第14話 二人きりになりたいと言ったら、妻が連邦を動かしていた
帝国の皇太子カールを捕縛し、ウィレム連邦のトップに祭り上げられてから数日後。
俺の元に、レオナルト国王陛下から直々の勅書が届いた。
「貴殿の比類なき功績を称え、侯爵位を公爵位に昇格させ、解放したダルム公国の暫定統治者として正式に任命する」
侯爵から公爵への特大ジャンプ。周囲の部下たちやダルム公国の大臣たちは「おおおっ! 我らが公爵閣下万歳!」とお祭り騒ぎになっている。
俺の内心は穏やかではなかった。いや、むしろ激怒していた。
(ふざけるな。公爵だの統治者だの、これ以上仕事を増やす気か。いい加減にしろ)
ここで、読者の皆様には正直に白状しておこう。
俺がずっと「早く後方に帰りたい」「安全な部屋に引きこもりたい」と願い続けてきた最大の理由。それは決して、ただ俺が臆病でサボり魔だからではない。
隣で俺の左腕にギュッと抱きつき、「公爵位なんて当然ですわ! 旦那様は世界一素敵ですもの!」と満面の笑みを浮かべているこの絶世の美姫。俺の可愛い可愛いイレーネだ。
俺は、この妻にベタ惚れなのだ。完全なる妻命である。
こんな国一番の美女が、俺みたいな冴えない男を心の底から全肯定して、24時間体制で甘えてきてくれるのだ。これに骨抜きにされない男がいたらそいつは嘘つきだ。
俺はただ、この大好きな妻と、誰にも邪魔されない安全な部屋で、一日中ダラダラとイチャイチャして過ごしたいだけなのだ。
それなのに次から次へと邪魔が入る。
「公爵閣下! 新法案の決裁を……」
「あー、それは全部そっちでいい感じに処理しておいてくれ」
「閣下! 帝国との国境線の件で……」
「うん、ヘンドリックに丸投げしておいて」
「閣下! ダルム公国の民から歓迎の式典の要請が……」
「断っておいて。俺は忙しい」
(忙しくはないが)
「きゃあああっ! 旦那様が部下を完全に信頼して権限を委譲されるなんて、上に立つ者として理想のお姿ですわ!」
ファンクラブの令嬢たちが悶え転がる。
(丸投げと権限委譲は違うんだが)
俺は書類の山をヘンドリックに全部押しつけ、イレーネの手を取った。
「イレーネ。二人でゆっくりしたい。今日は誰も入れない部屋に引きこもろう」
イレーネが、ぱあっと顔を輝かせた。
「……旦那様が、そんなことを……! わたくしと、二人きりで……!」
「そうだ。邪魔が入らないように、部屋に鍵をかけて、仕事も全部断って……」
「わかりましたわ! お任せくださいませ!」
俺が言い終わる前に、イレーネが俺の腕を放して何やらファンクラブの令嬢たちと小声でひそひそと話し始めた。令嬢たちが「かしこまりました!」と目を輝かせて散っていく。
(……なんだ?)
首を傾げていると、三十分も経たないうちに変化が起き始めた。
まず、執務室に来ていた官僚たちが「本日の書類は明日に回すことになりました」と言いながら全員退室していった。
次に、廊下をうろついていた貴族の使いや伝令兵たちが、ヘンドリックによって「本日閣下は一切の面会をお受けになりません」とあっさり追い返された。
さらに王城の中庭では、令嬢たちが「今日は閣下と姫様のお時間ですの。ご用があれば明日以降に」と、やってくる来訪者を笑顔で次々と撃退しているのが窓から見えた。
「……お前、何をしたんだ」
俺が目を丸くしてイレーネを見ると、イレーネはにっこりと微笑んだ。
「旦那様が二人きりになりたいとおっしゃったのですから、そのようにしなければなりませんでしょう?」
「それは俺がやることじゃないのか」
「旦那様がそういったことを自分でやろうとすると、たいてい一時間かかっても終わらないのですわ。だから私がやりました」
(……確かに)
「しかも皆が喜んでやってくれましたわ。旦那様のために動ける、と嬉しそうでしたよ?」
俺は窓の外を眺めた。
中庭では、令嬢たちが実に楽しそうに来訪者を捌いている。ヘンドリックも嬉しそうに書類を仕分けしている。日陰の夫たちは廊下の警備を買って出ていた。
(こいつら、全員本当に喜んでやってるのか)
「旦那様。準備が整いましたわ」
イレーネが俺の手を取り、王城の奥へと引っ張っていく。
連れて行かれた先は、いつも書類仕事に追われていた執務室の奥にある、鍵付きのVIPルームだった。
