仮設事務所の記録係
仮設事務所は、南二区の外れにある古い荷揚げ場の上に建てられていた。
水路監督官の赴任に合わせて急ごしらえされた建物で、壁板の隙間から風が入り、床は歩くたびに低く軋んだ。窓から見えるのは、濁った運河と、雨に濡れた倉庫の屋根ばかりだった。
セラは朝から、運び込まれた古文書の山と向き合っていた。
「記録院から、これだけ持ち出せたのですか」
「持ち出したのではない。監督官の権限で正式に借りた」
ユリウスは机の脇に立ち、革の手袋を外した。背後には、濡れた箱が六つ積まれている。洪水記録、水門の開閉簿、修繕費の帳簿、各地区の排水報告。いずれも十年近く前から現在までのものだった。
「バルト主任は、ずいぶん素直に渡してくれましたね」
「素直ではない。渡したのは写しだけだ」
ユリウスは箱の蓋を開けた。
「原本は記録院に残してある。だが、写しでも削除や差し替えの痕跡は調べられる」
セラは一冊目の帳簿を開いた。紙は黄ばんでいたが、保存状態は悪くない。ところどころに新しい糊の跡があり、破れた頁をつなぎ合わせたように見える。
「この帳簿、綴じ直されています」
「いつのものか分かるか」
「糸が新しい。三年以内です。ただ、古い紙に合わせて糸を染めています」
ユリウスは眉を上げた。
「そこまで分かるのか」
「紙は、使われた時間を隠せません」
セラは答えながら、帳簿の背をそっと撫でた。母から教わった修復の手順を思い出す。表紙を外し、糊の種類を確かめ、頁の端を一枚ずつ透かす。文字を読む前に、記録がどのように扱われたかを読むのだ。
最初の帳簿には、水門の点検日と担当者の名前が並んでいた。三番水門の欄だけ、毎年同じような空白がある。日付は記されているのに、作業内容が書かれていない。さらに次の年には、その空白を覆うように「異常なし」という短い言葉が加えられていた。
「三番水門だけです」
「何が」
「修繕内容の記載がないのが。ほかの水門には、部品の交換や石積みの補修まで書かれています」
セラは複数の帳簿を並べた。地区ごとの報告を見比べると、同じ種類の違和感が浮かび上がってくる。
南二区の排水路は、十年前から毎年修繕されたことになっていた。費用も支払われ、担当した職人の名前も残っている。しかし、修繕の範囲を示す図面だけがない。
「南二区だけ、図面が抜けています」
「洪水が多い地区だから、記録が失われた可能性は?」
「なら、被害報告のほうも欠けるはずです」
セラは別の束を引き寄せた。
「でも被害報告は、南二区だけ細かい。浸水した家の数、倉庫の損害、避難者の人数まで書かれています。細かく残す必要があったのに、原因に関する部分だけが曖昧です」
ユリウスは帳簿を覗き込んだ。肩が触れそうな距離だったが、セラは気にしないようにした。紙の上に集中しようとするほど、隣にいる人の体温がはっきりする。
「この十年で、南二区に関する記録だけ何度も手を入れられている」
「はい。しかも、同じ筆跡ではありません。最初に書いた人、後から訂正した人、さらにその訂正を隠そうとした人がいる」
「つまり、誰か一人の気まぐれではない」
ユリウスの声が低くなる。
「仕組みとして続いている」
セラは返事の代わりに、古い報告書の端へ薄い油を塗った。表面からは何も見えなかったが、紙の繊維が湿ると、消された文字が淡く浮かんだ。
南二区排水路、予定変更。資材は議員街側へ回す。
その下には、別の文字が重ねられている。
承認者――。
名前の途中で、頁の一部が切り取られていた。
「議員街側へ資材が回された?」
ユリウスが身を乗り出す。
「そう読めます。ただ、いつの変更かは分かりません」
「日付は」
「ここです」
セラは報告書の右上を指した。そこには十年前の日付がある。前日に大雨が降り、南二区で最初の大規模な浸水が起きた日だった。
ユリウスはしばらく無言で紙を見ていた。
「十年前から、南二区の排水路は直されていなかった」
「修繕費だけが、別の場所へ流れていたのかもしれません」
「議員街へ」
その言葉を口にしたとき、外で舟の櫂が水面を叩いた。風が窓を揺らし、机の上の紙片が一枚、床へ落ちる。
セラは拾おうとして、紙の裏に貼り付いた薄い紙片に気づいた。
「待ってください」
彼女は紙片を剥がさず、そのまま光にかざした。裏側には、数字の列が透けて見える。修繕費の金額と、いくつかの地区名だった。
南二区、南二区、南二区。
同じ地名が、年度の違う帳簿の中で何度も現れている。支出先は違うのに、申請番号が連続していた。
「集中しています」
「何が?」
「改ざんされた跡です。南二区の記録にだけ、削除、貼り替え、綴じ直しが繰り返されている。ほかの地区にも訂正はありますが、こんなに重なっていません」
セラは机いっぱいに帳簿を広げた。
「浸水の原因が南二区にあるのではなく、誰かが南二区を原因に見せようとしている」
ユリウスの目が、初めて明確な怒りを帯びた。
「被害を受けた地区に罪を着せ、修繕しなかった事実を隠した」
「そして、旧水路を開けば議員街が浸かる」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。
やがてユリウスは、机の端に置かれた空白の記録簿をセラの前へ押し出した。
「ここに書いてくれ」
「何をですか」
「今日分かったことを。日付と、見た資料の名前。それから、君がどう判断したかも」
セラは筆を取った。
「私の判断を、記録に残すのですか」
「当然だ」
「私は正式な書記官ではありません」
「だからこそ、誰が何を見て、どう考えたかを残す必要がある」
ユリウスは窓の外を見た。
「消された記録を追うなら、私たち自身の記録まで消されないようにしなければならない」
セラは新しい頁に日付を書いた。筆先が紙を滑る。
水路監督官ユリウス・アルヴェン立会いのもと、古文書の修復調査を開始。南二区に関する改ざん痕跡が、複数年度の記録に集中している。
そこまで書いて、セラは一度筆を止めた。
「調査員、と書いてもいいでしょうか」
ユリウスは振り返った。
「君がそう望むなら」
セラは小さく息を吸った。
記録簿の最初の頁に、自分の名前を書き加える。
セラ・ノア。古文書修復および調査担当。
その文字は、誰かに許された肩書きではなかった。彼女自身が、紙の上に残すと決めた名前だった。
外では雲が切れ、運河に細い光が差している。
しかし、南二区の水は濁ったままだった。底に沈んだものが、まだいくつもある。
セラは次の箱へ手を伸ばした。
「三番水門の現場記録を探します」
「分かった。私は修繕費の支払い先を洗う」
「ユリウス」
「何だ」
「この帳簿を見た人は、ほかにもいるはずです」
セラは削り跡の残る頁を見つめた。
「記録を消すには、記録の場所を知っていなければならない」
ユリウスは静かにうなずいた。
「なら、まず誰が知っていたのかを調べよう」
仮設事務所の小さな机で、二人は別々の紙に向かった。
水路の流れを変えた者の名は、まだ見えない。
だが、改ざんの跡は一つの地区へ向かって、確かに集まり始めていた。




