帳簿と水門
翌朝、南二区には薄い霧が降りていた。
運河の水面は灰色に曇り、岸壁に繋がれた舟の影だけが、ゆっくりと揺れている。仮設事務所を出たセラは、革張りの鞄を胸に抱えていた。中には、昨夜ユリウスが選んだ三番水門の修繕帳簿と、彼女が作った調査記録の写しが入っている。
「現場へ行くのですね」
「ああ。帳簿に書かれた修繕が本当に行われたか、確かめる」
ユリウスは濃紺の外套を着ていた。水路監督官の徽章は、まだ新しい。だが、その下の革紐には泥がこびりついている。赴任してから、彼がどれほど水路を歩き回ったのか、セラは少しずつ知り始めていた。
「三番水門までは、歩いてどれくらいですか」
「水路沿いなら半刻。舟ならもっと早いが、今日は歩く」
「なぜです?」
「水門までの道も見たい。修繕資材が運ばれたなら、轍か荷車の跡が残っているかもしれない」
セラは頷いた。帳簿だけでなく、帳簿の外にあるものを見る。それがユリウスの調査だった。
二人は南二区の狭い通りを抜けた。朝の市場では、魚を並べる女たちが水を撒き、子どもたちが濡れた石畳を走っている。表面には穏やかな暮らしがあったが、建物の壁には水位の跡が幾重にも残っていた。低い家の戸口には、古い浸水線を示す白い印が刻まれている。
三番水門は、南二区の外れにあった。
運河と外堀をつなぐ石造りの水門で、二本の鉄扉が水の圧力を受けながら立っている。扉の周囲には苔が生え、操作用の鎖は赤錆びていた。
セラは水門を見上げた。
「帳簿では、去年の春に鉄扉の蝶番を交換しています」
「その三か月後には、石積みの補修。その翌年には操作軸の交換だ」
「ずいぶん頻繁ですね」
「金額も大きい」
ユリウスは帳簿を開いた。支出欄には、鉄材、石材、油、運搬費、人夫賃が細かく記されている。合計額は、南二区の小さな水門に使うには不自然なほど高かった。
彼は水門脇の階段を下り、鉄扉の前に立った。鎖を引くと、金属が軋んだ。扉は数寸動いただけで止まった。
「蝶番が交換されているなら、もっと滑らかに動くはずです」
セラが言うと、ユリウスは操作軸を調べた。表面の錆を削ると、その下から古い傷が現れた。
「交換された形跡がない」
「帳簿と違います」
「ああ」
ユリウスは腰を屈め、鉄扉と石壁の継ぎ目へ指を差し入れた。隙間から黒い水が滲み、細い流れとなって足元へ落ちている。
「石積みも直されていない。ひびの上に新しい漆喰を塗っただけだ」
セラは鞄から小さな鏡と刷毛を取り出した。表面の泥を払い、漆喰の縁を慎重に撫でる。乾いた白い層の下に、別の色の粉が混じっていた。
「これは石灰ではありません。砕いた瓦を混ぜています」
「補修用の材料ではないのか」
「仮止めに使うことはあります。でも、この厚さでは水圧に耐えません」
彼女は漆喰の端から薄い欠片を採った。欠片の中には、青い塗料の粒が混じっている。
「この色、帳簿に書かれた業者の印と同じです」
帳簿の末尾には、修繕を請け負った工房の印が押されていた。三つの波を描いた青い印。セラは昨夜、その印が別の支払い記録にも使われているのを見ていた。
「業者は仕事をした。ただし、水門を直したのではなく、直したように見せた」
ユリウスの声が硬くなる。
二人は水門の周辺を調べた。帳簿によれば、石材を二十車分運び込んだことになっている。しかし、脇の空き地に残っていたのは、古い石の破片がわずかに積まれているだけだった。荷車が通ったなら轍が残るはずの土は、草に覆われたままだ。
セラは水門の裏手へ回り、崩れかけた壁に手を触れた。紙ほど繊細ではない石でも、誰かが触れた跡は残る。新しい傷、古い削り跡、塗り重ねられた泥。目を閉じると、頭の奥に淡い像が浮かんだ。
濡れた石を運ぶ男たち。
荷車から下ろされたのは、石ではなく空の木箱。
水門の前で帳面を開き、青い印を押す手。
セラは目を開けた。胸の奥が冷えている。
「見えました」
ユリウスが振り返る。
「何が」
「ここで修繕をした人たちの動きです。石材の箱は運び込まれていない。木箱だけが積まれ、作業をしたように記録された」
「君の読み取りか」
「はい。ただの推測ではありません。壁に残った塗料と、帳簿の印が一致しています」
ユリウスはすぐには答えなかった。彼が迷っているのではなく、言葉を選んでいるのだとセラには分かった。
「セラ。今の判断を、正式な証言として記録していいか」
彼女は思わず顔を上げた。
「証言……ですか」
「現場で確認した事実と、君が資料から読み取った内容を分けて書く。読み取りについては、根拠になった紙片、印、材料も記載する」
「でも、私は役所の職員ではありません」
「それは関係ない。見た人間が、見たことを述べる。それを扱うかどうかは、後で判断される」
ユリウスは記録板を取り出し、立ったまま書き始めた。
「証言者、セラ・ノア。古文書修復および調査担当。三番水門において、帳簿に記載された蝶番、操作軸、石積みの交換・修繕が実施された形跡を確認できず。漆喰片より、請負業者の印と同色の塗料を検出。さらに、記録資料の修復過程において、資材搬入を装った作業の痕跡を読み取った」
ユリウスは筆を止めた。
「ここまででいいか」
セラは記録板を見つめた。そこには、彼女の名前が書かれている。仮設事務所の記録簿に残した名前とは違い、今回は誰かの判断を支えるための言葉として記されていた。
「一つ、加えてください」
「何を」
「私が読み取った内容は、単独で証明できるものではないこと。ただし、現場の物証と帳簿の差異を合わせれば、検証の対象になること」
ユリウスは頷き、その通りに書き加えた。
「君は自分の力を、証拠そのものにしようとはしないのだな」
「力だけを信じてもらうつもりはありません。紙が何を隠していても、最後は誰かが確かめなければならないから」
「その考え方は正しい」
短い言葉だった。しかしセラの胸には、長い称賛より深く届いた。
そのとき、水門の向こうで鈍い音がした。
鉄扉が水圧に押され、わずかに歪んだのだ。隙間から流れ出す水が、先ほどより強くなっている。
「このままでは、次の雨で持たない」
ユリウスが鎖を握る。
「仮設の支柱を入れる必要がある。午後までに職人を呼ぶ」
「記録には、危険の程度も書くべきです」
「もちろんだ」
彼は新しい頁を開いた。
霧の向こうで、南二区の屋根が連なっている。どの家にも、人の暮らしがあり、守るべき明日がある。
セラは水門のひびを見つめた。
帳簿の中では、修繕は終わっていた。だが現実の水門は、十年分の嘘を抱えたまま、今にも崩れようとしている。
ユリウスが記録を書き終え、彼女に筆を差し出した。
「確認してくれ」
セラは頁を読み、最後に自分の名を書いた。
セラ・ノア、証言者。
その文字の下に、ユリウスが立会人として署名する。
二人の署名が並んだとき、水門の奥で再び鉄が鳴った。
帳簿と現場の違いは、もう疑いではない。
濁った水の向こうに、隠されていた流れが姿を現し始めていた。




