第26話 妻が実は連邦を回していたことに、今更気づいた
公爵叙任式の翌日。
俺とイレーネは約束通り、誰にも邪魔されない部屋でゆっくりと朝を過ごしていた。
イレーネが俺の膝の上に座り、温かいお茶を飲みながら窓の外を眺めている。お腹が随分と大きくなってきたが、それでもイレーネは相変わらず国一番の美姫だと俺は思っている。
(……平和だ)
「旦那様、今日のご予定は?」
「ない。ひたすらゆっくりする」
「まあ、素敵ですわ」
「お前もゆっくりしろ。無理をするな」
「はい。……あ」
イレーネが不意に何かを思い出したように、傍らに置いてあった書類の束に手を伸ばした。
「何だそれ」
「昨日届いていた報告書ですわ。少しだけ目を通しますわね」
俺はイレーネがゆっくりと一枚目を手に取るのを眺めた。
そして目を疑った。
一秒も経たないうちに、イレーネは一枚目を裏返して次のページに移った。
また一秒も経たずに、次のページへ。
次のページへ。
次のページへ。
「……おい」
「はい?」
「今、読んでいるのか?」
「読んでいますわ」
「一秒も見ていないぞ」
「見ていますわよ? 一枚で十分ですわ」
イレーネがにっこりと微笑んだ。
「王族としての教育で、書類の速読は必修でしたの。慣れてしまえば一枚一秒もかかりませんわ」
「……内容は把握できているのか」
「もちろんですわ。例えば一枚目は先月のベルク領の収支報告書で、農産物の売上が前月比三割増、用水路の維持費が想定より二割少なく、クラフト部隊の新規開墾地から初収穫があったとのことですわ。二枚目はダルム公国旧領の人口推移で、帝国との戦争後から回復傾向にあり、三枚目は……」
「わかった、わかった」
俺は少し黙った。
(こいつ、ちゃんと読んでいる。一秒足らずで)
「旦那様、知らなかったのですか?」
「ああ」
イレーネが少し恥ずかしそうに笑った。
「旦那様がいつもお仕事を全部ヘンドリックに丸投げなさっていたでしょう? でも細かいところまで全部ヘンドリック一人では追いきれなくて……それで、わたくしが毎日目を通して、必要な指示をファンクラブの皆さんに伝えておりましたの」
「……いつから?」
「ベルク領に来てすぐから、ですわ」
俺は目を丸くした。
(ベルク領に来てすぐ……それは、呪いが解けてすぐ、ということか)
「旦那様、顔が固まっておられますわ」
「……お前、それを俺に言わなかったのは何故だ」
「旦那様が楽しそうにサボっていらっしゃったので、邪魔しては悪いかと」
(こいつは……)
俺は頭をかいた。
「ヘンドリックは知っていたのか」
「はい。最初に相談しましたので」
「ヘンドリックのやつ……」
「でも旦那様、ヘンドリックはずっと感謝しておりましたわよ。奥方様がいてくださるおかげで私の仕事が回っています、と毎回おっしゃっていましたわ」
(あいつ、一言も言わなかったぞ)
その日の午後、俺はヘンドリックを呼び出した。
「イレーネが報告書を全部見て、指示を出していたのを知っていたな」
ヘンドリックが一瞬固まったが、すぐに深々と頭を下げた。
「……申し訳ございません。ご報告すべきでした」
「何故黙っていた」
「奥方様が『旦那様には内緒で』とおっしゃいましたので」
(イレーネのやつ)
「実は、閣下が思っておられる以上に、奥方様は連邦の運営に深く関わっておられます」
ヘンドリックが真剣な顔になった。
「収支の管理、各領地への指示の調整、ファンクラブの令嬢たちへの業務の割り振り……それらの多くは、奥方様を通じて動いておりました。閣下がサボっておられる間、連邦を実質的に支えていたのは奥方様でございます」
「……」
「閣下の豪快な采配と、奥方様の緻密な管理。この二つが揃って初めて、連邦はここまで発展できたのだと、私は確信しております」
俺はしばらく沈黙した。
(俺が好き勝手にやっていた裏で、こいつが全部拾っていたのか)
