告発された修復師
三番水門から戻った翌朝、セラの机は封鎖されていた。
細い縄が机の脚に結ばれ、赤い蝋印が垂れている。印には記録院の紋章が押されていた。机の上には、見慣れない一枚の紙が置かれている。
無断閲覧および記録資料の持ち出し。
告発者の名を見た瞬間、セラの指先から血の気が引いた。
記録院で彼女の直属だった上司、オルデン主任。古文書の保管庫へ入る許可を与え、修復の仕事を割り振っていた男である。セラが何年も頭を下げてきた相手だった。
「私が資料を持ち出したというのですか」
向かいに立つ若い書記は、目を合わせようとしなかった。
「告発状には、そう書かれています。昨夜、保管庫の入退室簿を確認したところ、あなたの名で複数の閲覧記録がありました」
「私はユリウス監督官の調査に必要な資料を、記録院の規定に従って申請しました」
「申請書は残っていません」
「残っていない?」
セラは机の封印を見つめた。蝋の表面はまだ新しい。昨夜遅く、誰かがここへ来たのだ。
「閲覧した資料の一覧を見せてください」
「告発を受けている人間が、証拠を確認することはできません」
「では、私は何を弁明すればいいのです」
書記は唇を結んだ。その背後で、何人かの職員がひそひそと話している。視線は机の封印よりも、セラ自身に向けられていた。
そのとき、廊下の端からユリウスが現れた。
水路監督官の外套には、今朝の雨で細かな水滴がついている。彼は封鎖された机を見て、それから告発状へ目を移した。
「オルデン主任の署名か」
「はい。監督官には関係のないことです」
「関係がある。告発された閲覧のうち、少なくとも一部は私の調査依頼に基づくものだ」
書記は困ったように眉を下げた。
「しかし、正式な依頼書がなければ、記録院の規則に反します」
「依頼書は作成した。昨日、記録院の受付へ提出している」
「受付には届いていません」
「受け取った者の名は?」
書記は答えなかった。
ユリウスは告発状を取り上げた。紙の端を確かめ、封蝋の跡を指でなぞる。
「この告発状は、いつ作られた」
「昨夜です」
「昨夜の何時だ」
「それは……主任から提出された時刻までは記録していません」
「なら、なぜ閲覧簿の確認はできた?」
書記の顔が強張った。
ユリウスはセラを見た。
「君は昨日、保管庫へ入ったか」
「入りました。三番水門の修繕帳簿を確認するために。ただし、入室申請にはあなたの調査番号を書きました」
「調査番号は?」
セラは鞄から控えを出した。申請用紙の写しには、受付印が押されている。日付も時刻も、昨日の午前中だった。
ユリウスは書類を受け取り、封鎖された机の周囲を見回した。
「この受付印は、記録院の正式なものか」
「そうです」
書記が小さく答えた。
「では、申請書が消えた理由を調べる必要がある。セラを罪に問う前に、受付記録と保管庫の入退室簿を照合しよう」
「監督官が記録院の内部手続きに口を挟む権限はありません」
「水路修繕に関わる資料が対象なら、調査権限がある。まして、その資料に基づく証言が私の作成した公的記録に含まれている」
ユリウスの声は静かだった。だが、誰も言い返せないほど明確だった。
セラは彼の横顔を見た。三番水門で、彼は彼女の読み取りを証言として扱った。その判断が、今度は彼自身を記録院の前に立たせている。
「ユリウスさん。私のせいで、あなたまで問題にされます」
「君のせいではない」
「でも、私が資料を見なければ」
「見なければ、水門の危険も、帳簿の偽りも分からなかった」
彼は告発状を折らずに机へ戻した。
「調査は止めない」
その言葉に、セラの胸の奥で固く縮んでいたものが、わずかにほどけた。
二人はそのまま仮設事務所へ戻った。ユリウスはセラの申請書の写しと、三番水門の現場記録を机に並べた。
「この告発は、君が無断で資料を見たことにするためのものだ」
「私を黙らせるために?」
「それだけではない。君が確認した帳簿の存在そのものを、調査の外へ追い出すためだ」
セラは告発状を読み直した。そこには、閲覧した資料の名称が列挙されている。三番水門の修繕帳簿、南二区の浸水記録、過去五年分の業者支払記録。
いずれも彼女が調べたものだった。
しかし、一つだけ不自然な点がある。
「この一覧、私が見た順番と違います」
「どういうことだ」
「三番水門の帳簿は最初に閲覧しました。支払記録を見たのは、その後です。でも告発状では、支払記録が先になっている」
ユリウスは眉を寄せた。
「閲覧簿から写したなら、順番は一致するはずだ」
「つまり、閲覧簿を見た人は、実際の記録をそのまま写していない」
セラは紙の表面へ手を置いた。告発状の文字の下には、薄い凹みが残っている。別の紙を重ね、その上から強く書いた跡だった。
目を閉じる。
暗い部屋。机の上で開かれる閲覧簿。誰かの手が頁を押さえ、別の手が一覧を書き写している。背後には、記録院の印ではない黒い封蝋。聞こえた声は低く、苛立っていた。
――南二区の分だけでいい。監督官の名前が出る前に処理しろ。
セラは急いで手を離した。呼吸が乱れている。
「何が見えた」
「保管庫ではありません。主任の部屋に近い場所です。誰かが閲覧簿を見て、別の一覧を作っていた」
「それはオルデン主任か」
「顔までは分かりません。ただ、黒い封蝋がありました。記録院のものではない」
ユリウスは立ち上がり、窓の外を見た。役所の本館、その奥に記録院の塔が見える。
「告発は主任一人の判断ではない」
「なぜですか」
「オルデンは臆病な男だ。自分の立場を守るために部下を切ることはあっても、水路監督官の調査に正面から刃を向ける度胸はない」
「では、誰が」
「上にいる者だ」
雨が窓を細かく叩いていた。
ユリウスは机へ戻り、記録板を開いた。
「今から、告発状そのものを証拠として記録する。封蝋、紙、筆跡、閲覧資料の順番。君の証言も、根拠を分けて書く」
「また証言として扱ってくれるのですか」
「ああ。今度は、君を告発した記録の不自然さについてだ」
セラは筆を取った。手はまだ震えていたが、文字は崩れなかった。
自分の名を記す。その横に、ユリウスが立会人として署名する。
封じられた机の向こうで、誰かが彼女の手から記録を奪おうとしている。
ならば、奪われる前に残すしかない。
告発状の一枚が、役所の上層へ続く新たな流れを示していた。セラはその流れを、今度こそ見失わないように、紙の上へ一つずつ書き留めていった。




