その嘘は壊せない
目の前がぼやけていた。
五年前の記憶から現実へと意識が引き戻される。
そして目の前には、あの日と何も変わらない少し困ったような笑みを浮かべた烏真がいた。
――――がんばってね。
そう言って背中を向けて、一度も振り返らなかった。
伸ばした手は届かなくて、喉が震えて声にはならない。遠ざかる背中だけが、小さくなっていく。
(待って……)
(違う……)
(悪いのは、わたしなのに――)
「緋尋さま?」
不意に名前を呼ばれ、緋尋の目が瞬いた。
「……え?」
目の前には白銀の少女――イエルが不思議そうにこちらを見上げている。
「どうかなさいましたか?」
「…………あ、あの――」
視線を横へ向ける。そこに立つ一人の男。
鏑木 烏真。
五年間――探しても見つけられなかった人。もう二度と会えないと思っていた人が、いまこうして目の前にいる。
それなのに烏真は目の前に座っている緋尋が五年前の少女だと気付いていない。
「もしかして……まだ具合悪いかな?」
優しい声だった。
あの日。
初めて話しかけてくれた時と変わらない、穏やかな声。
「い、いえ……」
緋尋は慌てて首を横に振る。
違う――具合が悪いんじゃない。ただ目の前にいる人を見ているだけで、胸が苦しくなるだけだった。
言いたいことは山ほどある。
謝りたい。
ありがとうと伝えたい。
どうしてあのとき、自分を庇ったの――
だけど、何から口にすればいいのかわからなかった。
「あの……」
それ以上、言葉は続かなかった。
それでも緋尋は震える声で切り出した。烏真は「うん?」と優しく首を傾げた。
「その、配信をしてると……」
なんでこんな回りくどいことを――息が苦しい。
一言を口にするだけで胸が締め付けられる。
「相談を受けることもあって……なんて……」
どんな言葉なら届くのかわからないまま、言葉を選ぶ。
「もし、誰かが……ずっと昔のことで、謝りたいって思っていたら……どうすれば、いいでしょう……」
烏真は少しだけ考えるように視線を落とした。
「自分のせいで誰かを傷つけてしまって……後悔してるひとがいたら……まずは、謝るべきだと、思います……よね」
緋尋の問いに、烏真はじっと見つめたまま、
「謝らなくていいと思うよ」
「…………え」
あまりにも迷いのない返事だった。
「だって、その人が悪いとは限らないでしょ?」
「でも……」
緋尋の声が震える。
「そのひとのせいで、誰かの人生が変わってしまったとしたら……?」
烏真は少しだけ黙った。
何かを思い出すように、遠くを見る。
「……それでもかな」
穏やかに笑う。
「か、鏑木さんは……後悔してることって、ありますか?」
愚かな問いを烏真に掛けた。
「五年前のライセンス試験かな」
(……やっぱり――)
緋尋はぐにゃりと視界が歪んで倒れてしまいそうだった。
「あれは俺が悪かったんだ」
その言葉に、緋尋の鼓動が止まりそうになった。
「俺が転移床を踏んだ」
その嘘は――まるで事実のように。
五年間、一度も揺らぐことなく積み重ねられた《真実》なのだと呟いて。
「あのとき俺が、もっとちゃんとしていれば……」
烏真は五年前のことを今でも自分に非があると、
「全部、自業自得なんだよ」
そうはっきりと言い切ってしまうから。
(違う……)
違う。
違う。
……違う。
あのとき罠を踏んだのは緋尋だ。
全部、自分のせいなのに。
どうして。
どうして、この人は今でも自分を責めているの。
「試験を受けた時点でもう歳も歳だ。それなら若い子が夢を叶えられたなら、それでよかったって今でも思ってるよ」
照れくさそうに頭を掻いて、そう言う烏真の顔を見たとき緋尋は何も言えなくなった。
喉まで込み上げていた真実が、そこで止まる。
(言えない……)
あなたは今でも、自分が悪かったと思っている。
(いまここで、本当のことを言ってしまったら……)
五年経った今でも、烏真は真実を胸の奥に隠したまま。
(このひとが、自分の夢を諦めてまで……守ろうとしたものまで壊してしまう……)
こわい。
緋尋の身体が震える。
なにも言えない。
まだ、本当のことを言葉にできない。
「緋尋さま……?」
イエルが心配そうに声を掛ける。緋尋は慌てて笑顔を作った。
「……なんでも、ないよ」
そう答えることしかできなかった。
また涙が零れた――今日は五年前のあの日ぐらい、よく泣く日だ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
緋尋は目元を拭い、小さく息を吐いた。
それでも俯いたまま顔を上げることはできない。
部屋の中には静寂だけが流れていた。
烏真はそんな緋尋を前に何も言わずにいた。慰めることも、涙の理由を尋ねることもなく、ただ静かに彼女が落ち着くのを待っていた。
その優しさが、かえって胸を締め付けた。
「…………」
どれくらい時間が経ったのだろう。ようやく呼吸が落ち着いてきた頃、緋尋は気持ちを切り替えるように顔を上げた。
「ご、ごめんなさい……取り乱しちゃって」
「いや、その……何も言えなくてこちらこそごめんというか……」
烏真は首を横へ振って申し訳なさそうにしている。緋尋からいれば倍も離れているであろう女の子が泣いていて、それに対してどう声をかけていいかわからなった。
「あの……」
「うん?」
「わたし……どれくらい眠っていましたか?」
「半日くらいかな」
「そんなに……」
