第29話 娘の名前を決めようとしたら、女性陣が暴走し、帝国にスパができた
翌朝。
王城の居室に、女性陣が集結していた。
マルガリータ王妃、ファンクラブの令嬢たち、リーヌ。全員が目をキラキラと輝かせながら、俺とイレーネを取り囲んでいる。
議題は一つ。
娘の名前だ。
「ねえコルネリス、わたくしはね、やっぱり花の名前がいいと思うのよ! 例えばローゼ! 可愛くない!?」
「お母様、ローゼは少し古風すぎませんか? わたくしはアンネがいいと思いますわ! 清潔感があって、凛としていて!」
「アンネもいいけれど、せっかくだからもっと華やかな名前がいいんじゃないかしら! リーヌ、あなたはどう思う?」
「わたくしは奥方様と閣下がお決めになるべきかと……」
「でもアイデアを出すのは構わないでしょう! さあリーヌ!」
リーヌが困り顔で俺を見た。
俺はそっと視線を逸らした。
(助けてやれなくてすまない)
「旦那様はどうお考えですの?」
イレーネが腕の中の娘を揺らしながら、俺に聞いた。
俺は少し考えてから、正直に答えた。
「実は一つだけ、考えていた名前がある」
部屋が一瞬静まり返った。
全員の視線が俺に集中した。
「……なんという名前ですの?」
「エルナだ」
「エルナ……」
イレーネが娘の顔を見ながら、静かに繰り返した。
「エルナ……エルナ……」
「意味はない。ただ、この子の顔を見た時に、なんとなくそう思った」
(小さくて、でも強そうで。雷将を倒して、イレーネの呪いを解いて、帝国と戦って……色々あったが、この子が生まれてきた。その全部の終着点みたいな名前がいいと思った)
もちろんそんなことは言わなかった。
イレーネがしばらく娘の顔を眺めていた。
「……エルナ」
もう一度、ゆっくりと呼んだ。
娘が小さな手を動かした。
「……旦那様、この名前にしましょう」
「いいのか」
「ええ。エルナ、という名前を呼んだら……この子が動きましたわ。気に入ってくれたのだと思いますわ」
「……そうだな」
「エルナ。わたくしたちの娘の名前ですわ」
マルガリータ王妃が「あああっ……! エルナ……なんて素敵な名前……!」と号泣し始めた。
レオナルト陛下が「エルナ……余の孫の名はエルナか……! おおっ……!」と後ろで鼻をすすっている。
ファンクラブの令嬢たちが「きゃあああっ! エルナ様! なんて可愛らしいお名前!」と悶え転がっている。
リーヌだけが静かに微笑んでいた。
「おめでとうございます、コルネリス閣下。奥方様」
「ああ。ありがとう、リーヌ」
名前が決まった翌日。
ヘンドリックが急ぎの報告を持ってきた。
「閣下、帝国の件なのですが」
「何だ」
「和平条約の締結は完了しましたが、帝国国内の民衆の不満がかなり高まっているようで。敗戦の憂さ晴らしに、各地で争いが起きております。それに……帝国側から一つ、要請が来ておりまして」
「何だ」
「……スパリゾートを帝国にも作ってほしいと」
俺は少し黙った。
(あの皇太子め)
「カールが言い出したのか」
「はい。『帝国に同じ設備を作ってくれたら帰国を考える』と以前おっしゃっていたとのことで……帝国側もこれを本気で要請してきております」
「……カール本人に作らせればいいだろう。帝国の皇太子なんだから、自分の国くらい自分でどうにかしろ」
「それが……カール殿下に申し上げたところ、『俺には無理だ、公爵閣下にしか作れない』と」
「作り方はクラフト部隊が全部知っている。設計図もある。教えてやればいいだろう」
「それも申し上げたのですが……『自分でやるのは面倒くさい』と」
俺はしばらく沈黙した。
(こいつ、俺のことを言えないな)
「閣下……いかがいたしましょうか」
「カールを呼べ」
数日後、スパリゾートの露天風呂にカールがやってきた。
相変わらず頭に手ぬぐいを乗せ、ほてった顔でフルーツ牛乳を飲んでいる。
「カール」
