廃水路の暗闇
翌朝、セラとユリウスは母の設計図を折り畳み、南二区の外れへ向かった。
そこには、かつて染料職人たちが使っていた細い水路がある。十年前の記録では、旧排水路は西の貯水池へ通じ、さらに都市の外へ水を逃がすことになっていた。だが現在の地図では、南二区の地下で途切れている。
「入口はこの辺りのはずです」
セラは設計図を片手に、崩れた石壁の前で足を止めた。壁の根元には雑草が生い茂り、古い鉄格子が半ば土に埋まっている。
ユリウスが周囲を見回した。
「人の出入りがある」
鉄格子の錆は深い。しかし、中央の錠だけが新しかった。表面には黒い油が塗られ、最近使われた跡が残っている。
セラは布で錠を包んだ。触れた瞬間、指先に冷たい感覚が走った。
夜。雨の音。誰かが鉄格子を開けている。肩に袋を担いだ男が、水路の中へ入っていく。男は振り返り、壁に白い印を描いた。
映像はそこで途切れた。
「中へ入った者がいます」
「見えたのか」
「白い印が残されています。右の壁です」
ユリウスが灯りを掲げると、暗い石壁に細い白線があった。普通に見れば、鳥の爪痕にも見えるほど小さい。だが、セラにはそれが水路管理者が使う旧式の合図だと分かった。
流入口、危険なし。
「誰かが安全だと示したのなら、逆に危険だと思うべきだな」
「それでも進みますか」
「君は?」
「進みます」
ユリウスはわずかに口元を緩めた。
「なら、私も進む」
錠を外し、二人は廃水路へ入った。
内部は人ひとりがようやく通れる幅だった。天井から垂れた根が肩に触れ、足元には浅い水が流れている。設計図に描かれた分岐を確かめながら進むと、現行図面にはない小さな横穴が現れた。
横穴の入口には、白い印がもう一つある。
セラがしゃがみ込み、土に埋もれた石をどけた。下から、木箱の角が現れた。蓋を開けると、中には砕けた封蝋と、濡れて読めなくなった札が入っていた。
「ここで何かを受け渡していたようです」
ユリウスは箱を調べ、底に残った釘を指でなぞった。
「これは役所の荷箱に使われる釘だ。水路修繕用の資材を運ぶときのものだな」
「修繕の資材を、こんな場所で?」
「記録にない修繕なら、誰かが隠したかったということだ」
そのとき、背後で大きな音がした。
振り返ると、入口の鉄格子が落ちていた。続いて、石と土が崩れ、通路を塞いでいく。
「閉じ込められました」
セラの声が狭い水路に響いた。
ユリウスはすぐに崩れた場所へ向かった。石を動かそうとするが、上からさらに土が落ちてくる。
「無理に掘るな。天井が崩れる」
「では、どうします」
ユリウスは設計図を広げた。灯りの揺れる中、細い赤線が横穴の先へ伸びている。
「この先に分水門がある。そこから別の排水路へ出られるかもしれない」
「図面が十年前のものです。今は塞がれている可能性があります」
「他に道はない」
二人は奥へ進んだ。
水は少しずつ深くなり、セラの膝まで届いた。冷たさが衣服を通して体へ染み込む。足元の石は滑りやすく、ユリウスが先に立って、杖で水底を探った。
やがて水路は二つに分かれた。
左は水の流れが強い。右はほとんど水が動いていない。
ユリウスが左へ進もうとしたとき、セラは彼の袖をつかんだ。
「右です」
「流れのある方が出口ではないのか」
「右の水面には油膜があります。長く閉じられていた水路の油ではありません。最近、誰かがここを通っています」
ユリウスは黙って彼女を見た。
「確信は?」
「ありません」
セラは正直に答えた。
「でも、左の流れは地下深くへ落ちています。設計図では、そこに落差はありません。新しく掘られたか、破壊された可能性があります」
ユリウスはしばらく水面を見つめた。そして、左へ向けていた灯りを右へ移した。
「右へ行こう」
「信じるのですか」
「君が見たものを、君が説明した理由ごと信じる」
その言葉に、セラの胸が熱くなった。
