誰も見えない入口
壁と壁の隙間は人ひとりだけが入れるように広がってうっすらとその奥が見える。烏真は迷うことなく、その入口へ足を踏み入れた。
近くを通る探索者たちは誰一人として視線を向けず、通り過ぎていく中で上層でたったひとり足を止めた烏真だけがその入口を進んだ。
何度も何度も潜り続け、上層でしか活動できなかった烏真でさえ認知していなかった隠された入口だ。その先に何が待っているのかなんてわかるはずもなく。
だが――どうせあと一年しか生きられない。どうせ何もしなくても命は終わる。この程度の不安で足を止める理由にはならなかった。なら、この道を進むのみ。
薄暗い通路を進んだ瞬間、背後でゴォン――と重い音が響く。
壁と壁の隙間を越えたと同時に、隙間を埋めるようにまるで最初からそんな入口などなかったように、ただ大きな振動が足裏から伝わり、ひやりとした空気が首筋を撫でた。
「……マジか」
振り返った烏真は固まった。
進んだ者を決して逃がすまいと烏真が通ってきた入口が消えていた。そして灰色の石壁だけが一方通行に続いている。逃げることも、隠れる場所もない。ただひたすらに真っ直ぐの道が続いている。
「閉じ込められたのか……?」
振り返り、壁を叩いても反応はない。
乾いた音だけが通路の奥へ吸い込まれていく。
スマホも圏外。
しかし覚悟してここに来たのだ。誰にも行先は告げずに来ている。死ねば烏真の遺体は見つからないだろう。
通路には湿った石の匂いと、どこか金属が錆びたような臭気が漂っていた。耳を澄ませば、遠くから規則性のない低い唸り声のような音が聞こえる気もする。
だが不思議と恐怖は薄かった。
「……本当に楽だな」
胸に手を当てる。
息苦しさも肺を焼くような痛みもない。余命を知る前からずっと付きまとっていた重さが消え、身体は驚くほど軽かった。
引き返す道はない。
なら、進むしかなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
異変はすぐに現れた。
冷えた空気の流れが変わった瞬間だった。
闇の中で赤い目が光ったかと思うと、巨大な怪物が道を塞ぐように鎮座していた。
「……ッ!」
近付くと同時に咄嗟に烏真は身を捻った。風を裂く唸りとともに鋭い爪が鼻先を掠める。姿を現したのは鋼鉄のような甲殻に覆われた四メートルはある巨大なサソリだった。
「ありえない……」
烏真は絶句した。
(上層で遭遇していいモンスターじゃない)
上層のダンジョンにしか潜ったことのない烏真にとって四メートルを超える巨大なサソリなど遭遇したことがない。せいぜい烏真にとって戦ったことのあるモンスターはゴブリンやスライムといって小型クラスばかり。
こんな大型クラスのモンスターなど烏真の手に負えない。モンスターの情報が一切ない烏真にとって名前もわからないし、どの層にいて、どれだけのレベルを有するのかすらわからない。
勝てるはずがない。
巨大なサソリは鋏の形状をした手を振り上げ、轟音と共に振り下ろされる。
「……え?」
避けなければ――そう思うよりも先に身体が勝手に半歩だけ横へ動いた。
見てから回避したのではなく、岩盤を粉砕するのも容易な巨大な鋏が鼻の先を通り過ぎていくのを横目で眺めているような気楽さだった。
「な、なんで……?」
そして再び広げた鋏の腕が振り下ろされた風圧だけが頬に触れて、背後岩壁だけが砕け散る。
今のも避けた?
