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第28話 妻が出産したら、王城が大変なことになった

 その日の朝、俺はイレーネの異変に気づいた。

「……旦那様」

「何だ」

「その、少し……お腹が」

 俺は一瞬で全身が固まった。

「……今か」

「……今だと思いますわ」

 俺はすぐに立ち上がり、廊下に向かって叫んだ。

「リーヌ! 王妃様を呼んでくれ! 産婆と医師も今すぐ!」

「ただいま!」

 リーヌの足音が廊下を駆け抜けていく。

 数分も経たないうちに、マルガリータ王妃が現れた。

 寝間着の上に羽織りを引っかけただけの格好で、髪も整えていない。しかし目だけは爛々と輝いていた。

「来たわね! コルネリス、あなたは廊下で待っていなさい! ここからは女性だけよ!」

「しかし……」

「大丈夫よ。私に任せなさい」

 王妃様がイレーネの手を取り、力強く握った。

「イレーネ、怖くないわよ。お母様がついているから」

「……はい、お母様」

 イレーネが小さく頷いた。

 俺はイレーネと目が合った。

「……約束だぞ」

「はい。旦那様も……待っていてくださいませ」

「ああ。絶対にそこにいる」

 扉が閉まった。


 廊下に出た俺は、そのまま壁にもたれて座り込んだ。

(……落ち着け)

 落ち着けない。

 全然落ち着けない。

 雷将に踏まれていた時も、帝国軍に囲まれた時も、ドラゴンが降ってきた時も、ここまで心臓がバクバクしたことはなかった。

「閣下」

 顔を上げると、ヘンドリックが立っていた。

「……なんでいる。ベルク領に戻ったのではないか」

「奥方様のご出産と聞いて、急ぎ戻りました」

「そうか」

「……閣下、顔が青いですよ」

「そうか」

「大丈夫ですよ、閣下。王妃様がついておられますし、腕利きの産婆と医師もおります。きっと」

「わかってる」

 わかってはいる。

 わかってはいるが、扉の向こうからイレーネの声が聞こえるたびに、俺の心臓が跳ね上がる。

 気づけば廊下には、日陰の夫たちも集まっていた。若い連中も来ている。ファンクラブの令嬢たちまで、廊下の端で手を握り合いながら祈っている。

「……お前たちも来たのか」

「当然でございます、閣下」

 日陰の夫たちの筆頭格が、静かに言った。

「閣下と奥方様には、本当の意味での幸せを教えていただきました。この御子の誕生は……我々全員の喜びでございます」

 俺は何も言えなかった。

 ただ頷いた。


 レオナルト陛下も来た。

「コルネリス! イレーネは!?」

「今、中で」

 陛下がどさりと俺の隣に座り込んだ。

「……俺も、イレーネが生まれた時はこうだったぞ」

「そうでしたか」

「廊下で半泣きになりながら、王妃の悲鳴を聞いていた。あの時ほど自分が情けなかったことはないな」

「……今の俺もそんな感じです」

「だろうな」

 陛下が苦笑しながら俺の肩を叩いた。

「大丈夫だ。マルガリータが仕切っている。あれほど頼りになる女はおらん」

「……ええ」

「それにイレーネは強い子だ。呪いに何十年も耐え続けた子だぞ。これくらい、乗り越えてみせる」

 俺はしばらく黙ってから、静かに言った。

「……陛下、イレーネを俺に嫁がせてくれて、ありがとうございました」

 陛下が少し驚いた顔をしてから、ふっと笑った。

「礼を言うのはこちらだ。あの子を……幸せにしてくれて、ありがとう」


 どれくらい時間が経ったか。

 扉が開いた。

 産婆が顔を出した。

「公爵閣下……おめでとうございます。元気な……」

 その言葉が続く前に、部屋の中からマルガリータ王妃の声が響き渡った。

「生まれたわああああっ!! 元気な赤ちゃんよおおおっ!!」

 廊下にいた全員が、一斉に息を飲んだ。

 そして次の瞬間、廊下が爆発した。

「「「おおおおおっ!!」」」

 日陰の夫たちが泣き崩れた。若い連中が抱き合って跳び上がった。ファンクラブの令嬢たちが「きゃあああっ!」と黄色い声を上げた。レオナルト陛下が「おおっ……おおっ……」と嗚咽を漏らしながら天を仰いだ。ヘンドリックは無言で頭を下げたまま、肩を震わせていた。

 俺は立ち上がり、扉に向かった。

「閣下、少しお待ちを……」

「待てない」

 産婆が苦笑いしながら道を開けてくれた。


 部屋に入ると、イレーネがベッドの上で疲れ切った顔をしていた。

 しかし、その顔は今まで見た中で一番美しかった。

 腕の中に、小さな命が抱かれていた。

「……旦那様」

 イレーネの声が、かすれていた。

「来ましたわよ。わたくしたちの子が」

 俺はゆっくりとベッドに近づき、その小さな顔を覗き込んだ。

 小さい。

 本当に小さい。

「……男の子か、女の子か」

「女の子ですわ」

 産婆が答えた。

「元気な産声を上げてくださいましたよ。とても強いお子様です」

 俺はしばらく、その小さな顔を眺めていた。

(俺の子だ)

(俺とイレーネの子だ)

「……抱いてもいいか」

「もちろんですわ。旦那様に一番に抱いてほしかったのですわ」

 イレーネがそっと差し出した。

 俺は両手を伸ばし、恐る恐るその小さな体を受け取った。

 軽い。

 こんなに軽いのに、こんなに温かい。

「……よく来たな」

 俺は思わずそう呟いていた。

「お前のことは、俺が絶対に守る。約束する」

 その瞬間、赤ちゃんが小さな手を動かした。

 俺の指を、ぎゅっと握った。

(……ああ、駄目だ、これは)

 俺の視界が、じわりと滲んだ。

「旦那様……泣いておられますわ」

「泣いてない」

「泣いておられますわよ? ふふっ」

「泣いてない」

「ふにゃ……わたくしも泣いてしまいますわ……」

 二人して泣いていた。

 その横では、マルガリータ王妃がレオナルト陛下の胸に飛び込んで号泣していた。

「あなたぁっ! 孫よ! 孫が生まれましたわああああっ!!」

「お、おおっ! 王妃よ、苦し……いや、離さないで……! おお、余にも孫が……!」

「可愛いっ! なんて可愛いのっ! ねえコルネリス、名前は!? 名前はもう決まっているの!?」

「……まだです」

「早く決めなさい! 早く!」

「落ち着いてください王妃様」

「落ち着けるわけないでしょう! 孫よ!? 孫が生まれたのよ!?」

 リーヌが「王妃様、奥方様がお疲れです、少し静かに」と必死に押さえているが、全く効いていない。

 廊下では日陰の夫たちが「我らが神の御子が……!」と号泣していて、ヘンドリックが「静粛に! 奥方様がお休みです!」と怒鳴っているのが聞こえてくる。

 俺はその騒ぎを遠くに聞きながら、腕の中の小さな命を見つめていた。

(早く帰って寝たいだけだった後方支援兵が、こんなところまで来てしまったな)

(まあ……悪くない)

「旦那様」

「何だ」

「……幸せですわ」

「俺もだ」

 イレーネがそっと俺の手に自分の手を重ねた。

 三つの手が重なった。

 俺とイレーネと、小さな小さな、新しい命の手が。

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