それになりたい
終焉級。
コメント欄に映ったその三文字を見た瞬間、烏真はスマホを握る手に力が入った。
画面には映り切らないほどに大きな百足が映っている。
鋼鉄のような黒い外殻に赤黒く光る複眼。名の通り百ある足。画面越しですら伝わってくる圧迫感に、思わず息が止まった。
その怪物が現れてからコメント欄はずっと恐慌状態だった。
――<むりだろ!?>
――<なんでそんなのがいるんだよ>
――<撤退しろ!!>
――<ひひろん逃げてくれ!!>
――<このままじゃみんな……>
誰もが恐れるのも無理はない。
探索者ランキング――十一位。《踏破者》である燐牙の攻撃はまるで通じていなかった。いかなる銃火器が傷一つつかず、終焉級の名に偽りなく、世界はまさに終わりに向かっていくような――
「マスター」
隣でイエルが静かに告げる。
「深層への接近は推奨できません」
イエルが頑なに深層に近づくことを禁じたのはこれが理由だった。
「終焉級――遭遇時、即撤退対象です」
「……そうだね」
ダンジョンが現れて未だ二体しか確認されていない災厄の頂点。烏真は画面から目を離さない。
一人の《踏破者》が一撃で沈黙するほどの怪物。
複数いる探索者たちも何もできずに動けない。
それなのに、たった一人――まだ諦めずに立ち向かっている。
「マスター、何を……しているのですか?」
イエルが問い掛ける。
「どこへ、行こうとしているのですか??」
烏真はすぐに答えられなかった。それは自身が愚行であることを理解しているからだ。
この行為に意味はないのかもしれない――誰かを助ける……なんて、自分はそんな上から手を差し伸べられるほど選ばれた人間とも思っていない。
《踏破者》の一人を一撃で倒すほどのモンスターのレベルがどれほど高いか想像しただけでも恐ろしい。モンスターを食べてレベルを上げたからといって、たかが三ヶ月で何か変わっただろうか――
配信を見ていたとき二人の《踏破者》の会話を聞いていた。
《踏破者》になるのに五年、三年で到達した者もいる自分がどれだけ浅はかなのか。
そもそも間に合うわけがない。
この場から難波ダンジョンまで徒歩で五時間の距離――無理だろう。それでもただ見ているだけは嫌だった。その感情だけがはっきりしていた。
「イエル……俺は――」
脳裏に浮かぶのは昔の記憶。
幼い頃、暗いダンジョンの中で泣いていた。どうしてそこにいたのかは覚えていない。何故、そこに一人でいたのかも曖昧だった。
ただ怖かったことだけは覚えている。
冷たい岩壁、湿った空気、遠くから聞こえるモンスターの鳴き声。その恐ろしさに「助けて」と叫ぶこともできずに怯えたまま震えて泣いていた。
ここで死ぬのだと思った。
そのとき助けてくれたのが烏真の父親だった。いや、父親になってくれた人というべきか。
烏真は父と血は繋がっていない。なぜかダンジョンを彷徨い、《探索者》だった父親に救われたことがすべての始まりだった。
父親は烏真の本当の家族を探してくれた。しかし見つからなかった。烏真本人も何も思い出せず、身寄りのない孤児となっていた。そんなとき家族として迎え入れてくれたのが烏真の父親だった。
『今日から家族だ』――優しくそう言ってくれた。
背負われながら、血の繋がりはなくとも義理の父親だとしても――あの日の背中の大きさを今でも忘れられない。
《探索者》になりたかったのは、たったひとつの理由。
英雄や最強になりたかったわけじゃない。
金でもなく、有名でもない。
偽善と罵られても、烏真の理想の《探索者》――
「それになりたいんだ」
「それ……、ですか?」
真っ直ぐイエルを見つめたまま、
「父さんみたいに……なりたかったんだよ」
あの日の父のような――
それが叶わず、スキルも魔力もゼロのまま……しかしレベルが上がった。イエルと出会って未来が変わった。
だから選択する。
「推奨しません――」
しかしイエルはやはり烏真の選択を拒むのだが、
「しかしマスターの選択を拒絶することはできません」
正座していたイエルが立ち上がり、
「マスターの願いを叶えるのが私の役目ですので」
薄っすらと閉じられていた瞳が少しだけ開いたように見えた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「こちらへ」
