第三十五話 3億円の溝
信濃銀行本店 六階会議室。
机の上には、まだ湯気の残る茶碗が並んでいた。
李が言った。
「五億五千万円」
その数字が静かに置かれる。
岡谷は腕を組み、しばらく黙っていた。
その表情は、さっきまでの軽い笑みとは少し違っていた。
やがて口を開く。
「……正直に申し上げましょう」
湯沢と李を見る。
「この土地を当行としては」
一度、言葉を選ぶ。
「十五億以上で売りたい」
若い行員が一瞬だけ岡谷を見る。
湯沢は落ち着いて聞いた。
「理由は?」
岡谷は言う。
「簿価」
指を一本立てる。
「十億」
そして続ける。
「それに二十年以上の草刈りなどの管理費、固定資産税などなど」
指をもう一本立てる。
「合計で約五億」
李が頷く。
「なるほど」
岡谷は続けた。
「つまり、銀行としては十五億が損益分岐点」
沈黙が落ちる。
湯沢は静かに言った。
「しかし、市場はそこまで評価していない」
岡谷は小さく笑う。
「その通りです」
少し間を置く。
「ですから売れなかった」
会議室が静かになる。
李が言った。
「正直ですね」
岡谷は肩をすくめた。
「この部屋には投資家しかいませんから」
そして少し姿勢を正す。
「もう一つ」
湯沢を見る。
「私個人の事情もあります」
若い行員がわずかに目を伏せた。
岡谷は淡々と言った。
「この案件…二十年前に始まったものです。
そして現在なんの因果か私が担当部長」
湯沢は黙って聞く。
岡谷は続ける。
「銀行には人事があります」
少しだけ笑う。
「ご存じでしょう?」
湯沢は苦笑する。
「ええ」
「霞が関も同じです」
岡谷は言った。
「この土地を十五億以上で処理できれば」
一拍置く。
「私は次の役員候補です」
会議室が一瞬静まる。
若い行員が目を伏せる。
李は静かに言った。
「なるほど」
岡谷は続けた。
「逆に安く売れば損失処理で評価は下がる」
そして淡々と結論を言った。
「つまり、どこまで価格を引き上げられるかが、私の勝負です」
沈黙。
囲炉裏はないが、この部屋にも静かな熱があった。
李が言った。
「では」
岡谷が見る。
李は静かに言う。
「こちらも正直に申し上げます」
少し間を置く。
「我々の上限は」
湯沢が横で息を整える。
李は言った。
「現金で十二億円です」
岡谷の眉がわずかに動く。
李は続ける。
「それ以上はファンドが成立しません」
岡谷はしばらく黙った。
やがて小さく笑う。
「なるほど」
机を指で軽く叩く。
「こちらは十五億。そちらは十二億」
少し肩をすくめる。
「三億の溝」
湯沢は静かに言った。
「交渉とは」
一拍置く。
「そういうものです」
岡谷は面白そうに笑った。
「ええ」
そして前に身を乗り出す。
「では」
「その三億を」
ゆっくり言う。
「どう埋めますか?」




