大雨の夜の水門
雨は、夕暮れが来る前から降り始めていた。
水路の水面を叩く雨粒は、日が沈むころには白い幕になり、向こう岸の建物さえぼやけさせていた。仮設事務所の窓を閉めても、湿った冷気が隙間から入り込んでくる。
セラは、机の上に広げた水路図から顔を上げた。
「この雨なら、上流の水位は三刻もすれば危険域に入ります」
隣で記録を照合していたユリウスが頷いた。
「観測所からも同じ報告が来ている。各水門の管理人には、順番に放流するよう通達した」
「順番に?」
「北水門を少し開き、流れを南の分水路へ逃がす。その後、東側を調整する。いつもの手順だ」
セラは地図の端に置かれた古い設計図を見た。十年前に変更された水路網は、いまも現役の帳簿に記されている。だが、実際の水路には図面から消された流れがある。
「旧水路を使えば、もっと分散できます」
「旧水路は塞がれている」
「完全には」
セラは、公開実験のあとに整理した記録を指でたどった。廃水路の入口付近で見つかった石積みの跡。塞がれた時期を示す、削り取られた記録。そこには、旧水路がかつて三つの地区へ水を分けていたことが残っている。
「操作室が動けば、流れを戻せます」
「操作室は旧南水門の地下だ。十年前から封鎖されている」
「だから、誰も使っていないと思われています」
そのとき、外で警鐘が鳴った。
一度。二度。三度。
通常の増水警報ではない。水門の異常を知らせる連続音だった。
ユリウスが立ち上がった。
戸口から若い伝令が駆け込んでくる。濡れた髪から水を滴らせ、息を切らしていた。
「監督官、南第一水門が勝手に開きました。管理人は鍵を持っていないと言っています」
「北水門は?」
「確認中です。ですが、下流の水位が急に上がっています」
セラの胸に、冷たいものが落ちた。
「一つではありません」
彼女は地図を引き寄せた。水位の記録、警鐘の間隔、伝令の報告を重ねる。ばらばらだった情報が、一本の線になった。
「犯人は水門を順番に開いているのではなく、同時に開けています。上流の水を、都市の中心へ集めるつもりです」
「中心へ?」
「評議会区画と市場、それから居住区。水は低い方へ流れます。いまの水路なら、三十分で市場の石橋を越える」
ユリウスは地図を見つめた。
「水門を閉じる」
「閉じるだけでは、上流で溢れます。次の水門が開けば、別の地区へ流れ込む」
「なら、操作室で流れを分けるしかない」
彼の目がセラを捉えた。
「旧南水門へ行く」
「あなたは市庁舎へ戻り、避難を指示してください」
「君を一人で行かせるつもりはない」
「操作室の入口は狭く、崩落の危険があります。二人で行けば、避難の指示が遅れる」
「君も同じ危険を承知で行くつもりだろう」
言い返せなかった。
外では風が唸り、扉の向こうで水が石畳を走っていた。
「私は旧水路の構造を知っています」
セラは濡れた外套を肩に掛けた。
「あなたは、街の人を動かせる。役割が違うだけです」
「違わない。今夜は、どちらも必要だ」
ユリウスは机の上から予備の灯りを取り、彼女に渡した。
「市庁舎へ寄って避難命令を出したあと、私も旧南水門へ向かう。先に着いたら、勝手に危険な操作をするな」
「それは、こちらの台詞です」
彼はわずかに笑ったが、その表情はすぐに雨音へ消えた。
二人は別々の道へ走った。
セラが旧南水門へ近づくにつれ、足元の水は深くなった。路地の排水口から濁流が逆流し、家々の戸口には住民が立ち尽くしている。
「高い場所へ移って! 水が増えます!」
セラは声を張った。
「市場の鐘が鳴ったら、舟を広場へ回してください。子どもと年寄りを先に!」
誰かが彼女の腕をつかんだ。
「役所は何をしているんだ!」
「今、止めに行きます!」
