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消された水路の記録係は、誠実な監督官と都市の明日を綴る  作者: 銀細工ナギ


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12/20

資格を奪われても

 翌朝、記録院の正門には、見慣れない黒塗りの馬車が止まっていた。


 セラとユリウスが近づくと、門番の横に立つ男が一枚の書状を掲げた。市長府の紋章が押されている。


「セラ・ミレイ。水路関連資料への閲覧資格、ならびに調査協力資格を本日付で停止する」


 男は感情のない声で読み上げた。


「理由は、無許可の証言収集、記録院資料の不正利用、及び詐術による虚偽の証言誘導」


「詐術?」


 ユリウスの声が低くなる。


「彼女は誰にも答えを教えていない。証言者の言葉を、そのまま記録しただけだ」


「判断はすでに下されています。監督官、あなたも職務上の権限を越えた場合、同様の処分を受けることになる」


 男が差し出した書状を、セラは受け取らなかった。


「資格を奪えば、記録の内容まで消えると思っているのですか」


「あなたの読んだという“消された記憶”など、証明できない。紙の染みを見て幻を語る者に、調査の場は与えられない」


 門番が目を伏せた。周囲にいた若い書記たちも、聞こえないふりをしている。


 セラは胸の奥に冷たいものが沈むのを感じた。怒りではない。何度も味わってきた、信じてもらえない者の孤独だった。


 だが、背後には昨日、声を届けた人々の顔があった。


 水害の夜を覚えていた老女。焼印のついた木片を差し出した若者。長い沈黙の末に、自分の見たものを話した老人。


 彼らの言葉を、今度こそ自分の沈黙で消すわけにはいかなかった。


「書状は受け取ります」


 セラは男の手から紙を取り上げた。


「ただし、処分理由と命令者の名前を、証言記録の写しにも添えてください」


「何を言っている」


「あなたがたは、私の資格を奪う。その手続き自体を記録する必要があります。誰が、いつ、何を根拠に決めたのか。私にはもう閲覧資格がないのでしょう。でも、記録を作る権利まで奪われた覚えはありません」


 男の顔がわずかに歪んだ。


 ユリウスはセラの隣に立った。


「私が証人になる」


「監督官、これは警告です」


「なら、警告を記録しろ。私はセラ・ミレイの証言を、調査資料として扱う。彼女の能力を詐術と断定するなら、その根拠を公開の場で示してもらう」


「あなたの職を失いますよ」


「承知している」


 迷いのない返事だった。


 馬車の男は舌打ちし、書状の控えを門番へ投げ渡した。


「二人とも後悔することになる」


 馬車が去ると、門前に残っていた人々の間からざわめきが起きた。


「本当に資格を奪われたのか」


「なら、もう何もできないじゃないか」


 セラは振り返った。


「できることはあります。記録院の中へ入れなくなっただけです」


 彼女は集めた証言の束を抱え直した。


「私が何を読んだかは、他の人にも確かめられます。読める紙を複数の人に見てもらい、同じ箇所を示せるか比べればいい。私だけにしか分からないと言われない形にします」


 ユリウスが彼女を見る。


「公開実験にするつもりか」


「そうです。能力があると信じてほしいのではありません。信じなくても検証できる仕組みにします」


「場所が必要だ」


「市場の集会所を借りましょう。昨日の証言者たちに立ち会ってもらう。記録院の若い書記にも、来たい人は来てもらえばいい」


 そのとき、門の内側から一人の少女が駆けてきた。まだ見習いの徽章しかつけていない書記だった。


「セラさん」


 息を切らしながら、少女は小さな布包みを差し出した。


「これを。地下保管庫へ入る前に、昨日あなたが見つけた番号の棚から、写しを作っておきました」


 ユリウスが包みを開くと、薄い紙片が数枚現れた。十年前の修繕命令書。その下部には、改ざんされた跡が残っている。


「見つかったのか」


「全部ではありません。元上司が今朝、保管庫の鍵を取り替えさせていました。でも、廃棄箱へ移される前に、これだけ抜き出しました」


 少女は震えていた。


「私も資格を奪われますか」


 セラは彼女の手を包んだ。


「奪われるかもしれません。でも、あなたが見たことを話すかどうかは、あなたが決めていい」


「……話します」


 少女は顔を上げた。


「私も、書記です。見たものを記録するためにここへ来たのに、見なかったことにしろと言われるのは嫌です」


 午後、集会所には昨日より多くの人が集まった。


 セラは机の上に、何の説明もない紙片を三組並べた。一組には古い水位記録、二組には別の紙を重ねて作った模造品が混じっている。立会人には、どれがどれか知らせなかった。


「この紙の裏側に残った圧痕と、削られた繊維の違いを見ます。私の読み取りが正しいなら、書き換えられる前の文字が一部だけ同じ位置に浮かびます」


 市長府から来た役人が笑った。


「また紙の染みですか。今度は観客を集めてごまかすつもりか」


「ごまかしなら、誰でも確かめられます」


 セラは紙を順番に回した。


 最初に水運業者が見た。次に若い書記が見た。最後に、昨日の老女が指で紙の凹凸をなぞった。


「ここに、三という字がある」


 老女が言った。


「私にも見える。いや、読めなくても、へこんでいるのが分かる」


 若い書記が紙を光に透かした。


「こちらも同じです。削られた文字の下に、別の筆圧が残っている」


 一人、また一人と確認の声が上がる。


 セラが最後の紙に触れたとき、冷たい水面のような感覚が指先へ広がった。消された文字が、かすかな輪郭となって浮かぶ。


「“南二区分岐、旧水路を閉鎖せず”」


 彼女は読み上げた。


 人々が息を呑む。


 若い書記が急いで写し、別の者が声に出して復唱した。やがて、三組の紙を調べた全員が、同じ位置に残る文字を確認した。


 役人だけが黙り込んでいた。


「これは能力の証明ではない」


 セラは集まった人々へ告げた。


「私の読みを、紙と皆さんの目で確かめただけです。だから、私を信じなくてもいい。けれど、消された文字が存在したことまで、なかったことにはできません」


 ユリウスが立ち上がった。


「この結果を、私は正式な証言として市長府と評議会へ提出する。もし受理されないなら、その拒否もまた記録する」


 外では、集会所の戸口まで人があふれていた。


 資格を奪われたセラの前に、今度は誰かの許可を待たず、証言を書き留めるための紙が次々と差し出された。


 その夜、ユリウスは仮設事務所の灯りの下で言った。


「君から資格を奪ったつもりで、彼らは君を一人にしたかった」


「でも、一人ではなくなりました」


「ああ。もう、君の証言を守るのは私だけではない」


 セラは机の上の紙片を見つめた。消された文字は、まだ完全には戻っていない。それでも、確かにそこにある。


 彼女は筆を取り、処分書の余白へ一行を書き足した。


 ――資格を奪われても、見たものを記録する手は残る。

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