イエルに言われるがままに、烏真は彼女の背中を追う。
案内されたのは家の裏にある枯れた井戸だった。井戸としての役目はとっくの昔に終えている。ここにいったい何があるのか。
「井戸……だね?」
見慣れた光景。この家で住んでいるのだから当然知っている。周りには苔の生えた石造りの井戸だ。
「はい」
「……えーっと――」
中を覗き込んでみるが、底は暗くてよく見えない。
「ここから難波ダンジョンへ移動できます」
「……ええ????」
あまりにも当然のように言われて、烏真は間の抜けた声を上げることしか出来なかった。
「詳しい説明が必要ですか?」
「いや……その……井戸に飛び込んだら難波ダンジョンまで飛んでいけるの?」
「その通りです。マスターがお眠りの間にこちらをお借りしました」
「いや、まぁ……井戸としての機能はとっくに死んでるからいいんだけどね……」
田舎の何も無い家の井戸が、知らない間に転移できる未知の装置へと改造されていた。
「ほ、ほんとに井戸の中に入ればいいの??」
「はい」
イエルが頷く。
原理が烏真が理解できるわけがないが、これまでもイエルの人智を超える力を何度も見せられてきた。そもそもダンジョンの外へ脱出したときも彼女が作った扉で地上に帰った。
「わかった」
疑うことなく、烏真は首を縦に振る。
そして飛び込もうとして――足を止めた。
「マスター?」
「……いや」
ポケットからスマホを取り出す。
時間は一刻も争う。すぐに難波ダンジョンへ向かう必要がある。そもそも帰って来られる保証なんてどこにもない。
でも、また裏切ってしまいそうになったから、
「ごめん、イエルちょっと待ってて」
すかさずスマホの通話履歴を開き、見慣れた名前をタップすれば呼び出し音は二回ですぐに繋がった。
『年寄りはもう寝てる時間なんやけど?』
祖母の声だった。いつも通りの声で、だから少しだけ安心する。
「出掛けてくるよ」
『今度は黙って出て行かないのは褒めたるわ』
「聞かないの?」
思わず苦笑する。
何も言わず、ただ出かけるなんて――しかもこんな時間にだ。もう夜遅く、日付も変わりそうだというのに何も聞かれないことが逆に怖い。
しかし烏真の問いに対して祖母は何も言わない。何処へ行くのかも。何をしに行くのも。聞けば止められるかもしれない――
でも、何も言わず出て行ってなんとか生きて帰ってこれたけど、次はどうなるかわからない。二回も祖母に黙って出て行くことだけは出来なかったから。
『帰って来るんよな?』
呆れることも、怒ることもなくただ静かに祖母は言う。それに対して烏真は空を見上げて、即答できずにいた。
もちろん帰る――だが絶対に、とは言い切れない。それだけ危険なところへ向かうのだから。それでも、
「帰るよ」
そう答えた。祖母は小さく鼻を鳴らした。
『じゃあ帰っておいでよ』
それだけだった。けれど、その一言だけで十分だった。
『ここがあんたの帰る場所なんやから』
胸の奥が少しだけ痛んだ。
余命宣告を受けて何も言わずに帰って来たことも、告げられた余命の半分の時間を何もせずに生きていたことも――挙句には何も言わずに難波ダンジョンへ向かったことも。
まだ何一つ祖母には話せていない……こうして生きていられるのはイエルと出会えただけだ。契約し、病の進行を止めてもらえているから。
どれだけ心配を掛けただろうか……それでも、祖母は優しく迎え入れてくれる。烏真の両親はこの世にいない。血は繋がっていない。本当の子ではない。それでも、
「絶対、帰って来るよ」
『それでええ』
それ以上は余計な会話は必要ないと言いたげに、乱暴に通話が切られてしまった。でも、これでいい。約束を交わした。生きて必ず帰って来る。それだけだ。
耳からスマホを離す。ほんの数十秒の会話だった。それでも不思議と肩の力が抜けた気がした。
「ごめん、行こうか」
「お気になさらず」
イエルは急かすつもりもなく、井戸の前に立ったまま。
「お手を、失礼します」
井戸に近づく烏真の手をイエルの小さな手が触れる。
もう一度、井戸を見下ろす。暗い穴のように何も見えない。普通ならこんなところ飛び込むような場所ではない。それでも迷いはなかった。
