡った。放たれた石は一直線に飛び、フォレストエイプのこめかみへ吸い込まれるように直撃していた。
「GITTU――!!?」
短い悲鳴を漏らしたフォレストエイプの身体が大きく仰け反る。そのまま吹き飛んだ身体は十数メートル先の大木へ叩きつけられ、幹を揺らしながら地面へ崩れ落ちてそのまま動かなくなった。
「…………は?」
広場に静寂が訪れる。
そんな中で優勢だと悦に浸っていたフォレストエイプたちも、絶望に打ちひしがれる受験者たちも一斉に砲弾のような投石が飛んで来た方向を見つめていた。
「…………え?」
倒れていた受験者が呆然と呟く。
助かった――それだけは理解できた。
だが、何が起きたのか分からない。何かが飛んできて、それが直撃したフォレストエイプが一撃で絶命したことだけだった。
「…………なんでだ?」
だが投石した当の本人である烏真も野球のピッチャーが投げ終わった後のフォームのまま固まっていた。
(ええ~……??)
どこでもいいから当たってくれとは願ったが、 まさか倒してしまうとは思っていない。
(そんな勢いよく投げたからってさぁ……)
自分の手を見つめる。首を傾げるしかなかった。
「GRAAAAAAA!!」
怒号が響く。残る五体のフォレストエイプの視線が一斉に烏真へ向けられる。仲間が殺されたことで獲物が変わった。その鋭い眼光だけで十分に伝わる。
「ああっ……!!?」
受験者の一人が目を見開いていた。
「あ、あれって……能力測定のときにいたレベル【3】のおっさんじゃねぇかッ!!」
能力測定で笑われていた男。誰よりも弱いと思われていた男。その男が今、一体とはいえフォレストエイプを倒してしまった。
理解が追いつかない。だが何も知らないフォレストエイプたちは烏真に狙いを絞り走り出す。
「GYAAAAAAAAAAA!!」
五体が同時に地面を蹴り、一直線に烏真へ襲い掛かる。
「マスター」
イエルが静かに声を掛ける。烏真は無言で頷き腰へ手を伸ばす。握ったのは《探索者》の武器でも何でもない、ただの鉈だった。
(焦るな……俺が引き付けて、その間にみんなが逃げれればいい)
倒そうなんて考えていない。全員がこの場から逃げられる時間を稼ぐ。そう思いながら一歩踏み出す。その時、左眼が微かに熱を帯びる。
「……またか」
この痛みにもそろそろ慣れてしまいそうだった。
そして映る世界が変わる。飛び掛かってくるフォレストエイプ。四体が同時に武器を振り下ろし、残りの一体は逃がすまいと両足に掴みかかって来る。
五体同時に様々な角度から襲い掛かって来る。全てに対応するのは困難だ。しかしそれら全てが赤い線として表示され、その中で烏真が動くべき正しい線を作り出す。
(まただ……)
考える必要がない。五本の赤い線が烏真に迫ってくる。しかし一本の青い線に沿うように身体が勝手に動いていく。
振り下ろされた四本の棍棒や石斧が如何なる角度から振り下ろされたとしてもたった半歩、身体を逸らすだけでその全てを躱した。
そのまま鉈を軽く振る。
ザシュッ――
烏真の両足を掴もうと飛んで来たフォレストエイプの頭蓋を撫でるように刃が通っていく。
「GYA……!?」
フォレストエイプ自身にも描かれていた黒い線をなぞるように刃先が伝った。それだけでその巨体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「なっ……!?」
受験者たちが息を呑む。
「GYAAAA!!!」
残る四体が二体ずつ左右へ散る。囲むつもりだ。しかしその動きさえ、左眼にははっきり映っていた。
(右から先に来る……次は左――)
身体が自然に反応する。
一体目の拳を躱し、すかさず首筋めがけて一閃。首と胴体が分かれて死んだ。そのまま二体目の懐へ潜り込み、鉈の峰で顎を軽く打ち上げる。
ゴッ!!!っと鈍い音と共にフォレストエイプが宙を浮き、横に薙いだ刃は胴を斬り裂いていた。
「えぇ……」
受験者の一人が思わず声を漏らす。
軽く叩いただけでフォレストエイプが浮き上がり、そのまま紙切れのように両断していくその光景を前に、とてもレベル【3】のおっさんとは思えない動きだった。
一振りでフォレストエイプの肉を断つその威力。もはや人間離れしていた。
「GAAAAAAAAAAA!!!!」
更に一体が絶命したことで、憤怒のままに二体が挟み込むように飛び掛かる。
烏真は慌てることなく身体を捻った。棍棒が空を切る。石斧が大木へ突き刺さる。その隙を縫うように鉈を振る。
その刃は残り二体の片割れを袈裟斬りにし、もう一体は追撃を行わず逃げていた。
「…………」
残る一体だけが烏真の異常さに気付いたのか仲間が次々と倒れていく光景に恐怖したのか後ずさっている。
「GI……」
そして背を向け、森の奥へ逃げ出した。
「あっ!」
受験者の誰かが声を上げる。
だが烏真は追わなかった。
「逃げるなら……」
鉈を静かに下ろす。
「それでいい」
命まで奪う必要はない。
そう思った、その時だった。
ズズズッ……と、逃げたフォレストエイプの足元がゆっくりと蠢く。
巨大な食虫植物が花弁を開き、逃げたフォレストエイプを丸ごと飲み込んだ。ただ断末魔が森へ響く。
そして静寂だけが残った。烏真は思わず苦笑する。
「……自然って怖いなぁ」
その呟きに助けられた受験者たちは返事ができずにいた。ただ彼らの視線は苦笑いを浮かべる《おっさん》に釘付けになっていた。
能力測定で烏真のことを侮っていた受験者たちは、誰一人として笑うことなどできなかった。




