共同調査員の約束
公開実験から三日後、評議会書記局から一通の通知が届いた。
セラは封を切る前から、紙の硬さで内容を察していた。正式な審査の日程か、あるいは資格剥奪を確定するための呼び出しだ。
「読むのが怖いなら、私が開けよう」
机の向かいで、ユリウスが言った。
「いいえ。読むのは私の仕事です」
セラは封を切った。
評議会への出席を命じる文面。その末尾には、調査資格の再審査を行うとある。証言者としてユリウスの名も記されていたが、彼の立場については「監督官としての見解を求める」とだけ書かれていた。
「彼らは、私をまだ調査員として扱っていません」
「だからこそ、こちらから呼び方を決める」
ユリウスは通知を裏返し、空白の部分を指で叩いた。
「公開実験の記録には、立会人が署名している。君の読みが正しいかどうかだけでなく、どのような手順で判断したかも残っている。評議会はそれを無視できない」
「無視する理由を作るでしょう」
「なら、理由まで記録させる」
彼の声には、以前のような一人で背負う硬さがなかった。多くの人が書類を持ち、証言を申し出ている。セラの隣には、もう彼一人だけではない。
それでも、評議会の扉の向こうへ行くことを考えると、胸の奥が冷えた。
その日の午後、仮設事務所には記録院の若い書記たちが集まった。彼らは公開実験で使った様式を清書し、立会人の名簿と照合記録を束ねていた。
「ここに、セラさんの肩書きをどう書けばいいでしょう」
一番年若い書記が尋ねた。
「記録修復係では?」
「資格を剥奪された、と通知にはあります」
「では、名前だけで構いません」
セラが答えると、別の書記が顔を上げた。
「名前だけでは、誰が責任を負ったのか分かりません。読み取りをした人として、署名を残すべきです」
セラはその言葉に、少しだけ驚いた。
これまで記録の片隅に名前を書くとき、彼女は自分の存在を隠すように小さく署名していた。見つかれば責められる。間違えば笑われる。だから、仕事だけが残ればいいと思っていた。
だが、仕事には必ず手がある。手があるなら、判断した人間もいる。責任を引き受ける名前がなければ、誰かが都合よく記録を書き換えられる。
「……セラ、と書いてください」
彼女は言った。
「修復担当、読み取り担当、立会人。私が行ったことを、行ったままに」
書記は力強く頷いた。
夕方、ユリウスは新しい書類を一枚持ってきた。
「これは何ですか」
「提案書だ」
セラが目を通すと、そこには公開実験で用いた調査方法と、彼女の役割について簡潔に記されていた。最後の欄には、共同調査員の任命を評議会に求める、とある。
「共同調査員?」
「君と私の、正式な肩書きだ」
「私は役所の職員ではありません」
「だから、役所の都合で消されない形にする。身分や所属ではなく、二人が同じ資料を調べ、同じ記録に署名することを根拠にしたい」
セラは書類から顔を上げた。
「あなたは、水路監督官です。私とは立場が違う」
「立場が違うから、君の判断を私の補佐として扱うつもりはない」
ユリウスはまっすぐに彼女を見た。
「君は君の判断で調べ、私は私の判断で調べる。その結果を突き合わせ、二人の名で報告する。共同調査員になってほしい」
部屋の外で、水路を行き交う舟の音がした。遠くで誰かが笑い、紙をめくる音が続いている。
セラは書類に触れた。乾いた紙の向こうから、書かれたばかりの意思が伝わってくる。命令でも、同情でもない。彼が考え、迷い、それでも差し出した言葉だった。
「これは、評議会に出すためだけの提案ですか」
「違う」
ユリウスは一度、視線を落とした。
「この調査が終わっても、君と仕事を続けたい。水路の記録を直すだけではない。記録を残す仕組みそのものを変えたい。君となら、それができると思っている」
セラの指が、書類の端で止まった。
彼の隣にいると、自分の判断を何度も問い直せる。危険なときには背中を預けられる。間違えたときには、隠さず訂正できる。そして、何かを見つけたとき、最初に伝えたいと思う。
それは仕事への信頼だけではなかった。
彼の隣にいたい。
その思いを認めた瞬間、胸の奥に張りつめていた糸が、静かにほどけた。
「分かりました」
セラは提案書を机の中央へ戻した。
「共同調査員になります」
ユリウスの表情がわずかに緩んだ。
「引き受けてくれるか」
「条件があります」
「何でも言ってくれ」
「私の名前を、あなたの下に置かないこと。順番が必要なら、毎回変えてください」
「もちろんだ」
「それから、調査の判断で意見が分かれたら、相手の身分ではなく証拠で争うこと」
「約束する」
セラは羽根ペンを取り、提案書の末尾に署名した。
ユリウスもその隣に名を書いた。二つの署名は同じ高さに並んだ。
その夜、二人は評議会へ提出する資料を整理した。浸水記録、修繕費の帳簿、廃水路の設計図、公開実験の記録。紙の束を時系列に並べるたび、消されていた出来事が一つの流れになっていく。
最後の頁を閉じたとき、ユリウスが言った。
「これで、明日からは君を共同調査員と呼べる」
「評議会が認めなければ、ただの願いでしょう」
「なら、認めさせよう」
セラは彼を見た。
「二人で?」
「二人で」
短い約束だった。
けれど、その言葉は紙の上ではなく、二人の間に残った。消そうとしても消えないように、確かな声として。
窓の外では、水路の灯りが夜の流れに揺れていた。セラはその光を見ながら、自分の名前の隣に並んだ署名へ手を置いた。
明日、評議会の扉を開く。
もう、誰かの後ろに隠れるためではない。自分の判断と、隣に立つ人の判断を、同じ場所へ届けるために。