「いつでもどうぞ」
「わかった」
そして烏真は井戸の縁を蹴って、勢いよく井戸の底へと吸い込まれるように落下していく。闇が迫り、枯れた井戸には水などない。ただこのまま墜落していくだけだ。
しかし次の瞬間、井戸の底から白光が噴き上がった。それは地上に戻ったときと同じ光だった。
「……っ!!?」
全身が光に呑まれる。落下していくはずの身体がただ光の中へと吸い込まれて、景色が弾け飛ぶ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
視界を覆っていた白い光が消えて、烏真の足は硬い岩盤を踏みしめていた。無機質な岩壁にどこまでも続く通路。それは見覚えのある景色だった。
「とんでもないな……」
「難波ダンジョン上層、転移完了しました」
隣に立つイエルが淡々と答える。井戸へ飛び込んだと思ったら、もう到着していた。
「だれもいない……」
周囲に人影はいなかった。どんな時間であろうともダンジョンは《探索者》で賑わっているはずなのに今は異様なほどの静けさ。
誰もがあの配信に釘付けになっているのか、それとも深層に終焉級が現れたことで避難したのだろうか。
これから向かう場所は下層より更に奥底である深層だ。《探索者》のライセンスを持たない烏真は本来ならば上層より下へ潜ることは許されない。
「また……不法侵入になっちゃうけど」
罰されるのは生きて帰ってから考えればいい。
「それよりも……」
配信映像に目を向ければ緋尋がふたつの剣を振り続け、黒い百足の猛攻を直撃する寸前で弾き返している。だが少しずつ百の足が鞭のようにしなりながら緋尋を追い詰めていく。
このままでは、間に合わない――
「……急がないと」
「お待ちください」
そのまま烏真はすぐに走り出そうとしてイエルに袖を掴まれた。
「どうしたの?」
「もしやここから走っていかれるのですか?」
「わかってるよ、間に合わないことは……でも他に方法がないからね」
イエルは小さく首を傾げた。
「覚えていますか? ダンジョン内に限って私はマスターに必要な物資や設備を生成することができます」
その言葉で思い出す。
あの日、イエルと契約したとき彼女はモンスターを解体するためのナイフや、焼く際に肉を乗せる鉄板も――必要なものは即座に用意してくれた。
「このままでは間に合いません……ですので――」
イエルも状況は理解している。
そして両手を組んで祈りながら胸元の紋章が光れば、白い指先をゆっくりと床をなぞり円を描けば、それは青白い輝き出す。
幾何学模様にも見える光の輪と解読不明の文字列に謎の数式。烏真では何一つ処理するころのできない情報が高速で流れていた。
その全てが円の中央に集束する。何もなかったはずの空間から一台の機体が姿を現した。
「え? これ……バイク??」
しかしタイヤはない。車輪がついているはずの箇所から紫の光が溢れたまま数十センチは浮いている。
黒と紫を基調とした流線型の機体。金属より結晶のような滑らかな外装。エンジン音すら聞こえない。
「それに近いものです」
「バイクだねぇ……」
車輪こそないが形状はバイクの形をした乗り物だ。
「どうぞお乗りになってください」
言われるがままにまたがるが、浮いている状態の機体に烏真が乗っても不思議なことに重心は安定している。倒れる気配もまったくない。
「あの、俺……バイクの免許も持ってないけど……」
「バイクではないのでだいじょうぶです」
「そ、そういうものなのかな??」
「車輪がありませんので」
「あ、はい」
そもそもダンジョンの最奥にも無免許で潜ろうとしているのに何を今更。そして機体にまたがったままの烏真の後ろにふわりとイエルも乗り込んでいる。
「目的地まで最短経路――表示します」
機体の前方に青白い線が走り、進行方向を示してくれる。バイクではないとイエルがいうが乗り心地のいい、ハンドルはバイクそのものである。ハンドルをねじれば動くのはアクセルだろうか。
「マスターはハンドルを握ってくだされば結構です」
「はい?」
「自動操縦です。こちらで対応します」
烏真は覚悟を決めた。