まるで他人事のようで、自分でも理解が追い付かない。
考える間もなくサソリは次の攻撃を行おうとしている。尾の針が揺れ動いていた。人の胴ほどもあるおぞましい太さだった。銃弾のような速度で放たれ、それは烏真の心臓を穿たんと一直線に迫っていた。
見えない――こんなの避けられるわけがない。
だが頭では無理だと諦めても、無意識に動く身体が肩先を掠めるだけで紙一重でその針を避けていた。
石畳に突き刺さり、耳を劈くような音が轟いている。
「どうなってる……?」
恐怖よりも先に違和感があった。
烏真の目で追えているわけでない。それなのに攻撃がどこから来るか、どこへ動けばいいのか――考えるよりも先に身体が動くことで、サソリの攻撃の全てを回避していた。
サソリは怒り狂ったかのように再び両手の鋏を振り上げていた。
しかし、どれだけ攻撃が激しくなろうともそれを避け、潜り、更に一歩踏み込む。
その瞬間だった――サソリの額の向こう側、甲殻の更に内側。そこだけが不自然に光って見えた……ような。
「《《そこだ》》」
それが何か考えるより先に父の剣が奔った。
尾の針の先端を受け流し、そのまま針の根本ごと斬り落とす。耳障りな金属音と共に火花が散り、勢いのまま更に、更に懐へと飛び込んだ。
一気に踏み込み、迷い無くサソリの額めがけて剣を突き立てた。
肉を刃が食い込む感触が腕に伝わる。サソリは呻き声を上げて暴れた。ただ通路全体が震える。しかし烏真は離さない。
わからない。
なぜ迷わずにそこを狙ったのか。
だが刃の先で何か硬いものが砕け散った。
ギャアアアアアアアアアアア――――
その巨体が、脆弱な人間一人に呆気なく破壊され、悲鳴を上げながら崩れ落ちる。重い衝撃音とともに静寂が戻った。
残ったのは血の匂いと、自分の荒い呼吸だけだった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
勝った。
妄想にしては出来過ぎている。どう見ても上層に存在するモンスターではない。
どうして攻撃を避けられたのかも、どうして額を狙ったのかも、何一つわからないままだった。
本来のレベル【50】なら勝てる相手ではない。
モンスターは核を破壊されれば死ぬ。それは《探索者》なら誰でも知っている常識だ。だがそれを狙って行ったわけではない。ただ偶然にも核を貫いただけだ。
もう動かないサソリの怪物を前に、烏真は剣を杖にそのまま座り込む。
レベルは上がらない――烏真のレベルは【50】のまま。
これほどの格上のモンスターを撃破したにも関わらず、成長の限界に達している烏真にとって勝利は何の意味もなさない。
なんてむなしい……それなのに、
「……腹が減った」
意味のない勝利よりも、余命を告げられてから一度として来なかった腹の虫をどうにかしたいと思った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
しばらくして、烏真は自分でも正気ではないと笑っていた。
烏真は倒したサソリのモンスターの肉を焚き火で焼いていた。ぱちぱちと薪が爆ぜる音が静かな通路に響く。ダンジョンに潜るまでは食欲はなく、無駄に過ごしたあの一年の内にまともに食事をした記憶がない。
「毒あるよな……?」
それなのにサソリのモンスターを前にして、信じられないほどの空腹感に苛まれたのだ。斬り落としたサソリの片腕を更に細かく分けてみる。
「まぁ、どうせ死ぬんだ……だったら――」
父の形見とはいえ、ただのロングソードだ。特殊な機能は備わっていない。
なのにバターにナイフでも通すかのごとく簡単に切断できているのだが、早くこの空腹をどうにかしたいという気持ちの方が大きくてその違和感に気づかない。
「案外いけるもんだ」
そしてもう一口かじる。
久しぶりの空腹のせいかもはや何でも美味く感じてしまう。焼いた身は硬いが食べれないわけではなく、本物のサソリを食べたことはないが、なんというかエビを食べてる感じだった。
もし毒があったらどうするのか――そんなことすら気に留めず、烏真は一口、二口を齧りついている。味はこの際どうでもよかった。バリボリと音を立てて、苦みはあっても特に問題なく食べれている。本当にどうなってしまったのか。
烏真が肉を呑み込んだ瞬間、身体の奥が熱くなるのを感じた。
――――『レベルが上昇しました』――――
「……はい?」
あまりにも気の抜けた声を上げてしまった。
焼いたサソリの肉を咥えたまま固まってしまう。今、何か声が聞こえた気がした。何年ぶりに聴いたであろう脳内に響くアナウンス。
「まさか……ね――――」
だがレベルがどれだけ上がっているかは鑑定機器で計測しなければわからない。鑑定のスキルを持つ探索者ならすぐにわかるのだろうが、そもそも何のスキルも持たない彼にとっては関係のない話だ。
しかしレベルが上がっているのは妄想でもなく、このアナウンスも幻聴ではない。何せ咀嚼する回数が増える度に同じアナウンスが脳内に響いているのだから。