二人が右の水路へ入ると、すぐに足元の石が崩れた。ユリウスの身体が傾き、水へ沈みかける。セラは咄嗟に彼の腕をつかんだ。
重かった。水の流れに引かれ、肩が外れそうになる。
「手を離せ、セラ!」
「嫌です!」
彼女は壁に足を突っ張り、両手で腕を引いた。ユリウスも空いた手で水路の縁をつかむ。二人の間に張った綱のような緊張が走った。
やがてユリウスの身体が石の上へ戻る。
しばらく、どちらも動けなかった。
「今度は、私が君を引き上げる番だったな」
「番など決めなくていいでしょう」
「そうだな」
ユリウスは濡れた髪を払い、息を整えた。
「一緒に出る。それだけでいい」
その言葉が暗闇の中で、灯りよりも確かなものに感じられた。
さらに進むと、行き止まりに錆びた金属板が立てかけられていた。セラが板をどけると、壁に小さな操作盤が現れた。三つのレバーのうち、中央だけが折れている。
「分水門です」
彼女は設計図を照らし合わせた。
「左のレバーは市場側、右は西貯水池側。中央は外への排水路へつながっています」
「中央が折られているなら、排水路を使えないようにしたのか」
「はい。でも、機構そのものは残っています」
セラは母の道具箱から骨製のへらを取り出した。へらの先を軸の隙間へ差し込み、固まった泥を少しずつ削る。ユリウスは灯りを近づけ、彼女の手元を照らした。
「無理をするな」
「母は、急いではいけないと言っていました」
「今もその教えに従うのか」
「こういうときほど」
泥が剥がれ、古い歯車が姿を現した。セラは折れたレバーの根元に布を巻き、力を分散させる。ユリウスが設計図を見ながら、別の小さな弁を回した。
低い唸りが水路の奥から響いた。
止まっていた水が動き始める。壁の隙間から冷たい風が流れ込んできた。
「開いた!」
その直後、背後から崩れる音が聞こえた。入口側の土砂が水圧に押され、濁った水が一気に流れ込んでくる。
「走れ!」
二人は風の向かう方へ駆けた。水が腰まで迫り、灯りが消えそうになる。セラの足が石に取られたが、ユリウスが手を伸ばした。
今度は迷わず、その手をつかんだ。
暗闇の先に、薄い朝の光が見えた。
最後の段差を上がると、二人は貯水池の外れに転がり出た。雨上がりの空が白く広がっている。セラは息を切らしながら、濡れた設計図を抱きしめた。
ユリウスは水路の出口を振り返った。
「廃水路は、まだ生きている」
「塞がれていただけです」
「なら、塞いだ者がいる」
セラは足元に落ちていた黒い金具を拾った。そこには、市長府の倉庫で使われる刻印が刻まれていた。
設計図の線は、現実の地下で途切れていなかった。誰かが意図的に閉じ、都市の水を別の場所へ流していたのだ。
ユリウスが隣に立った。
「戻って、記録にする」
「証拠を乾かし、写しを作ります」
「君が書いた記録を、私は正式な調査資料として提出する」
セラは彼を見上げた。泥に汚れ、肩で息をしながら、それでも彼の目には揺るがない光があった。
「ユリウス」
「何だ」
「さっき、私を信じて右へ進みましたね」
「そうだ」
「もし、間違っていたら?」
「そのときは、別の道を探した」
あまりに簡単に言うので、セラは思わず笑った。
「あなたは、いつもそうやって進むのですか」
「君が隣にいるなら」
笑みが消え、二人の間に短い沈黙が落ちた。
水路から流れ出た水が、朝の光を細く反射している。セラは手にした黒い金具を記録袋へ入れた。
母の道具箱から始まった調査は、地下に隠された道へ続いていた。そして今、その道は二人を同じ場所へ運んでいる。
セラは濡れた袖を絞り、立ち上がった。
「行きましょう。まだ、見つけなければならないものがあります」
ユリウスも立ち上がる。
「分かった。今度は、どの道を選ぶ?」
セラは設計図を開いた。
「水の流れが、隠された場所を教えてくれます」
二人は朝の貯水池を離れ、都市へ戻る道を歩き始めた。背後で廃水路の水が、長い沈黙を破るように静かに流れていた。




