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第9話 最前線は恨みを持った貴族だらけだけど、妻が最強の盾でした

 トイレの個室にまで妻がついてくる異常な新婚生活が始まって数日。

 その朝も、俺はベルク領の屋敷の廊下で、イレーネに腕をがっちりと抱えられたまま朝食の場所へ向かっていた。

(……なんか最近、悪くはないと思い始めてる自分がいるんだよな)

 呪いが解けてからのイレーネは、毎日毎秒、全力で俺に好意をぶつけてくる。正直、最初はその密度に圧倒されてばかりだったのだが。

 朝起きれば「おはようございます英雄様!」と満面の笑みで飛びついてくる。食事のたびに「あーん」をしてくる。書き物をしていれば隣でじっと俺の顔を眺めている。

(……見た目が絶世の美女なのに、中身がこれほど無防備というのも、なかなか罪な話だな)

 試しに、どうなるか確かめてみようと思った。

 廊下を歩きながら、俺はさりげなくイレーネの頬に口づけをした。

 一瞬の出来事だった。

「……え? あ、あ、あ……」

 イレーネが固まった。

 さっきまで元気よく喋っていたのに、突然ピタリと動きを止め、顔が耳の先まで真っ赤に染まっていく。腕の力がするりと抜け、そのままゆっくりとその場にへたり込んだ。

「だ、旦那様が……わたくしに……キスを……」

「あ、ちょっと、大丈夫か?」

「だいじょうぶ……では……ありません……」

 蚊の鳴くような声で呟きながら、イレーネは両手で顔を覆い、くたくたと廊下の壁にもたれかかった。国一番の美姫が、壁にずり落ちながら湯気でも出そうなほど真っ赤になっている。

「英雄様が……急に……不意打ちで……わたくし、心の準備が……ふにゃ……」

「ふにゃ、て」

(何この可愛い生き物は)

 俺は思わず目を細めた。毎日俺にキスの嵐を降らせてくるくせに、こちらから一回やるとこの反応だ。見た目は大陸広しといえどもそう存在しない絶世の美女なのに、今この瞬間だけはまるで小動物のようにちんまりとしている。

「旦那様……ずるいですわ……いきなりそんなことを……」

「お前はいつも俺にいきなりやってくるじゃないか」

「そ、それとこれとは話が別ですわ! わたくしが英雄様にするのは愛の表現で、英雄様がわたくしにするのは……その……もっと……特別で……」

 言葉が続かなくなり、イレーネは再び両手で顔を覆った。指の隙間から見える耳が真っ赤だ。

(……これは反則だろう)

 俺は手を伸ばしてイレーネを引き起こしながら、心の中で密かに思った。こんな顔をされたら、悪い気はしない。全然しない。

「行くぞ。朝食が冷める」

「……は、はい。でも英雄様、もう一回だけ……」

「却下」

「ええっ! ひどいですわ!」

 いつものイレーネに戻った。


 そんな平穏な朝を打ち砕く最悪の凶報が、王城からもたらされたのはその日の午後のことだった。

 なんと、先日俺がヤケクソで剣を振り回して停戦に持ち込んだダルム公国が、さらにその向こうにある巨大なドラケン帝国から電撃的な侵略を受け、あっさりと滅亡してしまったというのだ。

「で、その帝国の連中が、勢い余って我が国の国境までなだれ込んできていると! 我が国の誇る最強の英雄たる侯爵よ、ただちに最前線へ向かい、奴らを蹴散らしてくるのだ!」

「ええええっ!? いや、ちょっと待ってくださいよ陛下!」

 レオナルト陛下の無茶振りに、俺は顔面を蒼白にして叫んだ。

「今の最前線って、陛下が左遷した『妻に捨てられて俺を逆恨みしている大貴族たち』で溢れかえってるじゃないですか! そんなところに俺が行ったら、敵にやられる前に味方から背中を刺されますって!」

「なに、案ずるな! 貴殿の圧倒的な武力があれば、不満を持つ者など黙らせることができよう!」

(できないから言ってるんだよ! 俺のスキルは全部レベル1なんだぞ!)

 俺の悲痛な叫びも虚しく、俺は再び最前線へと駆り出されることになってしまった。しかも今回は、最も警戒すべき敵が背後にいるという最悪のデスゲームである。

「英雄様! もちろんわたくしもついて行きますわ!」

「いやいや、危ないから王城で待ってて! お願いだから!」

「嫌ですわ! 英雄様が戦場で寂しい思いをしないよう、わたくしが四六時中抱きしめて差し上げます!」

 結局、俺の腕にガッチリとしがみついたイレーネを引き剥がすことはできず、俺たちはそのまま最前線の野営地へと到着した。

 そこはまさに地獄だった。

「……あいつだ。俺の家庭をぶち壊した、あの忌々しい成り上がり者が来やがった……」

「後ろから矢を射掛けてやる。事故に見せかけてな……」

 野営地に足を踏み入れた瞬間、そこら中から血走った目をした貴族たちが、怨嗟の声を漏らしながらこちらを睨みつけてきた。全員から凄まじい殺気が漏れている。

(ひいっ! ほら言ったこっちゃない! 絶対殺される!)

 俺が恐怖でガタガタと震え上がり、隣のイレーネの腕にギュッとすがりついた、その時だった。

「……あなたたち。わたくしの愛する旦那様に、なんという無礼な目を向けていますの?」

 絶対零度の声が、野営地に響き渡った。

 さっき廊下でくたくたに溶けていた同じ人物とは思えない、圧倒的な王族の威圧感。愛する夫を脅かされたメガデレ妻の凶暴な怒り。その二つが合わさって、貴族たちに向かって放たれた。

「お、王女殿下……!?」

「いいこと? もし英雄様の美しいお体に指一本でも触れようものなら、わたくしがあなたたちの残りの財産も領地もすべて没収し、一族郎党を市中引き回しにして差し上げますわ。わかりましたね?」

 ニコリと微笑みながら放たれた極悪非道な脅迫に、殺気立っていた貴族たちは「ひぃぃっ!?」と情けない悲鳴を上げて一斉に土下座した。

(す、すげえ……! さっきまで廊下で壁にずり落ちてたのに、権力の使い方がえげつない!)

「英雄様、もう安心ですわ! わたくしがずっとお守りしますからね!」

「ありがとう姫様! 絶対に俺のそばから離れないでね!」

(物理的な命の盾として、だが)

「まぁっ……! 英雄様ったら、こんな皆の前でそんな情熱的に……!」

 イレーネがまた耳まで赤くして身悶えし始めた。

(朝の廊下といい、この人は一体どこにスイッチがあるんだ)

 俺はただ生き残るためだけに、怨念渦巻く最前線で妻とイチャイチャし続けるハメになったのだった。

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