「ファンクラブの令嬢たちは?」
「奥方様の指示を受けて、書類の整理、収支の計算、各部署への連絡を担当しております。皆、奥方様のために全力で働いておりますわ。お慕いしている方に直接指示をいただけるのが嬉しいのだと……」
「そうか」
俺は立ち上がり、窓の外を眺めた。
(考えてみれば、当然だ。国王陛下が『領地経営の知識は並ぶ者がいない』と言っていた。俺はそれをただの売り文句だと思っていたが……本当だったのか)
(雷将を倒したのは俺だ。呪いを解いたのも俺だ。帝国を追い払ったのも俺だ。だが連邦を動かしていたのは、イレーネだったのか)
「ヘンドリック」
「はっ」
「イレーネに、正式な肩書きを与えたい。連邦副統治者か、それに類するものを」
ヘンドリックが目を真っ赤にした。
「……閣下」
「妻の働きにちゃんと報いたい。それだけだ」
「かしこまりました。喜んで手配いたします」
「それと」
「はっ」
「ファンクラブの令嬢たちも、正式な行政官として任命する。無償でやらせ続けるのは俺の主義に反する」
「……本当に、閣下は」
ヘンドリックが言葉を詰まらせた。
「何だ」
「いえ……奥方様が閣下を選ばれた理由が、改めてわかった気がいたしました」
(大げさだ)
部屋に戻ると、イレーネはまだ報告書を読んでいた。
正確には、すでに全部読み終えて、ファンクラブの令嬢たちに次々と指示を出しているところだった。
「ここの収支は来月精算でいいですわ。こちらの開墾地の報告はトールに確認を取って。あと帝国からの和平条件の最終案は……」
令嬢たちがメモを取りながら「かしこまりました奥方様!」と颯爽と動いていく。
まるで小さな執務室が動いているようだった。
(これが毎日、俺がいないところで行われていたのか)
指示を出し終えたイレーネが、俺に気づいて振り返った。
「旦那様、お話は済みましたの?」
「ああ」
俺はイレーネの隣に座り、その手をそっと握った。
「イレーネ」
「はい?」
「ありがとな」
イレーネがぱちぱちと瞬きをした。
「……何のことですの?」
「全部だ。俺がサボっている間、連邦を支えてくれていたこと。気づかないふりをしてくれていたこと。俺が好き勝手にやれるようにしてくれていたこと」
イレーネがしばらく黙った。
それから、ゆっくりと俺の腕に頭を乗せた。
「……当然のことをしていただけですわ。わたくしは旦那様の妻ですもの。旦那様が動けるようにするのが、わたくしの役目ですわ」
「役目じゃなくて、お前の意志でやってくれたんだろう」
「……ふにゃ」
「今更照れるな」
「だって旦那様が……急にそんな……ふにゃふにゃ……」
俺はイレーネの頭をそっと撫でた。
(雷将討伐で始まった話が、こんな形で着地するとは思っていなかった)
(俺は戦って、逃げて、サボって、それだけだったが……こいつはずっと、隣で支えていたのか)
「イレーネ」
「……はい」
「正式な肩書きを作る。連邦副統治者だ。お前の働きにちゃんと名前をつけたい」
イレーネが顔を上げた。
その目が、じわりと潤んでいた。
「……旦那様」
「嫌か?」
「嫌じゃありませんわ。ただ……その、嬉しくて……」
「そうか」
「旦那様に、ちゃんと見ていただけていたのが……嬉しいのですわ……ふにゃ……」
「ちゃんと見ていなかったから今さら気づいたんだが」
「そこは黙っていてくださいな……ふにゃふにゃ……」
外では、行政官として正式に任命されることを知ったファンクラブの令嬢たちが「きゃあああっ! 奥方様万歳! 閣下万歳!」と廊下で大騒ぎしているのが聞こえてきた。
リーヌだけが「お静かに。奥方様がお休みです」と冷静に押さえているのも聞こえてきた。
(相変わらずだな、あの二人)
俺はイレーネをそっと抱き寄せながら、窓の外を眺めた。
早く帰って寝たいだけだった男と、暴言しか吐けなかった姫が、気づけばこうして連邦を動かしている。
(まあ、悪くない話だ)




