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消された水路の記録係は、誠実な監督官と都市の明日を綴る  作者: 銀細工ナギ


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7/20

廃水路の暗闇

 翌朝、セラとユリウスは母の設計図を折り畳み、南二区の外れへ向かった。


 そこには、かつて染料職人たちが使っていた細い水路がある。十年前の記録では、旧排水路は西の貯水池へ通じ、さらに都市の外へ水を逃がすことになっていた。だが現在の地図では、南二区の地下で途切れている。


「入口はこの辺りのはずです」


 セラは設計図を片手に、崩れた石壁の前で足を止めた。壁の根元には雑草が生い茂り、古い鉄格子が半ば土に埋まっている。


 ユリウスが周囲を見回した。


「人の出入りがある」


 鉄格子の錆は深い。しかし、中央の錠だけが新しかった。表面には黒い油が塗られ、最近使われた跡が残っている。


 セラは布で錠を包んだ。触れた瞬間、指先に冷たい感覚が走った。


 夜。雨の音。誰かが鉄格子を開けている。肩に袋を担いだ男が、水路の中へ入っていく。男は振り返り、壁に白い印を描いた。


 映像はそこで途切れた。


「中へ入った者がいます」


「見えたのか」


「白い印が残されています。右の壁です」


 ユリウスが灯りを掲げると、暗い石壁に細い白線があった。普通に見れば、鳥の爪痕にも見えるほど小さい。だが、セラにはそれが水路管理者が使う旧式の合図だと分かった。


 流入口、危険なし。


「誰かが安全だと示したのなら、逆に危険だと思うべきだな」


「それでも進みますか」


「君は?」


「進みます」


 ユリウスはわずかに口元を緩めた。


「なら、私も進む」


 錠を外し、二人は廃水路へ入った。


 内部は人ひとりがようやく通れる幅だった。天井から垂れた根が肩に触れ、足元には浅い水が流れている。設計図に描かれた分岐を確かめながら進むと、現行図面にはない小さな横穴が現れた。


