欠けた原本
委員会から戻った夕方、セラとユリウスは仮設事務所の机を挟んで向かい合っていた。
窓の外では、霧の名残が水路の上に細く漂っている。昼間に提出したユリウスの証言記録は、乾かしたインクの匂いを放ちながら、ほかの資料と重ねられていた。
その一番上に、母の設計図の写しがある。
図面の右端には、旧水路から南二区へ伸びる分岐が描かれていた。そこには後から貼り付けられた紙片があり、分岐を廃止する理由として「市長府の決定」とだけ記されている。
セラは紙片の端を見つめた。
「この書き方、母の筆跡ではありません」
「私の父のものでもない」
ユリウスは、委員会へ提出したばかりの自分の記憶を思い返すように言った。
「父は命令に従ったと言っていた。だが、誰の命令かは明かさなかった」
「市長府の決定なら、正式な命令書があるはずです」
「十年前の記録にはない」
「ないのではなく、消されたのかもしれません」
セラは設計図の下に敷かれていた薄い紙を取り出した。母の道具箱から見つかった、古い修復用の下敷きだった。表面には何度も紙を剥がした跡がある。縁の一部だけが不自然に厚く、爪を差し込むと、細い紙片が滑り出した。
そこには、かすれた文字が残っていた。
――変更指示、執行官補佐アルノー・ヴェルクを通じて伝達。
セラは息を止めた。
ヴェルク。現市長の側近として、今も市長府の財務と工事契約を一手に握っている男の名だった。
「アルノー・ヴェルク……」
ユリウスの声が低くなる。
「十年前は、まだ市長の秘書官だったはずだ」
「秘書官が水路の設計変更を命じたのですか」
「命じたというより、命じた人物の代理だった可能性がある」
ユリウスは立ち上がり、棚から古い契約台帳を取り出した。市長府から借り受けた資料の一部で、工事に使われた資材と支払い先が記されている。
彼は頁を繰り、ある箇所で指を止めた。
「ここを見てくれ」
南二区の水路工事に関する支払い欄だった。石材、木材、鉄具。それぞれの納入先の横に、確認印が並んでいる。だが、工事が変更された月だけ、支払い先が別の商会に変わっていた。
「この商会は?」
「ヴェルク家が出資している会社だ。当時は名前が違うが、代表者は同じ」
セラは台帳に残る数字を追った。
「旧水路を閉じるための費用が支払われています。それに、分岐を塞いだ石材の代金も」
「しかし、完成した工事の記録では、石材は使われていないことになっている」
「使われていないのではなく、別の名目に置き換えられた」
彼女は指先で行をなぞった。紙の表面に残るわずかな凹みが、削られた文字の形を伝えてくる。消された記録が、紙の繊維の奥でまだ消えずにいる。
集中すると、古い紙の向こうに断片的な像が浮かんだ。
暗い部屋。机の上の命令書。赤い蝋印。誰かの手が、設計図から分岐部分を切り取っている。
そして、低い声。
「市長には、利益の出る水路だけを残せと伝えろ」
セラは思わず机に手をついた。
「どうした」
「見えました。命令書の一部が……でも、顔までは分かりません」
「何が書いてあった」
「市長には、利益の出る水路だけを残せ、と」
ユリウスの表情が硬くなった。
そのとき、戸口の外で足音が止まった。
二人が振り向くと、見知らぬ若い書記官が立っていた。市長府の徽章を胸につけ、両手で封書を抱えている。
「水路監督官ユリウス殿。市長府より、資料の返却を求める通知です」
「調査は委員会の正式な許可を得ている」
「承知しています。ですが、貸し出された台帳には機密事項が含まれているとの判断です」
書記官は机の上の台帳へ視線を向けた。
セラは、その視線が台帳ではなく、下に隠された紙片を探していることに気づいた。
「返却期限は?」
ユリウスが尋ねる。
「明日の正午までに」
書記官は封書を置き、すぐに踵を返した。
扉が閉まると、事務所には水の流れる音だけが残った。
「急すぎます」
セラが言った。
「ああ。ヴェルクは、自分の名が出たことを知っている」
ユリウスは台帳を閉じた。しかし、表紙の角から何かが落ちた。
床に散ったのは、細長く切り取られた紙の断片だった。台帳の綴じ目に挟まっていたらしい。
セラはそれを拾い上げ、光にかざした。
紙片には、命令書の末尾だけが残っていた。
――承認者、市長代行エドガルド・リュネ。
その下に、本来あるはずの署名部分はきれいに欠けている。
「承認者は現市長の前任者です」
ユリウスが呟いた。
「なら、ヴェルクは命令を運んだだけではないかもしれません」
セラは欠けた部分を見つめた。紙の切断面は古いものではなかった。繊維がまだ白く、誰かが最近になって切り取った跡だった。
原本は、どこかにある。
そして、その一部を持つ者は、今も事件の証拠を消し続けている。
「市長府へ行きましょう」
ユリウスが言った。
「正面から?」
「正面からでは、原本を隠される」
彼は台帳を資料袋に戻し、封をした。
「今夜のうちに、別の場所を調べる。ヴェルクが十年前の命令書を保管しているなら、利益の流れを記した帳簿も近くにあるはずだ」
「危険です」
「分かっている」
ユリウスはセラを見た。
「それでも、ここで止まれば、また誰かが欠けた部分を利用する」
セラは紙片を資料袋に収めた。
「では、欠けた原本を探しましょう」
窓の外で、遠くの水門が低く鳴った。
その音は、閉じ込められた水が、まだ行き先を失ったまま待っているように聞こえた。