その言葉が、自分の口から出たことにセラ自身が驚いた。以前なら、確証がないまま約束などできなかった。だが今夜は、確証を得るために進むしかない。
旧南水門の扉は半ばまで水に沈んでいた。錆びた閂を外し、セラは地下への階段を下りた。水は膝まであり、灯りの炎が何度も揺らぐ。
地下の奥から、金属を引きずる音が聞こえた。
誰かいる。
セラは壁に身を寄せ、灯りを低くした。操作室の前に、黒い外套の男が立っていた。彼は古い歯車に鎖を巻きつけ、弁を固定しようとしている。
「そこを離れてください」
男が振り向いた。
「記録の女か。余計なところまで嗅ぎ回るから、こうなる」
「あなたたちは、この都市を沈めるつもりですか」
「沈める? 違う。失われるのは、都合の悪い地区だけだ。水が引いたあと、土地の値は下がる。買い手はもう決まっている」
セラの指先が震えた。
洪水も、改ざんも、十年前の設計変更も、すべて同じ利益のためだった。
「鎖を外しなさい」
「お前一人で何ができる」
男が近づいた瞬間、背後の階段から足音が響いた。
「彼女一人ではない」
ユリウスだった。濡れた外套を脱ぎ捨て、息を整えながら操作室へ入ってくる。
「水門の管理人と職人たちが、各地区で流れを止めている。お前の仲間はもう逃げ始めた」
男の顔が歪んだ。
「監督官ごときが、何を証明できる」
「今夜の水位と、お前の鎖の跡が証明する」
ユリウスが一歩進んだ。
男は腰の短刀に手を伸ばした。セラはとっさに横のレバーを引いた。古い歯車が軋み、床の一部が沈む。男の足元から水が噴き上がり、彼はよろめいた。
「セラ!」
「この操作室は、まだ動きます!」
彼女は壁一面の弁を見上げた。記憶の底から、母の声が蘇る。赤い印の弁は流れを分け、二つ並んだ銀の輪は地下水路を開く。
だが、一つの輪は鎖で固定されていた。
セラは短刀を拾い、鎖へ振り下ろした。二度、三度。手のひらが裂けても、鎖は外れない。
「無理をするな!」
「無理ではありません。必要です!」
ユリウスが男を押さえ込んでいる間に、セラは灯りを歯車の隙間へ差し込んだ。鎖の留め具に、古い修理跡がある。そこだけ金属の色が違った。
彼女は留め具を逆方向へ回した。
鈍い音がして、鎖が落ちた。
セラは銀の輪に両手を掛けた。固く凍ったように動かなかったが、全身の力を込めて回す。
地下のどこかで、巨大な水が流れ始めた。
濁流の音が、低く長く響く。やがて操作室の水位がわずかに下がった。
「開きました」
セラは息をついた。
「旧水路が、水を受けています」
遠くで、街の警鐘が変わった。危険を知らせる連続音ではなく、区画ごとの合図が順に響いている。
ユリウスが窓のない地下室で、耳を澄ませた。
「住民が動いている」
「職人たちも、指示どおり弁を開けているはずです」
そのとき、操作室の床に浮かんだ一枚の紙が、セラの足元へ流れてきた。
彼女は拾い上げた。
濡れて滲んだ文字の奥に、消された記録の輪郭が浮かぶ。今夜の水門操作を示す、日付入りの指示書だった。末尾には、見覚えのある印がある。
現市長の側近が使っていた印。
セラは紙を胸元へ収めた。
「これを持ち帰ります」
「必ず」
ユリウスが頷いた。
外ではまだ、大雨が降り続いている。けれど水の流れは、ひとつの場所へ集まる音から、いくつもの水路へ分かれていく音へ変わっていた。
セラは暗い操作室の中央に立ち、もう一度、弁の位置を確かめた。
「朝まで持たせます」
「朝が来れば、街は助かるか」
「街は、みんなで助けます」
ユリウスはその言葉を聞き、彼女の隣に立った。
二人の灯りが、古い歯車と濁った水面を照らしていた。沈められようとしていた都市は、まだ暗闇の中にある。
だが、流れは変わった。