 横穴の入口には、白い印がもう一つある。


 セラがしゃがみ込み、土に埋もれた石をどけた。下から、木箱の角が現れた。蓋を開けると、中には砕けた封蝋と、濡れて読めなくなった札が入っていた。


「ここで何かを受け渡していたようです」


 ユリウスは箱を調べ、底に残った釘を指でなぞった。


「これは役所の荷箱に使われる釘だ。水路修繕用の資材を運ぶときのものだな」


「修繕の資材を、こんな場所で?」


「記録にない修繕なら、誰かが隠したかったということだ」


 そのとき、背後で大きな音がした。


 振り返ると、入口の鉄格子が落ちていた。続いて、石と土が崩れ、通路を塞いでいく。


「閉じ込められました」


 セラの声が狭い水路に響いた。


 ユリウスはすぐに崩れた場所へ向かった。石を動かそうとするが、上からさらに土が落ちてくる。


「無理に掘るな。天井が崩れる」


「では、どうします」


 ユリウスは設計図を広げた。灯りの揺れる中、細い赤線が横穴の先へ伸びている。


「この先に分水門がある。そこから別の排水路へ出られるかもしれない」


「図面が十年前のものです。今は塞がれている可能性があります」


「他に道はない」


 二人は奥へ進んだ。


 水は少しずつ深くなり、セラの膝まで届いた。冷たさが衣服を通して体へ染み込む。足元の石は滑りやすく、ユリウスが先に立って、杖で水底を探った。


 やがて水路は二つに分かれた。


 左は水の流れが強い。右はほとんど水が動いていない。


 ユリウスが左へ進もうとしたとき、セラは彼の袖をつかんだ。


「右です」


「流れのある方が出口ではないのか」


「右の水面には油膜があります。長く閉じられていた水路の油ではありません。最近、誰かがここを通っています」


 ユリウスは黙って彼女を見た。


「確信は?」


「ありません」


 セラは正直に答えた。


「でも、左の流れは地下深くへ落ちています。設計図では、そこに落差はありません。新しく掘られたか、破壊された可能性があります」


 ユリウスはしばらく水面を見つめた。そして、左へ向けていた灯りを右へ移した。


「右へ行こう」


「信じるのですか」


「君が見たものを、君が説明した理由ごと信じる」


 その言葉に、セラの胸が熱くなった。


 二人が右の水路へ入ると、すぐに足元の石が崩れた。ユリウスの身体が傾き、水へ沈みかける。セラは咄嗟に彼の腕をつかんだ。


 重かった。水の流れに引かれ、肩が外れそうになる。


「手を離せ、セラ!」


「嫌です!」


 彼女は壁に足を突っ張り、両手で腕を引いた。ユリウスも空いた手で水路の縁をつかむ。二人の間に張った綱のような緊張が走った。


 やがてユリウスの身体が石の上へ戻る。


 しばらく、どちらも動けなかった。


「今度は、私が君を引き上げる番だったな」


「番など決めなくていいでしょう」


「そうだな」


 ユリウスは濡れた髪を払い、息を整えた。


「一緒に出る。それだけでいい」


 その言葉が暗闇の中で、灯りよりも確かなものに感じられた。


 さらに進むと、行き止まりに錆びた金属板が立てかけられていた。セラが板をどけると、壁に小さな操作盤が現れた。三つのレバーのうち、中央だけが折れている。


「分水門です」


 彼女は設計図を照らし合わせた。


「左のレバーは市場側、右は西貯水池側。中央は外への排水路へつながっています」


「中央が折られているなら、排水路を使えないようにしたのか」


「はい。でも、機構そのものは残っています」


 セラは母の道具箱から骨製のへらを取り出した。へらの先を軸の隙間へ差し込み、固まった泥を少しずつ削る。ユリウスは灯りを近づけ、彼女の手元を照らした。


「無理をするな」


「母は、急いではいけないと言っていました」


「今もその教えに従うのか」


「こういうときほど」


 泥が剥がれ、古い歯車が姿を現した。セラは折れたレバーの根元に布を巻き、力を分散させる。ユリウスが設計図を見ながら、別の小さな弁を回した。


 低い唸りが水路の奥から響いた。


 止まっていた水が動き始める。壁の隙間から冷たい風が流れ込んできた。


「開いた!」


 その直後、背後から崩れる音が聞こえた。入口側の土砂が水圧に押され、濁った水が一気に流れ込んでくる。


「走れ!」


 二人は風の向かう方へ駆けた。水が腰まで迫り、灯りが消えそうになる。セラの足が石に取られたが、ユリウスが手を伸ばした。


 今度は迷わず、その手をつかんだ。


 暗闇の先に、薄い朝の光が見えた。


 最後の段差を上がると、二人は貯水池の外れに転がり出た。雨上がりの空が白く広がっている。セラは息を切らしながら、濡れた設計図を抱きしめた。


 ユリウスは水路の出口を振り返った。


「廃水路は、まだ生きている」


「塞がれていただけです」


「なら、塞いだ者がいる」


 セラは足元に落ちていた黒い金具を拾った。そこには、市長府の倉庫で使われる刻印が刻まれていた。


 設計図の線は、現実の地下で途切れていなかった。誰かが意図的に閉じ、都市の水を別の場所へ流していたのだ。


 ユリウスが隣に立った。


「戻って、記録にする」


「証拠を乾かし、写しを作ります」


「君が書いた記録を、私は正式な調査資料として提出する」


 セラは彼を見上げた。泥に汚れ、肩で息をしながら、それでも彼の目には揺るがない光があった。


「ユリウス」


「何だ」


「さっき、私を信じて右へ進みましたね」


「そうだ」


「もし、間違っていたら?」


「そのときは、別の道を探した」


 あまりに簡単に言うので、セラは思わず笑った。


「あなたは、いつもそうやって進むのですか」


「君が隣にいるなら」


 笑みが消え、二人の間に短い沈黙が落ちた。


 水路から流れ出た水が、朝の光を細く反射している。セラは手にした黒い金具を記録袋へ入れた。


 母の道具箱から始まった調査は、地下に隠された道へ続いていた。そして今、その道は二人を同じ場所へ運んでいる。


 セラは濡れた袖を絞り、立ち上がった。


「行きましょう。まだ、見つけなければならないものがあります」


 ユリウスも立ち上がる。


「分かった。今度は、どの道を選ぶ?」


 セラは設計図を開いた。


「水の流れが、隠された場所を教えてくれます」


 二人は朝の貯水池を離れ、都市へ戻る道を歩き始めた。背後で廃水路の水が、長い沈黙を破るように静かに流れていた。

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