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消された水路の記録係は、誠実な監督官と都市の明日を綴る  作者: 銀細工ナギ


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14/20

共同調査員の約束

 公開実験から三日後、評議会書記局から一通の通知が届いた。


 セラは封を切る前から、紙の硬さで内容を察していた。正式な審査の日程か、あるいは資格剥奪を確定するための呼び出しだ。


「読むのが怖いなら、私が開けよう」


 机の向かいで、ユリウスが言った。


「いいえ。読むのは私の仕事です」


 セラは封を切った。


 評議会への出席を命じる文面。その末尾には、調査資格の再審査を行うとある。証言者としてユリウスの名も記されていたが、彼の立場については「監督官としての見解を求める」とだけ書かれていた。


「彼らは、私をまだ調査員として扱っていません」


「だからこそ、こちらから呼び方を決める」


 ユリウスは通知を裏返し、空白の部分を指で叩いた。


「公開実験の記録には、立会人が署名している。君の読みが正しいかどうかだけでなく、どのような手順で判断したかも残っている。評議会はそれを無視できない」


「無視する理由を作るでしょう」


「なら、理由まで記録させる」


 彼の声には、以前のような一人で背負う硬さがなかった。多くの人が書類を持ち、証言を申し出ている。セラの隣には、もう彼一人だけではない。


 それでも、評議会の扉の向こうへ行くことを考えると、胸の奥が冷えた。


 その日の午後、仮設事務所には記録院の若い書記たちが集まった。彼らは公開実験で使った様式を清書し、立会人の名簿と照合記録を束ねていた。


「ここに、セラさんの肩書きをどう書けばいいでしょう」


 一番年若い書記が尋ねた。


「記録修復係では?」


「資格を剥奪された、と通知にはあります」


「では、名前だけで構いません」


 セラが答えると、別の書記が顔を上げた。


「名前だけでは、誰が責任を負ったのか分かりません。読み取りをした人として、署名を残すべきです」


 セラはその言葉に、少しだけ驚いた。


 これまで記録の片隅に名前を書くとき、彼女は自分の存在を隠すように小さく署名していた。見つかれば責められる。間違えば笑われる。だから、仕事だけが残ればいいと思っていた。


 だが、仕事には必ず手がある。手があるなら、判断した人間もいる。責任を引き受ける名前がなければ、誰かが都合よく記録を書き換えられる。


「……セラ、と書いてください」


 彼女は言った。


「修復担当、読み取り担当、立会人。私が行ったことを、行ったままに」


 書記は力強く頷いた。


 夕方、ユリウスは新しい書類を一枚持ってきた。


「これは何ですか」


「提案書だ」


 セラが目を通すと、そこには公開実験で用いた調査方法と、彼女の役割について簡潔に記されていた。最後の欄には、共同調査員の任命を評議会に求める、とある。


「共同調査員?」


「君と私の、正式な肩書きだ」


「私は役所の職員ではありません」


「だから、役所の都合で消されない形にする。身分や所属ではなく、二人が同じ資料を調べ、同じ記録に署名することを根拠にしたい」


 セラは書類から顔を上げた。


「あなたは、水路監督官です。私とは立場が違う」


「立場が違うから、君の判断を私の補佐として扱うつもりはない」


 ユリウスはまっすぐに彼女を見た。


「君は君の判断で調べ、私は私の判断で調べる。その結果を突き合わせ、二人の名で報告する。共同調査員になってほしい」


 部屋の外で、水路を行き交う舟の音がした。遠くで誰かが笑い、紙をめくる音が続いている。


 セラは書類に触れた。乾いた紙の向こうから、書かれたばかりの意思が伝わってくる。命令でも、同情でもない。彼が考え、迷い、それでも差し出した言葉だった。


「これは、評議会に出すためだけの提案ですか」


「違う」


 ユリウスは一度、視線を落とした。


「この調査が終わっても、君と仕事を続けたい。水路の記録を直すだけではない。記録を残す仕組みそのものを変えたい。君となら、それができると思っている」


 セラの指が、書類の端で止まった。


 彼の隣にいると、自分の判断を何度も問い直せる。危険なときには背中を預けられる。間違えたときには、隠さず訂正できる。そして、何かを見つけたとき、最初に伝えたいと思う。


 それは仕事への信頼だけではなかった。


 彼の隣にいたい。


 その思いを認めた瞬間、胸の奥に張りつめていた糸が、静かにほどけた。


「分かりました」


 セラは提案書を机の中央へ戻した。


「共同調査員になります」


 ユリウスの表情がわずかに緩んだ。


「引き受けてくれるか」


「条件があります」


「何でも言ってくれ」


「私の名前を、あなたの下に置かないこと。順番が必要なら、毎回変えてください」


「もちろんだ」


「それから、調査の判断で意見が分かれたら、相手の身分ではなく証拠で争うこと」


「約束する」


 セラは羽根ペンを取り、提案書の末尾に署名した。


 ユリウスもその隣に名を書いた。二つの署名は同じ高さに並んだ。


 その夜、二人は評議会へ提出する資料を整理した。浸水記録、修繕費の帳簿、廃水路の設計図、公開実験の記録。紙の束を時系列に並べるたび、消されていた出来事が一つの流れになっていく。


 最後の頁を閉じたとき、ユリウスが言った。


「これで、明日からは君を共同調査員と呼べる」


「評議会が認めなければ、ただの願いでしょう」


「なら、認めさせよう」


 セラは彼を見た。


「二人で?」


「二人で」


 短い約束だった。


 けれど、その言葉は紙の上ではなく、二人の間に残った。消そうとしても消えないように、確かな声として。


 窓の外では、水路の灯りが夜の流れに揺れていた。セラはその光を見ながら、自分の名前の隣に並んだ署名へ手を置いた。


 明日、評議会の扉を開く。


 もう、誰かの後ろに隠れるためではない。自分の判断と、隣に立つ人の判断を、同じ場所へ届けるために。

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