第19話 妻がかすり傷を負ったので、石ころで帝都を包囲することにした
その日、俺たちの平穏なスローライフは、最も最悪な形で破られた。
奪還部隊の全滅と、皇太子カールの「帰りたくない」宣言に業を煮やした帝国が、とうとうなりふり構わず暗殺部隊を王城に放ってきたのだ。
俺とイレーネが執務室から私室へと廊下を歩いていた、その一瞬の隙だった。
天井裏から音もなく忍び寄った凶刃が、俺の首を狙って振り下ろされた。
「旦那様っ! 危ない!」
次の瞬間、俺の体が横に強く押し飛ばされた。
いつも俺の左腕にしがみついていたイレーネが、俺を突き飛ばして前に出ていたのだ。
凶刃は空を切り、暗殺者はすぐさま駆けつけた護衛たちに取り押さえられた。俺の命に別状はない。
(……イレーネ?)
俺はゆっくりと振り返った。
イレーネが廊下に膝をついていた。その右腕を、左手でそっと押さえている。
「……っ、びっくりしましたわ。旦那様、ご無事ですか?」
イレーネが俺を見上げて、ほっとしたように微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、俺の視線はイレーネの右腕に釘付けになった。
雪のように白い、イレーネの腕。
そこに、ほんの一筋。
刃がかすったことでできた、細い赤い血の線が、一本だけ滲んでいた。
「……」
俺の頭の中が、真っ白になった。
かすり傷だ。手当てをすればすぐに治る。痛みだってほとんどないはずだ。
それはわかっている。わかっているのだが。
(俺の妻の肌に)
(この、イレーネの綺麗な腕に)
(帝国の凶刃が)
頭の中の何かが、ブチッと千切れた。
「……お前ら」
俺の口から、自分でも聞いたことのない低い声が出た。
拘束されていた暗殺者たちがビクッと顔を上げる。
「俺の、大事な妻に」
「ひっ……!」
俺から漏れ出した無意識の殺気と、規格外の魔力圧。それだけで、暗殺者たちは白目を剥いて次々と泡を吹き、気絶してしまった。
「旦那様……?」
イレーネが不思議そうに俺の顔を見上げた。
俺はその場にしゃがみ込み、イレーネの右腕をそっと両手で包んだ。
傷は細い。本当に細い。爪でひっかいたくらいの深さしかない。
それでも。
「……痛かったか」
「え? あ、いいえ、全然。ほとんど気づかなかったくらいで……旦那様? なぜそんな顔を……」
「イレーネ」
「は、はい」
「お前が俺を庇ったのは」
「……当然ですわ。旦那様に何かあってしまったら、わたくし、生きていられませんもの」
イレーネがあっさりとそう言った。
あっさりと。当然のことのように。
(この人は)
(本当に)
(俺の命より自分の命を軽く扱いやがった)
俺はイレーネの腕に、そっとレベル1の治癒魔法をかけた。過剰なくらいの魔力を込めて。傷跡一つ残さないくらいの勢いで。
「旦那様、かすり傷ですわよ? そんなに魔力を使わなくても……」
「うるさい」
「え?」
「傷跡が残ったらどうするんだ。お前の腕は完璧なんだから、完璧なままじゃないといけない」
「……ふにゃ」
イレーネがたちまち溶け始めた。
しかし今の俺には、イレーネの可愛い反応を楽しむ余裕がなかった。
立ち上がり、廊下を振り返った。
暗殺者を送り込んできた帝国。俺の妻の腕に傷をつけた帝国。イレーネに、自分の命を盾にさせた帝国。
(許さん)
「ヘンドリック」
「は、ははっ! ここに!」
地を這うような俺の低い声に、ヘンドリックが顔面を蒼白にして駆け寄ってくる。
「総攻撃だ。帝国を物理的に更地にする。ただちに魔道具部隊を編成しろ」
「りょ、了解いたしました! ……ちなみに、どの程度の規模で」
「妻のかすり傷一本につき、国一つ更地にしても割に合わない」
「……完全に了解いたしました」
ヘンドリックが走り去った。
