左眼が示す道
足元に広がる柔らかな土を踏み締め、烏真はゆっくりと辺りを見渡した。
どこまでも続く深い森。
陽光を遮るほど生い茂った巨木が空を覆い、幾重にも絡み合う蔦が道を狭めている。鳥の鳴き声は聞こえるものの、人の気配はどこにもない。
試験官が映し出していた演習ダンジョンは、迷路のような石造りの構造だった。だが目の前に広がる景色はそれとは似ても似つかない。
「これは私も初めて確認するダンジョンです」
しかもイエルですらここがどこかわからない。
「イエルでもわからないのか……」
「はい。私の記録にもこの地形は存在しません」
イエルは目を閉じたまま周囲へ意識を向ける。しかし、すぐに首を小さく横へ振った。
「通常であればダンジョン内部の構造はある程度把握できます。ですが、この場所は私も干渉できません」
「そっか……」
烏真はもう一度森を見渡す。確かに説明とは違う。だからといって慌てることはなかった。
「お役に立てず申し訳ございません……」
と、本当に申し訳なさそうに深々と頭を下げるイエルだったが烏真は最初からイエルの力を頼らずに試験に挑むつもりだった。
(それにこれは深層へ潜るための試験なんだ)
普通の試験では意味がない。
未知の状況に対応できるかを試すため、わざと別のダンジョンへ転移させたのかもしれない。不測の事態に対しても億することなく対応してこそ真の《探索者》であると。
(きっと、これも試験の一つなんだろう)
そう考えれば納得できた。
(どんな形であれ《探索者》のライセンスを手に入れるチャンスなんだ……)
しかし隣でイエルはまだ何かを考え込んでいる。
「マスター」
「ん?」
「これが試験とは到底思えません……危険すぎます」
「確かに試験内容とあまりに違いすぎるよね」
烏真は入り組んだ植物の迷路と化した道を前に、
「進んで確かめるしかないな」
烏真は苦笑しながら前を向く。
「もしも内容が違っても、これが試験なら途中で帰るわけにもいかないし」
「いえ、出口が見当たらないのでそもそも帰る方法が……」
「それを見つけてこそ《探索者》なはずだ」
出口のないダンジョンなど存在しない。出口を開く手段は必ずあるはずだ。ここで立ち止まっている場合ではない。
イエルは何も言い返さなかった。ただ静かに烏真の隣へ並んだまま、
「その通りです。ダンジョンは必ず攻略できます……マスターならばそれが可能です」
イエルはこれまでと明らかに違う状況に動揺していたのかもしれない。だが、烏真の恐怖も不安もない強い意志を前に平静を取り戻した。
「大げさだよ」
「過言ではありません。お願いですから自覚してください」
イエルは小さく溜息をついてから頬を膨らませた。
一本の長い前髪がピンと真っ直ぐに伸びていたが烏真はそれに気づかずに誰も踏み入れていない森の奥へと踏み出した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
森へ足を踏み入れてから数分。
周囲に変化はなかった。聞こえるのは木々が風に揺れる音だけで、特に変わったこともなく普通の森を歩いているような静けさだった。
「静かですね」
イエルがぽつりと呟く。
「そうだね」
ダンジョンとは思えないほど穏やかだ。だが、その静けさが逆に不気味でもあった。
少し歩いたところで道が二手に分かれる。
右は開けた緩やかな坂道になっている。左は木々の間を縫うように続く細い獣道だった。どう見ても前者を選んで進むべきだろう。
「マスター」
「うん?」
「どちらへ進みますか?」
烏真は二つの道へ視線を向ける。そのとき左眼が微かに熱を帯びる。
「……」
右の道はどこか霞んで見えた。薄い霧が掛かっているような、不快な違和感。そして左の道は植物のツタや、大きな葉が遮るように見えるが何も感じない。
どう見ても右の道に進むべきだというのに、
「こっちかな」
迷うことなく左へ足を向けた。
「迷わないのですね」
「なんとなくだけどね」
そう答えながら左の道を進んだそのときだった。
ズズッ……、と右の道の茂みがゆっくりと揺れる。
大きく開いた花弁。人の背丈ほどある赤紫色の花。花の内側には幾重にも並んだ鋭い牙がびっしりと生え揃い、粘つく唾液が地面へ滴っていた。
いかにも右の道が進むべき道のように見せておいて、そのまま進んでいれば喰い潰されていたことだろう。
「植物型のモンスターでしたね」
人間ほどのサイズの食虫植物にも似たそれを見てイエルが呟く。花はゆっくりと閉じると、何事もなかったかのように再び茂みへ溶け込んでいった。