「ああ、公爵閣下。いいお湯ですね」
「帝国に帰れ」
「えー……」
「帝国の皇太子だろう。自分の国を自分でどうにかしろ」
「でも公爵閣下がいないと、帝国の民衆は落ち着かないし、スパも作れないし……」
「クラフト部隊を一隊派遣する。設計図も渡す。費用は帝国持ちだ。それで帰れ」
「……クラフト部隊だけで、ちゃんと作れますか?」
「作れる。あいつらはもう俺より上手いくらいだ」
カールがしばらく湯に浸かりながら考えた。
「……わかりました。帰ります。でも一つだけ条件があります」
「何だ」
「完成したスパの内覧に、公爵閣下と奥方様を招待させてください。お二人が来てくださるなら、帝国の民衆も喜びますし、俺も安心できます」
俺は少し考えた。
(まあ、エルナが大きくなったら、旅行がてら……)
「……考えておく」
「やった」
「返事はそれだけか」
「十分です。では俺、もう一回サウナに行ってきます」
カールが意気揚々とサウナ室へ消えていった。
(結局今日もサウナに入っていくのか、こいつは)
こうして、クラフト部隊の一隊がカールとともに帝国へと向かうことになった。
隊長はトールだ。
「閣下、行ってまいります!」
「頼んだぞ。帝国の民衆が喜ぶものを作ってこい」
「はっ! 閣下の名に恥じない仕事をしてみせます!」
「俺の名前は出さなくていい。お前たちの仕事として堂々とやってこい」
トールが目を真っ赤にした。
「……閣下」
「何だ」
「本当に……本当に、閣下の部下でよかったです」
「大げさだ。早く行け」
「ははっ!」
クラフト部隊が出発した。
その後ろ姿を見送りながら、ヘンドリックが静かに言った。
「閣下、これで実質的に帝国はウィレム連邦の影響下に入りましたね」
「そうか?」
「はい。クラフト部隊が帝国のインフラを整備し、スパを建設し、民衆の生活を豊かにする。そうなれば帝国の民衆は連邦に親しみを持ち、自然と……」
「俺はただカールを帰国させたかっただけだ」
「……はい、存じております」
ヘンドリックが苦笑した。
「閣下のついでは、いつも大陸を変えてしまいますね」
(大げさだ)
その夜。
俺はエルナを抱きながら、イレーネと並んで窓の外を眺めていた。
「旦那様、帝国の件、うまくいきそうですわね」
「ああ。トールたちなら大丈夫だ」
「旦那様が育てたクラフト部隊ですもの」
「俺が育てたというより、あいつら自身が育ったんだ」
エルナが小さな声を上げた。
俺とイレーネが同時に顔を覗き込んだ。
「……お腹が空いたのかな」
「そうかもしれませんわ。ふふっ、元気ですわねエルナ」
俺はエルナをイレーネに渡しながら、ふと思い出した。
「そういえば、あの本……深淵の狂王の地図、結局どうなったんだ」
「……あの本ですか?」
「クラフト部隊が地下で見つけた地図があっただろう。あれを調べると言っていたが」
「……旦那様、それはいつの話でしたかしら?」
「17話……いや、17回目くらいのことだ」
「……ヘンドリックに聞いてみますわ?」
翌日、ヘンドリックに聞いてみた。
「ああ、あの地図でございますか……」
ヘンドリックが少し遠い目をした。
「実は……帝国との戦争が始まりまして、その後奥方様のご懐妊があり、王城への移動があり、叙任式があり、ご出産があり……気づいたら書庫の引き出しの奥に」
「忘れていたのか」
「……申し訳ございません」
「まあ、いい。急ぐ話でもないだろう」
「はい。ただ……閣下」
「何だ」
「あの地図に書いてあった場所、少し気になるものがありまして。いつか時間ができた時に……」
「わかった。エルナが歩けるようになったら考える」
「……かしこまりました」
ヘンドリックが深々と頭を下げた。
(深淵の狂王か。結局何者なんだ)
俺はそれだけ思って、居室に戻った。
エルナがイレーネの腕の中で眠っていた。
(まあ、急ぐことはない。今はこれで十分だ)