しかし、もし、そうなら……なんて、烏真は食事を続けることにした。
レベルアップのアナウンスがそこから止まることなく鳴り響いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
空腹が止まらなかった。
だから食べるのを止められなかった。
そしてレベルアップのアナウンスも止まらなかった。
止まるまで食べてみよう――と、決めたせいで結局、食べる手が止まってくれなかった。だからサソリの怪物を食い尽くしてしまったのだ。
烏真も自分の身体が明らかな異常を来しているのは理解している。四メートルはあったであろうサソリの怪物を時間をかけてひたすら食らい続けた。
もう途中からは火を通すのすら億劫になって、そのまま齧りついていた。もはや人ではない。これではどっちが怪物かわからない。
あいにくサソリがいた部屋に他のモンスターが乱入してくることはなく、《レベルアップ》のアナウンスだけを信じて、それならこの声が聞こえなくなるまで食い続けてやると繰り返し食い続けていた。
どれだけの時間を掛けたのかはわからないが、気が付いたころにはサソリの怪物は殻だけになっていた。いくら食べても満腹にはならなかった。
食べても経験値に変換されて胃の中で消失しているのか、だがいまはそんな異常よりも何年掛けても上がることのなかったレベルが上がっている――
モンスターを倒し、食べるたびにレベルが上がる。
理由は分からない。
レベルの上昇はモンスターを倒したその時点で経験値が入って上がるとばかり思っていた。しかしそれで烏真のレベルは上がらなかった。まさか死肉を啄むことでレベルが上がるなんて笑えない。
だがレベルが上がっても、魔力もスキルも増えることはなかった――それでもレベルさえ上がれば基本のステータスは今よりもずっと高くなる。ならそれでいい。
歩くほどに通路は深くなり、空気はさらに冷たくなる。この間も脳内に《レベルアップ》のアナウンスが鳴り響いて鬱陶しいが、身体の中で消化しているからゆっくり上がり続けているのだろうか。
現状、自分自身のレベルを確認できないのが心苦しいが。これがただの幻聴でないことを祈りながら、ひたすら真っ直ぐの通路を歩いている。
時折、誰もいないはずなのに背後から視線を感じた。だが振り返っても闇しかない。それでも肌を刺すような気配だけは消えなかった。
どれだけ歩いただろう。気付けば通路は終わっていた。
行き止まりだ――目の前に広がるのは白い壁。道はどこにもない。それなのに烏真の左眼がズキリと疼く。痛みが走ったように、誰も見えない入口を見つけたときもそうだ。
烏真の瞳だけが未知なる道を映し出す。そしてこの目の前の真っ白な壁も――ただの壁だというのに、きっとこれは行き止まりのはずなのに。
そっと壁に手が触れようとしても、その手は壁に触れることはなく通り過ぎる。壁のように見えるだけで、それはただの映像でしかなかった。
どうする――と、一瞬だけ足を止めた。
「行こう」
帰る道はどこにもない。なら、終点まで突き進むだけだった。
そして進んだ道の先、確かにそこは終点だった。
そこはあまりにもダンジョンからかけ離れていた。
壁も。
床も。
天井も。
まるで巨大な機械の内部だった。
「なんだ……ここは……」
少なくとも烏真の知るダンジョンではなかった。
もっとこう埃っぽい石壁に囲まれたような、洞窟のような、苔が生えて、魔物がいるのがダンジョンだろう?
それなのに、なんだこれは――――
真っ白な空間が広がっていた。太いケーブルのようなものが床を伝い、真昼のように明るく、それが逆にこの異様な光景を引き立てている。
そして無数のケーブルが伸びる先、空間の中央には両腕の無い女神を模った像が立っている。
神々しく。
そしてどこか不気味に。
白い空間には微かな駆動音のような低い響きが満ちていた。
烏真は息を呑んだ。
女神像の腹部だけが異常に盛り上がっている。
「どうして、こんなところに……?」
腹部の表面だけがガラスのように透明でその内側は液体で満たされていた。そんな培養槽のような装置の中で、一人の少女が眠っていたからだ。
白い長い髪。毛先だけが淡く青い。
像の腹部の中で胎児のように丸くなったまま眠り、両手を組みながら何かに祈っているように見える。
勝手に身体が動いていた。
父の背中が脳裏をよぎる。
気付けば少女の元へ向かっていた。
剣を握る手が強くなる。
そして女神像に接近したその時だった。
ガコン――――と。
静寂の世界にこれまでよりも更に大きな機械音が響いた。
冷たい空気が震え、空間全体がわずかに軋む。
そして――――開かれた女神像の瞳は、確かに烏真だけを見据えていた。
――――『起動』
白い瞳に光が宿る。
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