声を集める聞き取り会
翌朝、仮設事務所の戸を開けると、まだ陽の昇りきらない水路沿いに、数人の人影が立っていた。
南二区のパン屋の女主人、荷運び人の老人、染物工房で働く若者。それぞれが濡れた外套を着込み、手には古びた帳面や布包みを抱えている。
「昨夜、あの役所の書記官が来たんだ」
パン屋の女主人が言った。
「水路のことを誰にも話すなって。けれど、話さなければ、また同じことになる」
セラは彼らを事務所の中へ招き入れた。ユリウスは驚いたように戸口を振り返ったが、すぐに机を片付け、椅子を並べた。
「何を知っているのですか」
「知っているというほどじゃない。ただ、見たことを話したい」
老人が帽子を膝に置いた。
「十年前、南二区の分岐を塞ぐ工事があった。だが、工事をしたのは昼間じゃない。夜明け前に、見慣れない荷車が何度も通った」
「荷車には何が積まれていましたか」
「石だ。旧水路の入口を埋めるための石。それと、役所の印が押された木箱」
セラは記録紙を広げた。
「工事の日付を覚えていますか」
「正確には分からん。ただ、三日続けて雨が降った後だった。水が引いた翌朝から始まった」
ユリウスが地図に印をつけた。
「その工事を監督していた人物は?」
「顔は見えなかった。だが、黒い手袋をした男がいた。職人たちはその男に頭を下げていたよ」
老人の声が震えた。
「わしは何も言わなかった。言えば、家の水路使用許可を取り消されると思った」
「あなたのせいではありません」
セラが静かに言うと、老人は顔を上げた。
「では、誰のせいだ」
「沈黙を強いた者の責任です」
その言葉は、部屋にいた全員の間へ落ちた。
やがて、染物工房の若者が布包みを開いた。中から、黒ずんだ木片が出てくる。木の表面には、半分だけ残った焼印があった。
「工房の裏で見つけました。昔の水路を塞いだ杭の一部です。印が何かの商会のものらしいと親方は言っていました」
ユリウスが木片を受け取り、焼印を見つめた。
「これはヴェルク家の出資商会が使っていた印に似ている」
「似ているだけでは証拠になりません」
セラが言うと、彼は頷いた。
「だが、証言と照合できる」
「そのために、もっと声が必要です」
セラは立ち上がった。
市長府へ乗り込めば、原本を隠される。そう考えていた。しかし、原本だけを追えば、記録を持たない人々の記憶は、また誰かの都合で切り捨てられる。
「今日、各地区で聞き取り会を開きましょう」
ユリウスが眉を上げた。
「役所の許可は?」
「ありません」
「市長府は、あなたを無断閲覧の罪で再び責めるかもしれない」
「閲覧ではなく、聞き取りです。人の記憶に許可証はいりません」
ユリウスはしばらく彼女を見た。それから、机の上の白紙を一束取り上げた。
「場所は?」
「市場の集会所。身分を問わず、名前を伏せた証言も受け付けます。話したくない人は、書くだけでもいい」
「記録の扱いは?」
「話した本人に読み聞かせ、間違いがないか確認してもらいます。証言は二部作り、一部を本人へ渡す。誰かが取り上げても、もう一部は残るように」
ユリウスの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「それなら、私も記録係を務めよう」
「監督官が?」
「今日は監督官ではなく、聞き取る者だ」
昼前には、集会所の戸口に長い列ができた。
最初に名乗ったのは、北一区の水運業者だった。数年前から水門の開閉時刻が変えられ、荷船が立ち往生するようになったこと。苦情を申し立てると、記録上は予定どおりだったと突き返されたこと。
次に、南二区の老女が語った。大雨の夜、家の床下から水が噴き出し、隣家の子どもを屋根へ逃がしたこと。その翌朝、役所の調査員が来て、「自然な浸水だった」と書かれた紙に指印を押すよう迫ったこと。
彼女は証言の最後に、震える手で言った。
「私は字が読めない。でも、あの日に何が起きたかは覚えている」
セラは彼女の言葉を一つも削らずに書いた。
途中、市長府の徽章をつけた男が集会所へ入ってきた。
「この会合は正式な調査ではない。記録を作る権限もないはずだ」
男が声を張ると、場内の空気が凍った。
ユリウスは椅子から立ち上がった。
「正式な調査の資料として採用するかどうかは、後の委員会が判断する。だが、市民が自分の経験を語ることまで禁じる権限は、あなたにも市長府にもない」
「水路監督官、職務を越えていますよ」
「越えているのは、浸水の被害を記録から消した者たちだ」
男は顔を赤くして去っていった。
その後も、人々は途切れなかった。
証言の中には互いに食い違うものもあった。水門が開いた時刻、荷車の数、工事を指示した声。それでも、いくつもの地区で同じ名前が出た。夜明け前に運ばれた石。書き換えられた水位。苦情を受け取らなかった役所の窓口。
セラは一枚ずつ証言を並べ、地図の上に小さな印を置いた。
点はばらばらに見えた。だが、線を引くと、すべてが旧水路の閉鎖地点と、ヴェルク家の商会が関わった工事現場へつながっていく。
「原本がなくても、ここまで示せる」
ユリウスが言った。
「原本がなくても、消されたことは消えません」
セラはそう答えた。
夕暮れ、最後の証言者が帰った後、集会所には紙の匂いと疲労だけが残った。
机の端に、一枚の匿名の紙が置かれていた。
――原本の一部は、旧記録院の地下保管庫にある。だが、鍵を持つ者はヴェルクの命令で交代した。
セラは紙を裏返した。裏面には、保管庫の扉に刻まれた番号が記されている。
ユリウスが低く息を吐いた。
「明日の正午までに台帳を返せと言われている」
「なら、今夜のうちに記録院へ」
「今度は、ひとりで行くな」
彼は集めた証言の束を抱えた。
「この声を守るためにも、必ず二人で行こう」
外では、夕闇の水路が静かに流れていた。
けれどその流れの底で、長く閉じ込められていた水が、少しずつ行き先を取り戻し始めていた。