扉を開けると、テーブルには二人分の食事が用意され、暖炉には火が入り、窓にはカーテンが引かれて外の喧騒がすっかり遮断されていた。
「……お前、ここまで準備してたのか」
「あら、当然ですわ。旦那様がゆっくりしたいとおっしゃるなら、わたくしが完璧に整えて差し上げます。それがわたくしの役目ですもの」
イレーネがすました顔でそう言ってから、少し頬を赤らめた。
「……それに。わたくしも、旦那様と二人きりになりたかったのですわ。ずっと」
「そうか」
俺は思わず笑った。そしてイレーネの腰を引き寄せて、その頬にそっとキスをした。
「ひゃっ……! だ、旦那様、急に……」
イレーネがたちまちぐにゃりと溶け始めた。
「ま、まったく……ずるいですわ旦那様……こんなの、心臓が……ふにゃ……」
しばらくして、ふにゃふにゃのイレーネが落ち着いたころ、静かに俺の胸に頭をもたせかけながら言った。
「旦那様、少しよろしいですか」
「何だ」
「貴族のことです」
「……聞く」
「旦那様は、貴族が贅沢をするのはただの見栄だと思っておられますか?」
「……正直、そう思っていた」
「違いますわ」
イレーネが少し体を起こした。
「領主の屋敷が立派であれば、領民はそれを誇りに思いますわ。自分たちの領主は立派だ、と。みすぼらしい領主では、領民は不安になります。この人は本当に私たちを守れるのか、と」
「……後方支援でも、指揮官が締まりのない格好でいると部隊の士気が下がる。それと同じか」
「そうですわ。言葉遣いも同じです。頼りなく見える人には、人はついてきません。少なくとも初めて会う相手には」
「……なるほど」
「それに旦那様、贅沢には責任が伴いますわ。立派な屋敷に住み、一流のものを身につける。その代わり、領地を守り、領民の暮らしを守らなければなりません」
俺は少し黙った。
(確かに。補給を受ける者には補給線を守る責任がある。それと同じだ)
「もう一つ」とイレーネが続けた。「領主は自ら率先して動いてはいけませんわ」
「……動いてはいけない?」
「旦那様が全部やってしまえば、部下は育ちません。やる気も失います。部下に任せて、部下に手柄を立てさせる。それが領主の仕事ですの」
「ただし」とイレーネが続けた。「任せる代わりに、手綱は握っておかなければなりませんわ。部下が領主の目を盗んで私腹を肥やすことがないように。何が起きているか常に把握しておく必要がありますの」
「ヘンドリックに任せれば十分だろう」
「今はそうですわ」とイレーネが穏やかに言った。「旦那様には実績がありますし、皆が恩を感じていますもの。でも仕組みとして知っておくべきことですわ」
「……そうだな」
「それと旦那様、外では感情を見せないでくださいませ。弱みを見せるのは信頼できる相手だけで十分ですわ」
(後方支援でも、指揮官が不安を顔に出せば部隊全体が動揺する)
俺は少し黙ってから言った。
「……お前は、俺のことをよく見ているな」
「当然ですわ。わたくしの旦那様ですもの」
「一つだけ聞いていいか」
「何でしょう」
「なぜ今、これを話した」
イレーネが少し頬を赤らめた。
「……旦那様がこれからもっと大変になる前に、知っておいてほしかったのですわ。わたくしは旦那様のそばにいますけれど、外ではわたくしが補えないこともありますから」
「……頼りにしている」
「チュッ」
「だから突然するな」
「ふにゃ……」
「ま、まったく……ずるいですわ旦那様……こんなの、心臓が……ふにゃ……」
さっきまで完璧に段取りを仕切っていた有能な妻が、頬を抑えてソファにへたり込んでいる。
(本当に、何この可愛い生き物は)
「さあ、ゆっくりしよう。誰も来ない」
「……はい。旦那様」
ふにゃふにゃのイレーネを抱き寄せながら、俺はようやく本物の平穏を手に入れた気がした。
外では令嬢たちがせっせと来訪者を捌き、ヘンドリックが書類を片付け、日陰の夫たちが廊下を守っている。
(……まあ、こういう平穏の形も悪くないか)
連邦の命運を部下とファンクラブに完全丸投げした新米公爵は、こうしてようやく、ただ妻と二人きりでいるという、最初から望んでいたことを手に入れたのだった。