なぜなら、イエルがそう呟いたと同時に機体は烏真の意思に関係なく動き出す。
そして探索者が使う通路ではなく、なにもない底の見えない深淵へと走行している。これのままでは進むというより落ちるといった方が正しい。
しかし烏真はイエルを信用し、ハンドルをしっかりと握ったまま速度を増す機体に身体を預けた。速度がさらに増している。
そして断崖が迫り――
一秒、
二秒、
三秒。
機体は減速することなく奈落へ飛び出した。身体はしっかりと機体に固定されたまま凄まじい重力が全身を掴み、容赦なく最奥へと引きずり込まれる。
風圧が悲鳴を上げている。岩壁が弾丸のような速度で上方へ流れていく。そのまま機体は底の見えない闇へと沈んでいく。もはやそれは飛んでいるのではなく墜ちていると、言うべきだろう。
「いや、これ……崖から落ちてるだけじゃ……」
「最短で深層へ行くにはこれがもっとも最適です」
「……誰も真似はできないけどね」
生身でこんなことをすれば死ぬだけだ。
しかしとてつもない速度で墜ちているにも関わらずイエルの声ははっきり聞こえている。
「配信の様子はどう?」
「かなり危険な状況です――《踏破者》一名、防戦しております。映像を、映しますか?」
「頼むよ」
両手のハンドルの中央の丸い結晶のような部分から配信が浮かび上がるように映し出される。
そこには傷だらけの緋尋が立っている。肩を貫かれて血に染まっている。双剣の片割れは折れて使い物にならない。
しかし百足の怪物はまるで遊んでいるかのようにゆっくりと全身の足を鞭のように伸ばしながら抵抗する緋尋を弄んでいるように見えた。
嬲るように、壊すように、少しずつ緋尋を追い詰めている。その姿を見るたびに胸が締めつけられる。
助けを呼ぶことすらせず、弱音を吐くこともなく、ただ守るためだけに剣を振る。
どれだけ傷ついても、配信を見ている者すら安心させようと笑顔を浮かべながら――自分よりはるかに若い女の子が、戦っている。
緋尋は守るために戦っている。
しかし、烏真は見逃さなかった。
声にならない声が……唇が、言葉を形成しているように見えた。
■■■■。
「くそっ……」
確かに速い。
上層の崖から下層めがけて墜落している。このまま深層まで一気に重力に逆らうことなく突き進めばいずれ到着できる。
それでも足りない気がした。映像の中で流れる一秒が恐ろしく長い。その一秒ごとに画面の向こうにいる緋尋が削られていくように見えた。
「イエルッ!!」
叫んだ。
「これが限界です」
映像の向こうにいる緋尋が膝をついていた。
限界のはずだ。それでも剣を杖にして立とうとしている。震える身体を叱咤するように勢いよく立ち上がり、けれどその身は血に濡れている。
「下層を越えます」
いまどこまで墜ちているのか烏真にはわからない。ただイエルの言葉を頼りに身を乗り出すような勢いで機体にまたがっている。
映り出される映像には、ついに態勢を崩して仰向けのまま倒れる緋尋を見下ろす終焉級の影が覆っている。
最悪の結末がすぐそこまで来ている。それでも烏真は目を逸らさなかった。ハンドルを持つ手に力がこもる。機体の速度は更に加速を増していく。
下層までただ落ちていくだけだった。
だが――
「到着地点まで……残り二十秒です」
ついに烏真の目にもそれは映った。前方に巨大な岩壁。まるで深層だけは隔離されたように、近づく者を拒むようにその先を隠しているようだった。
「壁の向こうが、終点です」
しかし、目的の場所はこの壁の向こう側。
「あの壁を突き破れるか!?」
「容易です」
イエルの両目が開き、白金の輝きを放てば――機体の前部が左右に展開された。その内部からは銀色に染まる一本の杭がせり出していた。
「突破します」
迫る壁。減速することなく限界まで加速し続ける機体。それでも烏真はハンドルを握り締めたまま前だけを見ている。
映像の向こうで完全に動かなくなった緋尋。
「接敵します……ご準備を――」
機体が壁に激突するその瞬間、銀の杭が射出される
理不尽を砕くかのように、雷鳴のような音が鳴り響いた。
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それでは次回もよろしくお願いします。




