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消された水路の記録係は、誠実な監督官と都市の明日を綴る  作者: 銀細工ナギ


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6/20

母から受け継いだ道具

 市場の水が引いた翌日、セラは仮設事務所の机に、母の道具箱を置いた。


 黒ずんだ木箱だった。角は擦り減り、蓋の蝶番は片方が外れかけている。役所を追われそうになった日も、水路へ入った日も、セラはこの箱だけを手放さなかった。


 母が亡くなったのは、セラがまだ十歳のころだ。


 母は記録院の修復係だった。身分の低い女に任せられる仕事ではないと陰で言われながら、破れた地図や水に濡れた帳簿を直し続けた。いつも指先に糊の跡をつけ、夜遅くまで小さな灯りの下で紙を見ていた。


「紙は、隠されたことを忘れないのよ」


 それが、母の口癖だった。


 箱の中には、細い筆、骨製のへら、糊を伸ばす平たい板、乾燥させた海藻紙、古びた拡大鏡が収められている。どれも珍しいものではない。だが、母は道具を使う順番と力加減を、誰にも教えず、セラにだけ繰り返し見せた。


 紙を傷めないためには、急いではいけない。

 消された跡を探すときほど、見えている文字を疑う。

 そして、読めたものを自分だけのものにしてはいけない。


 セラは箱の底に指を入れた。木の板が、わずかに浮いている。


「隠し底か」


 背後からユリウスの声がした。


 彼は濡れた外套を椅子に掛け、机の上を覗き込んでいる。市場で見つかった黒い封蝋は、証拠袋に入れられ、棚の上に置かれていた。


「母が仕掛けたものだと思います。私も今まで気づきませんでした」


 骨製のへらを隙間へ差し込み、慎重に持ち上げる。板が外れると、その下から薄い布に包まれた巻物が現れた。


 布には、母の字で短い言葉が書かれていた。


 ――水の行き先を、誰にも決めさせてはいけない。


 セラの喉が詰まった。


「お母さんは、何かを知っていたのか」


「分かりません」


 布をほどくと、古い設計図が出てきた。十年前の水路図だった。現在使われている図面よりも細かく、地下の排水路や分水門の位置まで描かれている。


 ユリウスは図面の端に視線を止めた。


「この印は?」


 赤い線が、南二区から西側の貯水池へ伸びていた。途中でいくつもの分岐を通り、最後は都市の外へ流れる大きな水路に接続している。


 しかし、現在の図面にはその線がない。市場の旧排水路も、途中で途切れたことになっていた。


 セラは拡大鏡を取り出した。母の道具の中でも、最も古いものだった。縁に小さな傷が三つ並んでいる。母が修復作業の合図として使っていた印だ。


 図面の余白へ拡大鏡をかざす。


 何もないはずの紙に、灰色の線が浮かんだ。


 線は本来の水路に沿っていたが、途中で大きく曲げられ、貴族街の地下を通っている。そこには倉庫と私有地を示す印が重ねられていた。


 セラの指先が震えた。


「設計が変更されています」


「誰が、何のために」


「この線を追えば、水がどこへ流されるか分かります」


 セラは筆に薄い水を含ませ、図面の端を湿らせた。古い紙の表面がゆっくり柔らかくなる。上から貼られた新しい紙の繊維が浮き、下に隠されていた文字が少しずつ現れた。


 変更理由。

 ――西貯水池の水位調整、および沿岸倉庫の保全のため。


 その下に、承認者の名前があった。


 文字は途中で削られている。だが、最後に残った二画を見て、セラは息をのんだ。


「市長府の印です」


 ユリウスは黙っていた。


 沈黙の中で、セラは別のものを感じ取った。紙に触れた指先から、消された場面が流れ込んでくる。


 十年前の夜。母がこの図面を机に広げている。誰かが扉を叩き、低い声で警告している。


 ――それ以上調べれば、娘も安全ではない。


 母は怯えていた。けれど、図面を畳まず、赤い線の上に指を置いた。


 ――水は、弱い者の家だけを選んで流れるわけではない。


 次の瞬間、映像が途切れた。


 セラは机に手をついた。呼吸が乱れている。


「セラ」


「大丈夫です」


「顔色が悪い」


「母が、この図面を守っていた理由が分かりました」


 彼女は巻物を見つめた。母は真実を公にできなかった。脅され、監視され、あるいは誰にも信じてもらえなかったのかもしれない。それでも、未来の誰かが見つけられるように、道具箱の底へ残した。


 その誰かが、自分だった。


「これは正式な証拠になるか」


 ユリウスの問いに、セラはすぐには答えなかった。


「このままでは、改ざんされたものだと言われます。けれど、母の修復記録と、市場で見つかった閉塞の跡を照合すれば、設計変更の時期を特定できます」


「なら、照合しよう」


「市長府に知られます」


「すでに知られている。市場を守った時点で、我々が何を調べているかは伝わっているはずだ」


 ユリウスは図面の端を押さえた。


「君の母上が残したものを、君が引き継ぐ。私はその調査を正式な記録として扱う」


 セラは彼を見た。


「私の力も、ですか」


「力だけではない。観察し、確かめ、他人にも検証できる形にする君の仕事をだ」


 その言葉は、胸の奥に静かに沈んだ。


 セラは母の筆を手に取った。毛先はほとんど残っていない。それでも、紙へ触れれば、まだ線を引ける。


 新しい記録板を開き、日付を書いた。


 ――母の遺した水路設計図を発見。現行図面に存在しない分岐を確認。変更の背後に市長府の承認印あり。


 書き終えたあと、セラは少し迷い、最後に一行を加えた。


 ――この記録は、私が引き継ぐ。


 窓の外では、運河の水が灰色の空を映していた。


 流れは見えない地下にも続いている。塞がれ、曲げられ、誰かの都合で隠されても、水は行き先を失わない。


 母の道具箱を閉じたセラは、ユリウスと向き合った。


「次は、設計図の線が消された場所を探します」


「分かった」


 二人は古い図面を広げた。


 十年前に隠された水の道が、今、再び彼らの前に姿を現していた。

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