日陰の夫たちも、若い連中も、全員が血走った目で「閣下の御心のままに!」と拳を握りしめている。彼らには、妻を傷つけられた男の気持ちが痛いほどわかるのだ。
俺はクラフト部隊の中から「レベル1の付与魔法」が使える者たちをかき集め、新たな特務部隊を創設した。
彼らに持たせたのは、複雑な魔導兵器ではない。鉄の筒と、その辺に落ちているただの石ころだ。
これもあの本に書いてあった。
『推進力を付与した石礫を筒から射出することで、いかなる魔導障壁も貫通する質量兵器となる。術式を組む時間すら与えない速度と、尽きることのない弾数が、あらゆる防衛を無意味にする』
(こんな発想も、深淵の狂王か。本当に何者なんだ)
レベル1の付与魔法で、石ころに限界まで推進力を込める。そして筒から放つ。原理はパチンコや吹き矢と同じだ。しかし込められた魔力量が異常なため、撃ち出された石ころは音速を超え、城壁をも粉砕する凶悪な質量兵器へと変貌する。
数日後。帝国の首都は、絶望のどん底に叩き落とされていた。
「な、なんだあの数は!? 空が……空が石で埋め尽くされているぞ!?」
「結界部隊、何をしている! 早く防壁を張らんか!」
「む、無理です! 複雑な術式を組む前に、ただの石ころの物理的な大質量で結界ごと粉砕されます! 敵の弾幕、まったく尽きる気配がありません!」
帝都の周囲をぐるりと包囲した魔道具部隊は、山のように積まれた石ころに次々と魔力を付与しては、楽しそうに帝都に向かって乱れ撃ちしていた。
尽きることのない超音速の石の雨。帝国の誇る魔導障壁も、堅牢な城壁も、ただの石ころの物理法則と魔力のゴリ押しの前に、紙くずのように削り取られていく。
俺は遥か後方の安全なテントの中で、腕に包帯を巻いたイレーネを膝の上に抱き抱えながら、冷たい目で帝都が崩壊していく様を眺めていた。
包帯は必要ない。傷は治癒魔法で完全に塞がっている。
ただ、念のために巻いた。
念のために、だ。
「旦那様……わたくしのかすり傷一本のために、ここまで……」
「うるさい」
「え?」
「かすり傷だろうと、お前の肌に傷をつけた事実は変わらない。それで済んだのは運が良かっただけだ」
「……旦那様」
「次はないからな。お前が俺を庇うのは禁止だ。俺がお前を庇う。それだけだ」
「……でも旦那様が傷ついたら」
「俺は後方支援15年のベテランだ。逃げることと身を守ることだけは一流なんだよ」
イレーネがじっと俺の顔を見つめた。
それから、ゆっくりと俺の胸に顔を埋めた。
「……わかりましたわ。でも旦那様、わたくし、後悔していませんの」
「知ってる」
「旦那様が無事だったから、それだけで十分ですわ」
「……俺も同じだ」
俺はイレーネの頭にそっと手を置いた。
(お前が無事だったから、それだけで十分だ)
(でも帝国は許さない)
「旦那様……愛しております。チュッ」
「……俺もだよ」
妻と静かにキスを交わしながら、俺はただ無慈悲に、石の雨を降らせ続けた。
帝国は、絶対に怒らせてはいけない男の逆鱗に触れてしまったのだ。
「ところで旦那様」
しばらくして、イレーネが顔を上げた。
「さっき、石ころを使うという戦術も……あの本に書いてあったのですか?」
「ああ」
「サルでもわかる本に」
「そうだ」
イレーネがくすくすと笑った。
「深淵の狂王さんも、まさかおさるさんが帝国に石を降らせることになるとは思っていなかったでしょうね」
「……おさるさんは俺か」
「違いましたか?」
「……まあいい」
俺は苦笑しながら、イレーネの頬に軽くキスをした。
「ひゃっ……! もうっ、旦那様ったら……ふにゃ……」
(この人が無事でよかった。本当に、心の底から)
帝国は絶望のどん底に沈んでいくが、テントの中だけは、相変わらず甘くて温かかった。




