監督官の過去
臨時委員会の開かれる朝、リュネには薄い霧が降りていた。水路の上に漂う白さは、都市の輪郭を曖昧にしている。けれど、役所へ向かうセラの足取りに迷いはなかった。
資料袋を抱え、ユリウスと並んで石橋を渡る。橋の下では、細い流れが濁った水を運んでいた。十年前なら、この流れさえ別の場所へ向けられていたのだろう。
委員会の部屋には、すでに数人の議員と書記官が集まっていた。中央の長机には、セラたちの提出した資料が並べられている。黒い金具、母の設計図、旧操作盤の位置を示す写し、そしてセラの証言記録。
議長が資料に目を通し、顔を上げた。
「水路監督官ユリウス。これは、十年前の事業に関する告発を含む資料だ。現市長府にも関わる可能性がある。慎重に扱う必要がある」
「承知しています」
「だが、君は当時の工事に関わっていない。なぜそこまで深入りする」
ユリウスはすぐには答えなかった。
セラは彼の横顔を見た。いつものように背筋は伸びている。けれど、握った手の指先が白くなっていた。
「関わっていない、とは言えません」
低い声が部屋に落ちた。
「十年前、私は父の補佐として、水路変更工事の現場にいました」
議員の一人が身を乗り出した。
「君の父親は、当時の水路監督官だったはずだ」
「はい」
ユリウスは机の上に視線を落とした。
「父は、南二区の旧水路を閉じ、新設された大水路へ流れを集める判断をしました。表向きの理由は、工事費の削減と、船舶の通行を安定させることでした」
「それが今回の浸水とどう関係する」
「旧水路を閉じれば、大雨のときに水を逃がす道がなくなる。私はその危険を知っていました」
部屋の空気が変わった。
ユリウスは続けた。
「現場で、廃水路を残すべきだと父に進言しました。しかし父は、設計変更は上からの命令だと言った。私は反対意見を記録に残すよう求めましたが、父は書類を作り直し、私には完成した計画を写すよう命じた」
「では、君は従ったのか」
「従いました」
その一言は、刃物のように短かった。
「私は若く、父の判断を疑いながらも、職を失うことを恐れた。変更後の図面に署名し、危険を示す記録を残さなかった。十年前の洪水で南二区が浸水したとき、私は父の責任だけを考えていました。けれど、現場にいた私も、その判断を止められなかった」
議員たちは互いの顔を見合わせた。
セラはユリウスを見つめていた。彼がこれまで水路の一つ一つを確かめ、記録の欠落に過敏なほどこだわっていた理由が、初めてつながった。
十年前の浸水。閉じられた廃水路。書き換えられた記録。
彼は都市を救うために動いているだけではなかった。自分が見過ごした過去に、何度も戻ろうとしていたのだ。
「ユリウス」
セラは小さく呼んだ。
彼は振り向かなかった。
「君は責任を認めるのか」
議長の問いに、ユリウスは答えた。
「認めます。私が命じたわけではない。しかし、見ていながら止めなかった。署名した。だから、私にも責任があります」
その声には、逃げ道を探す響きがなかった。
委員会は一度休憩に入った。人々が部屋を出ていく中、セラは窓辺に立つユリウスのそばへ歩いた。霧の向こうで、水路の水面が白く揺れている。
「どうして今まで話さなかったのですか」
「話せば、調査責任者としての資格を疑われると思った」
「疑われるのが怖かった?」
「怖かった。君にまで、私が父の罪を隠すために調べていると思われるのが」
ユリウスは窓枠に手を置いた。
「私は過去を正せない。浸水で失われた家も、暮らしも、戻せない。それなのに、何かを償っているつもりになっていたのかもしれない」
セラはすぐに慰めなかった。彼の罪悪感を、簡単な言葉で消すことはできないと思った。
「戻せないものはあります」
彼女は静かに言った。
「十年前に失われたものを、なかったことにはできません。あなたが責任を認めたからといって、被害を受けた人たちが許さなければならないわけでもありません」
ユリウスの顔がこわばる。
「では、私はどうすればいい」
「罪悪感を抱えたまま、一人で罰を受け続けるだけでは、流れは変わりません」
セラは机の上の資料袋を見た。
「あなたが知っていることを、記録に加えてください。父上が何を命じ、あなたが何を見て、どこで黙ったのか。誰かをかばうためではなく、これから同じ判断をさせないために」
「私自身の責任も、公にするということか」
「はい」
ユリウスは目を閉じた。しばらくして、ゆっくりとうなずく。
「君は厳しいな」
「記録は、都合のいいところだけを残すものではありません」
「そうだな」
彼は苦い笑みを浮かべた。
「君と出会ってから、私は何度も過去を突きつけられる」
「私もです。母が何を知っていたのか、なぜ記録を残せなかったのか。調べるほど、分からないことが増えました」
セラは資料袋から新しい紙を取り出した。
「二人とも、過去を消せないなら、せめて次の人が同じ場所で立ち止まらないようにするしかありません」
ユリウスは紙を受け取った。
彼は自分の記憶を書き始めた。工事が始まった日、父の机に置かれていた命令書、設計図から消えた分岐、洪水の夜に見た南二区の灯り。言葉を選ぶたび、筆が何度も止まった。それでも、書き直しては続けた。
午後、委員会が再開された。
ユリウスは自らの記録を提出し、十年前の判断について証言した。セラはその証言を受け取り、資料番号を付けた。二人の署名が同じ頁に並ぶ。
議長は重い表情で告げた。
「本委員会は、十年前の設計変更と、その後の記録改ざんについて、追加調査を開始する。提出資料は正式な調査文書として保管する」
部屋を出ると、霧は晴れ始めていた。薄い光が水路へ差し込み、濁った流れの底に石の形を浮かべている。
「これで償えたとは思いません」
ユリウスが言った。
「私も思いません」
セラは歩みを止めずに答えた。
「だから、続けましょう。記録を集めて、水路を直して、誰が何をしたのかを明らかにする。償いは、終わったと言うものではなく、続けるものです」
ユリウスは彼女の歩幅に合わせた。
「君となら、続けられるかもしれない」
「一人では続けさせません」
水路の向こうで、霧が完全にほどけていく。
その日、二人の調査資料には新たな頁が加わった。そこには、監督官の父の判断と、息子が黙って署名した事実が記されていた。
隠された記憶は、誰かを救うためだけに戻ってくるのではない。
過ちを過ちのまま残し、そこから別の道を選ぶために、紙の奥から姿を現すのだった。




