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第38話 家ごと旅行に行ったら、モフモフが倍になった

エルナが生まれて一年が経った。

「おとしゃま、だっこ!」

 とことこと歩み寄ってきたエルナが、短い腕を俺に向かって伸ばしている。

 俺はエルナを抱き上げ、その柔らかい頬をつついた。エルナがきゃっきゃと声を上げて笑う。その周りを三匹のワタがふわふわと漂っている。

(……一年か)

 雷将に踏まれて始まった話が、気づけばここまで来ていた。

 エルナが自分の足でしっかりと歩き、言葉を話し始めた。

 つまり、あの約束を果たす時が来たということだ。

「エルナが歩けるようになったら、もう一度あの祠に行く」

 そう決めていた。

「旦那様、準備ができましたわよ!」

 イレーネが嬉しそうに手を振っている。

「ああ、行くか」

 俺は現在、イレーネとエルナ、そしてワタたちを連れて、連邦の外れにある山岳地帯へと向かっていた。深淵の狂王の地図に記されていた、あの洞窟の祠を再調査するためだ。

 しかし、悲壮感は欠片もない。

 完全に家族旅行の空気が漂っていた。


「旦那様、この移動式住居、本当に快適ですわね! 一生ここで暮らせそうですわ!」

 イレーネがふかふかのソファで紅茶を飲みながら、目を輝かせている。

 俺たちが乗っているのは、クラフト部隊とミレイユが共同開発した「移動式住宅」の試作機だ。

「面倒くさいからな。どうせ行くなら、家ごと移動した方が早い」

 当初は俺のわがままで作らせたものだが、これを見たヘンドリックが「閣下、これは革命です。土地に縛られず、かつ安価で高品質な住居を全土に普及できます」と鼻息を荒くしていた。

 見た目は少し大きめの車両だが、現地に到着するとその真価を発揮する。ガチャリ、と両側の壁が横に引き出され、ギギギ、と屋根が上にせり上がる。ものの数分で、元のサイズの三倍以上の居住空間が完成するのだ。

 聞けば、すでに富裕層からは「二段に重ねてメゾネットにしたい」「三つ連結して回廊を作りたい」といった注文が殺到しているらしい。

(ただの移動手段のつもりが、いつの間にか不動産市場まで壊していたらしい。面倒なことだ)

「おとしゃま、あれなに?」

 エルナが窓の外を指差した。

 護衛のクラフト部隊員たちが、野営地を構築していた。土魔法でサクッと風除けの壁と石の床を作り、持ち込んだカーペットと寝具であっという間に快適な空間を錬成している。

「家を作っているんだ」

「すごいね!」

「お前が大きくなったら、もっとすごいものを見せてやる」

「ほんと!?」

 エルナがきゃっきゃと笑った。

(……可愛い)

「旦那様、また溶けたお顔をされておられますわ」

「してない」

「してますわよ? ふふっ、チュッ」

「だから突然するな」

「ふにゃ……」


 目的地である洞窟に到着したのは、翌日のことだった。

「さて、エルナ。パパと一緒に中を見てみようか」

「うん!」

 俺はエルナの手を引き、三匹のワタを引き連れて洞窟の奥へと進んだ。

「旦那様、わたくしも参りますわよ」

「足元に気をつけろ」

「はいですわ!」

 三人と三匹で洞窟を進む。壁に刻まれた古代文字が、松明の光に照らされて揺れている。

 祠の前に立つと、相変わらず温かく、しかしどこか懐かしい魔力の気配が漂っていた。

「まあ、不思議な場所ですわね。なんだかとても……落ち着きますわ」

「そうか?」

「ええ。まるで誰かに、ずっと守られてきたような気がしますわ」

(……イレーネは本当に勘が鋭いな)

 俺が祠に刻まれた「サルデ・モワ・カル」の文字を改めて調べている間、エルナが楽しそうにワタたちと追いかけっこをしていた。

 ワタたちもエルナに合わせて、ふわふわとゆっくり動いている。

(なんというか……ここに来ると、ワタたちも落ち着いている気がするな)

 そしてエルナが「ぽふっ!」と、祠の台座に小さな手を付いた、その瞬間だった。

 ポンッ! ポポンッ!

