資格を奪われても
翌朝、記録院の正門には、見慣れない黒塗りの馬車が止まっていた。
セラとユリウスが近づくと、門番の横に立つ男が一枚の書状を掲げた。市長府の紋章が押されている。
「セラ・ミレイ。水路関連資料への閲覧資格、ならびに調査協力資格を本日付で停止する」
男は感情のない声で読み上げた。
「理由は、無許可の証言収集、記録院資料の不正利用、及び詐術による虚偽の証言誘導」
「詐術?」
ユリウスの声が低くなる。
「彼女は誰にも答えを教えていない。証言者の言葉を、そのまま記録しただけだ」
「判断はすでに下されています。監督官、あなたも職務上の権限を越えた場合、同様の処分を受けることになる」
男が差し出した書状を、セラは受け取らなかった。
「資格を奪えば、記録の内容まで消えると思っているのですか」
「あなたの読んだという“消された記憶”など、証明できない。紙の染みを見て幻を語る者に、調査の場は与えられない」
門番が目を伏せた。周囲にいた若い書記たちも、聞こえないふりをしている。
セラは胸の奥に冷たいものが沈むのを感じた。怒りではない。何度も味わってきた、信じてもらえない者の孤独だった。
だが、背後には昨日、声を届けた人々の顔があった。
水害の夜を覚えていた老女。焼印のついた木片を差し出した若者。長い沈黙の末に、自分の見たものを話した老人。
彼らの言葉を、今度こそ自分の沈黙で消すわけにはいかなかった。
「書状は受け取ります」
セラは男の手から紙を取り上げた。
「ただし、処分理由と命令者の名前を、証言記録の写しにも添えてください」
「何を言っている」
「あなたがたは、私の資格を奪う。その手続き自体を記録する必要があります。誰が、いつ、何を根拠に決めたのか。私にはもう閲覧資格がないのでしょう。でも、記録を作る権利まで奪われた覚えはありません」
男の顔がわずかに歪んだ。
ユリウスはセラの隣に立った。
「私が証人になる」
「監督官、これは警告です」
「なら、警告を記録しろ。私はセラ・ミレイの証言を、調査資料として扱う。彼女の能力を詐術と断定するなら、その根拠を公開の場で示してもらう」
「あなたの職を失いますよ」
「承知している」
迷いのない返事だった。
馬車の男は舌打ちし、書状の控えを門番へ投げ渡した。
「二人とも後悔することになる」
馬車が去ると、門前に残っていた人々の間からざわめきが起きた。
「本当に資格を奪われたのか」
「なら、もう何もできないじゃないか」
セラは振り返った。
「できることはあります。記録院の中へ入れなくなっただけです」
彼女は集めた証言の束を抱え直した。
「私が何を読んだかは、他の人にも確かめられます。読める紙を複数の人に見てもらい、同じ箇所を示せるか比べればいい。私だけにしか分からないと言われない形にします」
ユリウスが彼女を見る。
「公開実験にするつもりか」
「そうです。能力があると信じてほしいのではありません。信じなくても検証できる仕組みにします」
「場所が必要だ」
「市場の集会所を借りましょう。昨日の証言者たちに立ち会ってもらう。記録院の若い書記にも、来たい人は来てもらえばいい」
そのとき、門の内側から一人の少女が駆けてきた。まだ見習いの徽章しかつけていない書記だった。
「セラさん」
息を切らしながら、少女は小さな布包みを差し出した。
「これを。地下保管庫へ入る前に、昨日あなたが見つけた番号の棚から、写しを作っておきました」
ユリウスが包みを開くと、薄い紙片が数枚現れた。十年前の修繕命令書。その下部には、改ざんされた跡が残っている。
「見つかったのか」
「全部ではありません。元上司が今朝、保管庫の鍵を取り替えさせていました。でも、廃棄箱へ移される前に、これだけ抜き出しました」
少女は震えていた。
「私も資格を奪われますか」
セラは彼女の手を包んだ。
「奪われるかもしれません。でも、あなたが見たことを話すかどうかは、あなたが決めていい」
「……話します」
少女は顔を上げた。
「私も、書記です。見たものを記録するためにここへ来たのに、見なかったことにしろと言われるのは嫌です」
午後、集会所には昨日より多くの人が集まった。
セラは机の上に、何の説明もない紙片を三組並べた。一組には古い水位記録、二組には別の紙を重ねて作った模造品が混じっている。立会人には、どれがどれか知らせなかった。
「この紙の裏側に残った圧痕と、削られた繊維の違いを見ます。私の読み取りが正しいなら、書き換えられる前の文字が一部だけ同じ位置に浮かびます」
市長府から来た役人が笑った。
「また紙の染みですか。今度は観客を集めてごまかすつもりか」
「ごまかしなら、誰でも確かめられます」
セラは紙を順番に回した。
最初に水運業者が見た。次に若い書記が見た。最後に、昨日の老女が指で紙の凹凸をなぞった。
「ここに、三という字がある」
老女が言った。
「私にも見える。いや、読めなくても、へこんでいるのが分かる」
若い書記が紙を光に透かした。
「こちらも同じです。削られた文字の下に、別の筆圧が残っている」
一人、また一人と確認の声が上がる。
セラが最後の紙に触れたとき、冷たい水面のような感覚が指先へ広がった。消された文字が、かすかな輪郭となって浮かぶ。
「“南二区分岐、旧水路を閉鎖せず”」
彼女は読み上げた。
人々が息を呑む。
若い書記が急いで写し、別の者が声に出して復唱した。やがて、三組の紙を調べた全員が、同じ位置に残る文字を確認した。
役人だけが黙り込んでいた。
「これは能力の証明ではない」
セラは集まった人々へ告げた。
「私の読みを、紙と皆さんの目で確かめただけです。だから、私を信じなくてもいい。けれど、消された文字が存在したことまで、なかったことにはできません」
ユリウスが立ち上がった。
「この結果を、私は正式な証言として市長府と評議会へ提出する。もし受理されないなら、その拒否もまた記録する」
外では、集会所の戸口まで人があふれていた。
資格を奪われたセラの前に、今度は誰かの許可を待たず、証言を書き留めるための紙が次々と差し出された。
その夜、ユリウスは仮設事務所の灯りの下で言った。
「君から資格を奪ったつもりで、彼らは君を一人にしたかった」
「でも、一人ではなくなりました」
「ああ。もう、君の証言を守るのは私だけではない」
セラは机の上の紙片を見つめた。消された文字は、まだ完全には戻っていない。それでも、確かにそこにある。
彼女は筆を取り、処分書の余白へ一行を書き足した。
――資格を奪われても、見たものを記録する手は残る。