「左の道を選んでよかったね……」
「マスターは気付いていたのですか?」
「え? いや、そうだなぁ……」
烏真は困ったように頬を掻く。
「なんとなく、あっちは危ない気がしたんだ」
「なんとなく……ですか」
イエルは烏真の左眼へ視線を向ける。
「マスター」
「ん?」
「その左眼は……見えていますか?」
突然の質問に烏真は足を止めた。
左眼は白く、失明しているように見えるが――
「それが……見えるんだよね」
そして少しだけ昔を思い返す。
「でも……不思議なものが見えるようになったのは余命を宣告されてから一年くらい経った頃かな」
「不思議な……?」
「最期くらい夢を叶えようと思って、一人でダンジョンへ潜ったんだ」
あの日のことは今でも鮮明に覚えている。
誰にも見えないはずの岩壁の前で、左眼だけが違和感を捉えた。
そこにあるはずのない入口。
そして、その先で眠っていた少女。
「その時からこの左眼だけは普通とは違うものが見えるようになったのかな」
「見えるように?」
「隠れていた入口も、この目だけは見つけられた」
烏真は苦笑する。
「そこでイエルと出会ったんだよ」
「…………」
イエルは少しだけ黙り込んだ。
「理由は分からないけどね」
そう付け加える。
「気付いたらこうなってた」
能力の名前も、原因も知らない。
ただ、ダンジョンへ潜るたびに危険な場所や隠された道が自然と目に入るようになった。
「おかげで何度も助けられてるよ」
そう笑う烏真に対し、イエルは静かに口を開く。
「視ることで効果を発揮するスキルが存在します」
「スキル?」
「はい。《鑑定眼》のように対象を見極めるものや、《千里眼》のように遠方を見通すものです」
スキルとは無縁の人生を送っている烏真であっても聞いたことのある名前だった。
「その中には、迷宮攻略に特化した能力もあります」
「そんなのもあるんだ」
「《看破眼》です」
初めて聞く名前だった。
「ダンジョンの構造、隠された道、罠、そして魔物の弱点を見抜くとされる、極めて希少な能力です」
「へぇ……そんなものがあるんだね……」
「はい。ただ私の記録上にのみ存在する能力ですが――」
それでもイエルの視線は烏真の左眼から離れない。
「マスターの左眼は、その《看破眼》と極めてよく似ています」
「じゃあ俺のこれも……?」
「分かりません」
即答だった。
「そもそもマスターのステータスにスキルが存在しません」
「……そうだね」
「ですので、それが《看破眼》とは断定できません」
それでも、はっきりとわかるのは、
「少なくとも、その左眼が普通ではないことだけは確かです」
烏真はそっと左眼へ触れる。
何も映し出さなかったはずの瞳が、イエルにはまだ教えていないけれど――この眼が失明したのは《《別の理由》》があるのだけれど。
それでも、あの日――この眼に光が宿った。
それは誰も知らぬ道を照らし、その先でイエルと会えた。そして今もこの左眼は迷うことなく進むべき道を教えてくれる。
「難しいことはよく分からないけど……」
前を向く。
「魔力もスキルもないけれど、この眼のおかげでイエルと出会えたんだ……感謝してるよ」
イエルは小さく頷いた。
「感謝しているのは私も同じです」
あの日、誰にも見えなかった入口を見つけられたのも。今こうして危険な道を避けられているのも、この左眼のおかげだ。
「だから……信じて進むよ、俺は――」
烏真は小さく笑う。
「マスター?」
「せっかく助けてもらったんだからね」
左眼へ軽く触れ、そのまま前を向く。
「俺が努力して手に入れた力じゃないかもしれないけど、それでも……俺はもうちょっとこの眼を信じてみるよ」
「はい」
二人は再び森の奥へ歩き始める。
左眼に映る景色を頼りに迷うことなく一つ、また一つと分かれ道を越えていく。その度に危険そうな道は避け、安全と思われる道だけを選び続けた。
そして数分後――。
「――助けてくれぇぇぇぇぇッ!!」
森中へ響き渡る悲鳴。金属がぶつかる音。炸裂する轟音。そして何かが倒れる鈍い音。誰かが戦っていることだけはわかる。
「マスター」
「うん」
返事はそれだけだった。
烏真は迷うことなく悲鳴の聞こえた方角へ駆け出す。試験かどうかなど関係なかった。助けを求める声が聞こえた。
――それだけで十分だった。
「急ごう!」
イエルも遅れることなく、その背中を追い掛ける。
森の静寂を切り裂くように、二人は悲鳴の先へと駆けていった。
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