終焉級との戦い。奈落への落下。そのまま気を失ってしまって目覚めるまで思っていた以上に時間が経っていたらしい。
その瞬間、緋尋ははっと息を呑んだ。
「あ、そうだ……配信……!」
「あのドローンだっけ?」
「……無事だって伝えないと」
自分が生きているのか死んでしまったのか分からないまま半日以上音信不通なら、今頃配信を見ている視聴者たちも運営も今頃大騒ぎなのは間違いない。
「その……みんなにわたしが生きてることを伝えないと」
「たしかに、それはそうだ……千ヶ峰さんのことはきっとみんな心配してるはずだよ」
烏真は納得したように頷いて、そのままイエルが緋尋の横に立っている。
イエルが新品のように修復したドローンを起動する。青いランプが灯り、静かに宙に浮いている。静音性が遥かによくなっているような――
「それも終焉級の素材で補修しましたので前よりも丈夫で、長時間の配信に使用できるかと思います」
いいのか――それは……と、心の奥底で緋尋はツッコんでしまう。
配信以外にこれといった機能もないドローンにそんな全世界が喉から手が出るほどの希少素材を使ってしまっていいのだろうか。
とにかく今は余計なことは言わずに、緋尋は配信の準備を行う。ひとりひとりに連絡を入れるより、配信した方が早い。
「それなら――」
そこで言葉を止める。配信ボタンに手が触れようとしたと同時に緋尋は我に返った。
「……ここって映して大丈夫、ですか?」
ここは未知の場所で、イエルが作り出したセーフエリアなるもので軽々しく世界へ配信していい場所ではないはずだ。
「問題ありません」
イエルは即答した。
「配信に私たちが映らないようにして頂ければ結構です。あとはこちらで調整します」
「ち、調整……?」
「私がこの空間に関する情報は認識阻害を行いますのでお気になさらず。視聴者からはダンジョン内に見えるよう背景設定に補正を入れますので」
「そ、そんなことまでできるの……」
「はい」
迷いのない返答だった。
烏真は苦笑しながら頭を掻く。
「俺は難しいことはよく分からないけど……イエルが大丈夫って言うなら、大丈夫なんだと思う」
「……ふふっ」
思わず緋尋の口元が緩んだ。この二人の関係を詳しく聞きたかったけれど、いまは一秒でも早く視聴者たちに自分の安否を伝えないと――と。
「じゃあ……お言葉に甘えて……」
一つ深呼吸をして、イエルと烏真はドローンの裏側に回っていた。緋尋は配信を開始する。数秒の読み込みの後、映像が世界へと繋がった。
――<!!!!!!!!???>
――<きたああああああああ!!>
――<ひひろん生きてた!!!!>
――<うわあああああああああ!!!>
――<良かったぁぁぁぁぁ!!!>
――<全世界が泣いた>
――<生存確認!!!!>
――<怪我は!?>
――<ってか服変わってない!?>
――<武器も新品じゃね??>
――<配信切れてから何があったんだ!?>
緋尋が配信を開始して一秒で滝のようなコメントが流れていくのが見える。それはとどまることなく、画面いっぱいの安堵のコメントを前に緋尋の目元が熱くなった。
「みんな、ごめん」
いつもの挨拶もせず、ただ緋尋は深々と頭を下げる。
「わたしはこのとおり無事です」
その二言だけで、コメント欄はさらに勢いを増していく。
――<謝らんでええから>
――<それな>
――<無事ならそれでいい!>
――<生きてるだけでオッケーです>
――<泣けるぜ>
――<そういやいっしょにいたおっさんは!?>
――<あの助けてくれた人は?>
安堵のコメントのばかりではなく、質問もまた次々と飛んでくる。だが緋尋はゆっくり首を横へ振った。
本来ならば質問には全て答えるべきだと思う。
ましてや《踏破者》としては前人未踏の深層の更に底である奈落にいるのだから配信を繋いだまま、地上を目指すべきなのだろう。
けれども世界のためだとしても――烏真とイエルを配信に映すのは、何か違う気がした。
終焉級との戦闘は緋尋も余裕がなかったし、ただ茫然と見ていることしかできなかった。だからつい配信に二人の姿を晒してしまった。
だけどそんな二人を見つめたまま――
「わたしを助けてくれた方たちを配信に映すことは……その、ごめん、できない」
もう一度、深く頭を下げて、
「みんなに無事を伝えたくて配信したんだ。そのひとにも事情があるから……わたしから話せないの。だからごめん……それ以外のことは、地上から無事に帰ってからいくらでも話すからここまででいいかな?」
両手は拝むように、緋尋は頭を下げてそれ以上のことは話せなかった。
イエルと烏真には世話になりすぎている。けれど本来ならば無関係の二人をこのまま配信に映すべきではないと判断してのことだ。
「ただ、一つだけ……これだけは聞いて欲しいんだ」
それでも伝えたい言葉があって、烏真をちらりと横目で見つめてからすぐにドローンに視線を移す。
「わたしを、助けてくれたひとは……」
緋尋の視線がドローンの背後に立っている烏真に向けられていた。
言葉が続かない。
恩人、英雄、人生を変えてくれたひと。
どんな言葉を探しても、足りなくて。
「すごいひとでした――」
その言葉だけを残して、緋尋は静かに配信を終了した。
画面が暗転する。
それでも緋尋の視線は、ずっと烏真から離れなかった。
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