 軽いポップコーンが弾けるような音とともに、俺の魔力が祠を通じてエルナへと、そして周囲のワタたちへと吸い込まれた。

「……あ」

 気づけば、三匹だったワタが、六匹に増えていた。

 倍である。

「まあ! 旦那様、また増えましたわ! 可愛いですわね!」

「……エルナ、お前何をした」

「ぽふ、したの!」

 エルナが満足そうに笑っている。

 増えた三匹も、まるで最初からそこにいたかのように当然の顔をしてエルナの周りをふわふわと跳ね始めた。

(……ヘンドリックがまた白目を剥くな、これは)

(それにしても……エルナが触れただけで増えた)

(この子にも、俺の魔力が流れているということか)

「旦那様、どうされましたの?」

「いや。エルナが……面白いことをするなと思って」

「ふふっ、この子は旦那様の娘ですもの。規格外で当然ですわ」

「……そうかもしれないな」

 俺は六匹になったワタたちを眺めた。

 全員が祠の方向を向いて、金色の瞳を静かに輝かせている。

(お前たちにとって、ここは特別な場所なのか)

 ワタが一匹、俺の足元に来て頭を押し付けた。

(……そうか。また来るよ)


 移動式住宅に戻り、エルナを寝かしつけた後。

 俺とイレーネは並んで窓の外を眺めていた。

「旦那様、ワタたちのこと……何かわかりましたか?」

「まだはっきりとはわからない。ただ」

「ただ?」

「悪い存在でないことは確かだ」

「そうですわよね」とイレーネが穏やかに言った。「わたくし、最初からそう思っていましたわ。だってこんなに可愛いのですもの」

「お前の直感は、いつも正しいな」

 イレーネが少し驚いた顔をしてから、顔を赤くした。

「……旦那様、突然そういうことをおっしゃるのはずるいですわ」

「事実を言っただけだ」

「ふにゃ……チュッ」

「今度は順番が逆だぞ」

「ふにゃふにゃ……」


 そんな穏やかな夜に、通信魔道具が不穏な光を放った。

 カールからだ。しかも緊急の印がついている。

『公爵閣下、お休み中に失礼いたします』

「何があった」

『帝国の北の果て、極寒の辺境で異常な魔力の溜まりが観測されました』

「北の果て? あそこは人が住める場所じゃないはずだが」

『ええ。だからこそ気づくのが遅れました。どうやら数ヶ月前、ヴィルヘルムがそこで古い遺跡を掘り返していたらしいのです。その時は何も起きなかったため放置されていましたが……今、そこを中心に大地が黒く変色し始めています』

 俺は眉をひそめた。

「数ヶ月前から、じわじわと進行していたということか」

『おそらく。あいつ、とんでもない時限爆弾のスイッチを押しやがりました。文献の解釈を間違えて、封印を「起動スイッチ」だと思い込んだようです』

「……何を起動したんだ」

 しばらく間があった。

『それが……わからないんです。遺跡の文献は古代語で書かれていて、帝国の学者が解読中なのですが……一つだけはっきりわかったことがあって』

「何だ」

『その遺跡の壁に刻まれていた名前が……「サルデ・モワ・カル」だったそうです』

 俺は黙った。

(深淵の狂王の遺跡……ヴィルヘルムはそこで封印を解いた)

(洞窟の祠と繋がっているのか)

「ヴィルヘルムは今どこにいる」

『それが……遺跡から戻って以来、体調を崩して臥せっているようです。何か……影響を受けたのかもしれません』

「わかった。引き続き情報を頼む」

『閣下、これ……まずいことになりますか』

 俺は少し考えてから答えた。

「まずいかどうかは、まだわからない。ただ」

「ただ?」

「備えはある」

 通信を切った後、俺は窓の外の暗闇を見つめた。

 北の空が、わずかに不自然な色をしている気がした。気のせいかもしれない。

 足元では、六匹になったワタたちが、金色の瞳を北の空に向けて静かに輝かせていた。

 全員が同じ方向を向いている。

(お前たちには、わかるんだな)

 ワタが一匹、俺の手に頭を押し付けた。

 温かかった。

「……わかった。任せろ」

 イレーネが俺の腕をそっと握った。

「旦那様、何かありましたの?」

「少し面倒くさいことになりそうだ」

「旦那様の面倒くさいは、いつも大変なことですわね」

「そうかもしれない」

「……わたくし、旦那様のそばにおりますわ」

「ああ。頼りにしている」

「チュッ」

「……今回は許す」

 イレーネがふにゃっと溶けた。

 その隣で、エルナがすやすやと眠っていた。

 六匹のワタが、イレーネとエルナの周りをゆっくりと、しかし確かな意志を持って漂っていた。

(ヴィルヘルムが解き放った何かが動き始めている)

(深淵の狂王が封じていたものが……)

(まあ、来たら来た時だ)

(でも今回ばかりは、早めに動いておくか)

 俺は通信魔道具を手に取り、ヘンドリックへのメッセージを打ち始めた。

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